かつて江戸や明治のころ、身分制が残る時代では、先祖から受け継いだ職業で一人前の職人になることこそが多くの人びとの目標でもありました。そして、さらにその先を目指すのは「名人」への道でした。
それが近代に入ると、賃労働型の労働が一般的になり、一つの技能のみで一生働くことは稀になり、むしろ平均点の高い労働力こそが求められるようになります。その頂点が、英数国の3教科こそが高い配点比率を占める受験システムであり、いかなる配置転換も組織の要求にも対応できるタイプの人材育成を重視する社会のはじまりです。
それは平均点の高い人間とその先の「秀才」の育成こそが第一目標とされる社会なので、英数国の平均点をあげられない特殊な資質をもつ子どもは、どんなに特定の才能に長けていても、その分野の最先端を目指すことはとても不利な社会です。事実、基礎学力こそが大事とは言いますが、今の日本で最先端の専門技能を得るためのスペシャルな教育環境は、そうした受験システムの問題だけでなく、莫大な教育投資余裕のない家庭から這い上がることは、かなり厳しいものがあります。
努力したものこそが報われることは大事ですが、今のこの社会システムは、意外と多くの人にとっては「生きづらい」ものです。この意味では、むしろ落ちこぼれや不登校の子どもたちの方が、無理に環境に適応できる子どもたちよりも健全な感性を持っていると言えそうです。
でも、そんな時代はようやく終わろうとし始めています。
現実には、今の教育業界の人びとの意識を変えることの困難はありますが、世界の現実がどんどんそうした意識を吹き飛ばすような変化が現れているので、予想以上にこの変化は早く訪れるのではないかと思います。
それは、すべての子どもたちが天から与えられた才能や能力を伸ばすことこそを第一に考えられた社会で、現在のような平均的な秀才をより多く育てることを目標とした社会からの卒業を意味します。
五味太郎『大人問題』講談社文庫(2001年)
この表紙デザインには「おとなはもんだい」
「おとながもんだい」
「おとなのもんだい」 が描かれてます。
ここでいう天から与えられた才能=「天才」とは、何もピカソやダビンチのような才能や、ノーベル賞をとったりGoogleのような先端企業で働くような人材のことばかりを言うのではありません。
そもそも子どもは、もともと誰もが「天才」であるからです。
本来、この世に生まれたすべての子どもには、天から与えられた才能があるはずです。
もちろん、生まれたままの姿で誰もがその才能を開花するわけではありませんが、金子みすゞや山下清などの感性は、多くの人間がもともと持っているものです。もともと天才と言って良いほどの才能、生命力を持つ子どもを「大人」こそが、あるいは「社会」こそが潰しています。人それぞれに天から与えられた才能を存分に伸ばすことこそが、本来の教育のあるべき姿であるはずなのに。
人は、オギャーと生まれた瞬間から生きていくのに必要な、高度な脳の働き、視力、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、筋力、運動能力、コミュニケーション能力などの基礎的素養をすべて備えて誕生しています。それらの能力、資質のどれをとっても無限ともいえる可能性を誰もが備えています。
確かに個々の人間に備わる天から与えられた才能の何が開花するかなど、事前にわかるものではありません。だからこそ、教育の現場では、個々の人間の興味、関心、疑問に応えていくことこそが基本で、元来、全員が同じ教科書で同じスピードで学ぶことなどそもそも論外のはずです。
そうしたことを劇的に可能にする社会の裏付けのある理由がふたつ思い浮かびます。
一つは、人類の共通遺産である膨大な知識が、社会全体の公共財として、子供の親の所得や生育環境の違いに関わりなく、地球上の誰もが享受できる可能性が開けたからです。
突破口としてネット上の無料で得られる公共情報が加速的に増えていくことで、膨大な知識を覚えることの必要性が減少し、知識をためるような学習は急速に陳腐化していきます。その分、子どもたちは初級、中級、上級などという段階にはとらわれずに、どこからでもいくらでも必要なことを学び、興味がわいたことにのめり込んでいけるようになるわけです。
何事でも基礎は大事ですが、小さいうちの読み書き計算、体づくりさえ徹底すれば、現在の中学、高校で学んでいるような知識は莫大な無駄にしか過ぎません。たとえ若いうちに学ぶことを逸した分野に大人になって気づいたとしても、気づいた時こそが最大の学びのチャンスなわけですから、40になろうが、80になろうが、その時こそ学べば良いわけです。
いま大人の勉強というと、カルチャースクールや趣味の世界ばかりが目立ちますが、まさに生きて行くために大事なことを年齢に関わりなく、必要性を感じた時に、学びたいと思った時こそ学べる社会が本来あるべき姿です。それがようやく可能になり始めているわけです。
学校の勉強さえしっかりすれば、世の中生きていけるなんて勘違いは、すでに通用ししない時代になっています。
もう一つの面は、AI(人工知能)の劇的な発達と普及です。
誰もがその道に入る限り、その道を極めていきたいものですが、名人のもとで修業を重ねてもなかなか名人を乗り越えることはできないものです。
名人や天才の世界とは、常にその人固有の世界であるからです。
ところがこれから人工知能が一般の暮らしに普及しはじめると、常に世界の最先端の頭脳に誰もが接することができるようになるわけです。
もちろん、いかなる領域であってもその最先端を理解するには、身体的・精神的訓練の積み重ねが不可欠ですが、その努力のプロセス自体が、教える側の能力や資質、それを得るための経済力などに制約されることなく、誰もが吸収できるようになりはじめるのです。これは学ぶ側と同時に教える側にも同時並行で起こることです。
ホモサピエンスの長い歴史のほんの一瞬の間に、私たちは前頭葉肥大いというアンバランスな身体と精神を獲得してしまいました。それがようやくAIと外部記憶装置の発展によって解放され、健全な身体機能と感性の回復に努めることが可能になりだしたのです。
よくこういうことを言うとすぐに、それでは世の中の競争はどこで成り立つのだといった話しに持っていかれますが、そもそも人が目指すのは、「他人との比較」ではなく、昨日の自分との比較こそが大事なはずです。
他人や世間がどうであれ、昨日の自分よりも今日の自分が進歩していることこそがなによりのことであるはずです。
また、変わる自由が社会で保障されてこそ、変わらない自由もあえて選ぶことも可能になるのだと思います。
そもそも「秀才」という言葉自体が、他人との比較でなりたつものなのに対して、「天才」という言葉は、はじめから他人との比較は成り立たないものです。
そもそも「天才」とは、一部の人間だけに与えられた才能という意味ではなく、誰もが天から与えられているはずの才能をどのように気付き、発見し、伸ばすかの問題だと思います。
この辺のことを、受験生をかかえているパートさんに話しても、いまひとつ通じなかったのですが、世間の評価が高いことを目標にするのではなく、子どもひとりひとりが興味を持ったことを最大限に伸ばしてやれる社会こそが、本来の教育のあるべき姿であり、自然に「天才」がいたるところから生まれ出てくる社会なのだと思います。
そもそも子どもたち全員に、同じ教科書を与えて、同じスピードで授業を行うことが、どれだけ無茶なことであるか、もう気づかなければいけません。
いま、こうした「常識」がようやく広がり、誰もが天才で、誰もがアーティストになれるすばらしい時代の幕開けを感じる今日のこごろです。