よしなごと徒然草: まつしたヒロのブログ 

自転車XアウトドアX健康法Xなど綴る雑談メモ by 松下博宣

畏友は書斎にあり、書斎は畏友にあり。

2006年07月21日 | No Book, No Life
ちょっと前に遊びがてらに訪れた畏友、麻生川静男兄の東京別宅は、東西古今の古典に埋め尽くされた古書、漢籍、洋書の巣窟。世の中、書斎ブームとは聞くが、書斎とは本棚、椅子、机ではなく、本が主人公であるべきだ。

その意味で麻生川別宅は惜しみないほどに本が主人公であり、生活の場をことごとく占拠している。氏の凄いところは、主要な書籍の奥つけあたりに、びっしりとその書物の枢要な論点、他の書物との関連などを微に入り、細を穿つようにノートしていることだ。これにより、書物と書物の関係、書物と読書人の問題意識の関係がわかるようになっている。

英語では、その人の知識の全体を"frame of reference"というが、なるほど氏の蔵書は、それら自体がこのように生きた知的枠組みを、芳醇な書物の香りとともに形づくっているのである。古典の引用力の凄まじさは、生半可な研究者以上のものだ。しかも、麻生川兄のオモシロイところは、学部、大学院(修士、博士)ともに、ばりばりの工学系、情報科学系でありながら、人文系の古典教養に強烈なオリエンテーションを示しているところ。こういう人はそうそういない。工学系の人たちで古典教養には無縁な人が僕のまわりにはいっぱいいるのだが。。

さて、面白いものをかしていただいた。氏は、読書人であるばかりではなく、知的枠組みを常に拡大、あるいは枠組み自体を揺らめかせて遊ぶ。韓非子を朗読した肉声入りのメディアと韓非子の原文テキストをいただいた。

原文テキストで漢字を追いながら、韓非子の朗読を聴く。不思議とスーと、頭に入ってくるのである。漢字を読みながら、たぶん左脳で意味を紡ぎ、それと同時に音声が入ってくると頭のどこかで、意味と音声がうまく統合されて、認知活動がはかどるのか?ラーニングの新らしい様式を、埋もれ行く古典を素材に実践しているのは、趣味をすでに超越した、サービス・イノベーションでもある。

「これって、売れますよね」
「いやいや、趣味としてやっているだけだよ」
「いやー、もったいない!素読の新しい形として世に出しましょうよ」

なんて会話が続いたが、なるほど、書斎は人を語って余りある空間だ。
持つべきは読書人の畏友か。