本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

山法師の花

2020-04-21 17:35:16 | フラワー

裏に植えた一本の山法師

宇治に居を構えて

自分を重ねるようにとの思いから

この木を選んだのですが

なかなか花も付かず

土になじまないのか

心配していましたが

やっと多くの花を付けたようです

 

 

下の枝の葉は

まだまだ若い葉ですが

上の葉はもうすっかり

 

 

生い茂って来ています

これから暑い盛りには

涼しい木陰を作ってくれます

 

2階の窓越しに見ると

白いものが??

 

 

小さいながら出始めています

 

 

葉の中に隠れるように

顔を出しました

これから次第に大きくなって

いくことでしょう

 

本によると

花が終わると実を付け

その実はマンゴウのような

味がすると、

ちょっと驚きですが

意外な発見です。

 

山法師の名の由来も

その姿から

白い花びらを

比叡山の山法師(頭に白い帽子)

に見立ててその名が付いた

ということです。

 

また、下を見ると

ダンゴムシが忙しそうに

動き回っています

 

 

ここのところじっとしている

私には羨ましくも見えてきます

まあ、しばらく見ていると

何がそんなに忙しいのだろうかと

思ってしまいます

しかし、彼は彼の世界で

一生懸命働いているのです

 

ダンゴムシは落ち葉を食べて

土壌を豊かにするという良い面と

また、作物の芽を食べるという

害虫の面を持っています

ここには作物はないので

小さい所ながら

この周りの土地改良をしている

ということですね。

 

今は私たちも家という

小さな世界でそれなりの活動を

一生懸命していることが

一番大切なことのようです。

 

 

 

 

 

 

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牡丹落花

2020-04-20 20:40:12 | フラワー

豪華絢爛に咲いた牡丹の花も

最後の一輪が咲いて

今年の花はこれが見納めです

 

 

前の二輪は落花してしまいました

というより

本体が痛まないようにと

切ってしまったのです

 

 

最後の一輪

もう満開もやや過ぎて

花びらも風に踊っているようです

 

今頃はもう

桜も散ってしまったでしょう

 

「うらみずや うき世を

  花のいとひつつ

 さそふ風あらばと

   思ひけるをば」

 

と、藤原俊成の女とありますが

養女にした孫娘です

素晴らしい詠み手で、

この歌も

「人は恨まないのだろうか

 つらいこの世の中を

 花が厭わしいと思いながら

 誘う風が吹いてきたら

 いっそ散ってしまおうと

 思ったことを」

という意味を含んでいます。

 

私たちは花を楽しんで眺め

愛でていますが

花自身は

時期がくれば散っていきます

花を咲かすのも全力のハタラキ

それが終わると

今度は次の準備で

葉を思いっきり広げ

養分を蓄える作業に

入っていきます。

 

しかし、

花だけが美しいのではなく

新芽を出し始める

燃えるような葉のつぼんだ姿

その葉が開き

花芽を膨らませて

開花して散っていく

寒さに向かって力を蓄え

根を養い育てていきます

そして葉を落とし

幹だけになって

寒い冬を迎えます

寒さに逆らうことなく

ジッと耐えて次の春を待つ

 

咲くだけが美しいのではなく

どの一瞬にしても

それぞれが美しいのです

 

私たちも

生老病死、どの一瞬も

美しくありたいものです

我執を離れたところに

美しさが生まれるように

思うのですが

 

「初めも美しく

 中も美しく

 終わりも美しくあれ」

 

とは、お釈迦さまの言葉ですが

そのようにありたいものです。

 

 

 

 

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佞人の讒言(ネイジンのザンゲン)

2020-04-19 19:52:09 | 漢字

「佞」ネイ、という字も

あまり見かけない字です。

仁と女からできています。

訓では「おもねる」といいます

意味は、

ことばたくみなことが原義で

ひいて才能あることを意味し

それから、

口先だけで誠意のないこと、

よこしまなことを意味するように

なってきました。

 

それで、佞人というのは

口先がうまくて人にへつらう

とあります

他の熟語にしても

佞才-口先がうまくて

  人にへつらう。

佞弁-人に調子を合わせてへつらい

  気に入るように言うこと。

佞言-こびへつらう言葉。

というように

あまりいい意味では使わない

ようです。

 

讒言ということも

あることないことを言いつけて

人をおとしいれる

ということです

「讒」という字も

毚と言遍から出来た字です

毚(サン・ザン)という字は

ウサギが二つ重なった字で

おおうさぎとかずるいウサギ

という意味があります

それで、

讒という字は、

そしる、悪口をいう

つげぐち、へつらう、よこしま

という意味があります。

 

この字を知ったのは

NHK大河ドラマの「麒麟がくる」

ということで、

例の磯田先生、古文書を見ると

そこに出ていたのが

光秀の謀反ということで

新しい資料の中に

その裏切りは

ある人物(佞人)の讒言による

ということが出てきたのです。

 

その背景には

光秀をそそのかしたというか

讒言を言って仲を裂いた

ということがあったということです

新事実のようですが

大河ドラマではこのことが

どう取り上げられるか

興味深いところです。

 

佞人の登場があるのか

それはぼやかして

讒言ということが

取り上げられるのか

まだまだ先のことですが

そういうことを

頭に入れておいて見るのも

ドラマが

どのように進展していくか

光秀の心理状態を

どのように表現するか

面白く見ることが出来るようです

 

まあ言葉というのは

実に面白くもあり

助ける道具にもなり

勇気づけるツールにもなり

傷つけたり陥れたり

一つの言葉でいかようにもとれる

大切なものです。

 

それで、

「真言宗」ではないですけど

真言、真の言葉とか

また、十善戒のなかでは

四つ言葉に関する諌めがあります

妄語・綺語・悪口アック・両舌です

 

妄語というのは

嘘を言ってはいけない、

 

綺語は今でいうお世辞です

この言葉は人を心地よくする

ということで悪くないようですが

あまりにも言い過ぎると

自分の心にわずかに残っている

良心さえも失うという

可能性があるということです

 

悪口これはアックと読みます

普通にいう悪口ワルクチです

わるくちは面白いものです

話題の中心にないrます

 

両舌は二枚舌で

離間語ともいい

人と人の間を割く言葉です

自分を大事に思ってもらいたい

ために人と人の間を割き

自分というものを主張したい

という心が根底にあるようです

 

というように

言葉一つで天下も変わるし

人と人の間も変わるものです

あだやおろそかにできないのが

ことばです。

 

 

 

 

 

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最後の事業を起こす!!

2020-04-18 20:33:39 | 住職の活動日記

今、若い方の間では

クラウドファンディングとかで

資金を募り事業を起こす

ということが注目を集めています

やはり自分で起業するということは

やってみたいことですね。

 

この年になって何をいまさら

事業を起こすってか?

血迷ったか!

 

以前、

京都から自坊に帰り

やっとお寺の成り行きも軌道に

乗ってきたころ

師匠の三浦先生から電話

近況伺いの電話です。

 

「葬儀や法事でお寺も忙しく

何かとばたばたとしています」

すると

「呑気な話やね!

出家したら一番先にやることが

あるだろう」と

何か冷や水を浴びせられるような

一言でした。

頑張ってるね!よくやっている

という言葉をもらえると

思っていたのが

何を呑気に構えているのか

出家の意味を明らかにすることが

一番の問題だろうということです

 

仏教には、

真俗二諦(シンゾクニタイ)

ということをいいます

「諦」という字は

あきらめるとも読めます

それが仏教では真理という意味で

使うのです

諦める、ということも

ただ仕方なしに諦めるのではなく

本当は、

物事を明らかに見た、見切った

それで、よし!

ということで諦めがつくのです。

 

真俗二諦というのは

真諦と俗諦ということで

真諦とは

「勝義諦」とも「第一義諦」とも

いいます

出世間的真理ということで

第一義諦ともいうように

まず第一に考えなければならない

ことをいいます

俗諦とは世間的真理です

 

俗諦ということもとても大事で

世間の真理がないと

真諦を説明する手掛かりが

なくなってしまいます

また、

真諦がないと方向性をなくし

ただ世間の損得勘定だけになって

しまいます。

 

ということもあって

ふと思い出したのは

安田先生の言葉で

「何も世間的事業を起こすだけが

事業ではなく

自分自身を見つけるということが

一番の事業じゃないか」

という一言です。

 

お寺にいるということは

普通から見れば読経して

静かに禅を組んで瞑想する

という一面もありますが

一つの門構えを構えるというと

そこには経営という問題も

出てきます

まして、職員がいるとなると

世間的な法律の問題

コンプライアンスとか

公性も問われてくるのです

自分一人では済まない問題が

多々生じてきます。

 

片方では仏道を求めつつ

もう一方では経営という問題も

おろそかにできません

この両輪をいかに

うまくやっていくかが

これからのお寺に問われている

大きな問題です

 

では、静かに山にこもり

仏道を求めるというと

仏道が生きて働く手がかりを

なくしてしまいます

反対に、坊さんも食うためには

儲けなければとなると

本来の坊さんの意味を

なくしてしまいます。

 

お釈迦さまは

富も位も捨てて出家された

のに、

ややもすると坊さんでも

富や位を求めるために

奔走している方もおられます

それはそれなりの

意味があることでしょうし

求める方の価値観の違いです

 

先が見えてきた今

今こそ自分を探求するという

自分自身を知るという

この一大事業を起こす時では

ないかと思うのです

人間とは何か

自分とは何か、生まれた意義は

なんだか

高校生の時に起こしたような問題

ですが

やはり考えておかなければ

生まれてきたことが無駄死に

なってしまいそうです

ただ、飯食って家庭もって

仕事して死んでいくだけでは

あまりにもさみしい。

 

そんな単純なことから

これという解決は

ないかもしれませんが

何事にも不思議を感じ

求め続けていく

その道程が大事なのだと思います

 

それこそが大事業ではないかと!

 

 

 

 

 

 

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ハタラキさま・サムシング.グレート

2020-04-17 20:21:46 | 住職の活動日記

葉を出し、花を付けて

花を開かせ、そして散っていく

私たちは咲いた花だけに

目がいきがちですが

花にとっては

目に見えないところで

たくさんのはたらきがあるのです

 

 

満開に咲いた牡丹も

もう、花びらもバラバラになり

今にも落ちてしまいそうです

 

 

よく見ると

雌しべを中心に雄しべが

取り囲んでいます

実に不思議な姿です

咲いて散って

次のハタラキを準備している

ようでもあります

 

 

ふたつめの牡丹も

開き始めました

 

雨が降り、日が照って

土の中から養分を吸い上げ

成長していく

ここに大きなハタラキを感じ

昔の人は

「はたらきさま」と呼んで

感謝したのでしょう

 

それを横文字でいうと

村上和雄先生は

「サムシング・グレート」と

呼ばれています

何かわからないけど

そこには大きなハタラキがある

そのハタラキそのものを

偉大なるハタラキと、

サムシング・グレートと

 

私たちが毎日おいしく頂くご飯も

胃の中で消化され

腸で吸収され

それが血となり肉となって

私たちの身体をささえている

当たり前といえば当たり前

けれどよく考えてみると

何がどうなっているのか

不思議なことだらけです

 

自分でやっているようですけど

いろいろな細胞や菌や酵素の

お陰でこういうハタラキが

目に見えないところで

行われているのです

ここに、今問題の

コロナが入ってくると

突然にこのハタラキは

狂ってしまいます

 

自分でやっているようですけど

こういう問題にぶつかると

自分がやっているとは

いえないような気がします

大きなる他のハタラキのお陰です

ありとあらゆる他のハタラキの

お陰で生かされているといっても

過言ではないように思います

 

生死岸頭に立つ

という言葉もあったように

思いますが

人間の生き死には

崖っぷちに立っているような

もので、いつ落ちるか分からない

そういう不安定な所にいるのが

人間の生きているという

ことではないかと

 

ですから、

すべてのものが生きている

ということは

ただ事ではないということです

 

こういう花々を見ていても

咲けば散り、散ってはまた咲く

そのハタラキたるものや

それこそ偉大なるなにものかが

あるように感じます

 

三度三度美味しくいただき

そして出るものが出て

日々元気でいられるということは

何ものにも増して

凄いことだと感じざるを得ません

 

さいわい今は

ステイ・ホームということで

静かに家にいることは

何かしら心を内に向けて

見直してみるというのも

とてもいい機会ではないかと

思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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利他主義と自利利他

2020-04-16 19:30:10 | 住職の活動日記

先日のテレビでの対談

このパンデミックで

大きく世界が変わろうとしている

そういうことについて

フランスのジャック・アタリ氏は

「利他主義」ということが

これからの世界では必要である

ということを唱えておられます。

 

なんとかファースト

ではないですが

自国さえよければいいという

時代はこれからは通用しない

のではないかと

他と共に共存することで

この世界は成り立っている

今こそ

利他主義(altruism)

を見直さなければならないと

警鐘を鳴らしておられます

 

「altruism」利他主義

聞きなれない言葉ですが

反対語は

「egoism」エゴイズム

この言葉は聞きなれた言葉です

翻訳の時、仏教語である利他を

内容から当てたということです。

 

この利他主義も古くは

オーギュスト・コントが唱えた

言葉のようですが

ジャックアタリという方も

この意味に立ち返らなければ

これからの世界は

成り立たないだろうと

言っておられます。

 

仏教では「自利利他」といい

最澄は「忘己利他」モウコリタ

(己を忘れ他を利するは

 慈悲の極みなり)

と説いておられます。

最近では

京セラの稲森さんが

「利他の心」ということを

主張しておられます。

「愛」とは

他人の喜びを自分の喜びとする心

「誠」とは

世のため人のためになることを

思う心、

「素直な心」とは

自分自身のいたらなさを認め

そこから努力するという

謙虚な姿勢、

という、

自分さえよければいいと

いうのではなく

他ということを大切にする

利他の心を主軸において

自分の生きる姿勢とされている

ようです。

 

東洋と西洋の利他ということ

ジャックアタリさんの話を

聞いていると、

利他主義といっても

合理的利他主義といっておられ

それは

他者のために生きるということは

ひいては自分の利益になる

合理的で最も自己主義という

回り回って自分に戻ってくる

という利他主義です。

 

このことも素晴らしいことです。

 

コロナという眼に見えない敵

意外なことで今までの価値観が

崩れていっているようです

目に見えた激しい相手でもなく

目にも見えず静かに浸透して

人間の社会を破壊していく

自粛という行動規制がかかると

ありとあらゆるところで

今までの

経済が止まってしまいます。

 

これから大きな価値の転換が

あるのではないでしょうか。

 

仏教での自利利他ということは

一つの象徴的な話として

聖徳太子が大切に思われた

施身聞偈セシンモンゲと

捨身施虎シャシンシコの説話があります

施身聞偈は

教えを聞くために

自分の身を投げ出す

という話です

これなら何とか分かります

ところが

捨身施虎という物語は

腹をすかした虎の母親が

あまりの空腹に

我が子を食べようとしている

そこで、修行者は自分の身を

虎に投げ出すという話です

 

教えのために我が身を捨てる

というのは何とか

本当の教えを得るということは

自分の命を捨てて求める

ということです

ところが

飢えた虎に自分の身を投げ出す

というのは理解できません

何の見返りもないのです

しかしそのことが

本当の利他行なのです。

 

稲森さんも述べておられます

飛行機時事故で一人の男性が

自ら助かるというその瞬間に

そばで力尽きそうな女性を

先に助け、自分は水の中に

消えていってしまったという

そういう

他のために尽くすという

心を本来持っていると

仰っておられます。

 

今の平時の考えでは

頭の中はソロバンしかありません

ものごとの基準は損得勘定です

しかし、心のどこかに

他のために尽くすという

本当の心を持っているのです。

 

六波羅蜜の布施の行でも

人に施しをすれば

その功徳が回り回って

自分に帰ってくる

だから布施の行を勧めている

のではないのです

自分の物惜しみの心を対治する

エゴの対治として

布施の行があるということです。

 

西洋東洋では

「利他」ということも

違いはあるかもしれませんが

これからの世界は

自分さえよければという

ファーストという考えは

通用しなくなり

利他ということが見直され

新たな価値観が生まれてくる

ような気がします。

 

 

 

 

 

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開き始めた牡丹の花

2020-04-15 16:19:17 | フラワー

今朝には開き始めました

 

 

しかし、風がある

花が揺すられて

きれいに花びらが

開かないかもしれない

 

ちょうど

蓮の花でいえば

未敷蓮華ミフレンゲという姿

仏さまでいえば

さとりを開く一歩手前の菩薩

それで菩薩の坐る蓮の花は

未敷蓮華

これからちょうど咲こうとしている

状態です

 

 

二番目の花もまだつぼみ

それから三番目の花も

 

 

もう少し固いつぼみです

 

それが昼を過ぎる頃には

 

 

ほぼ開きました

風のせいで形よく開かないで

花びらが散らかった様子です

 

さっきの蓮でいえば

開敷蓮華カイフレンゲ

開ききったすがたです

仏さまでいえば

仏・如来が坐る蓮の花です

満開のさとりを象徴しているのです

 

 

この姿、明日まで

そのままでいてくれるでしょうか

 

仏さまが坐られる座も

違いがあって

仏は開敷蓮華、菩薩は未敷蓮華

そして、天部の仏は

蓮の葉っぱで苛葉座カヨウザです

 

 

葉の部分です

仏の世界も坐るイス(座)が

違うというのも面白いですね。

 

 

 

 

 

 

 

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牡丹の花が開きそうです!

2020-04-14 20:35:45 | フラワー

蕾もだんだんと膨らんできました

一昨日からの雨

雨に打たれて花びらが

落ちては大変と

玄関先の庇の所へ移動させました

 

 

3輪あった蕾も順に開くようです

この蕾は真ん中です

一番小さいつぼみはまだ

ピンクの花びらさえ

見せていません

 

 

この蕾が一番先に開きそうな

牡丹です

ところが今日はとても風が強く

結構、揺すられていました

 

 

風なのか咲き始めているのか

花びらの一枚だけが

離れそうになっています

この気配ですと

明日にも開く様子です。

 

牡丹という花も

漢字で書いてみると

ちょっと不思議な気もします

「牡」という字は

牛へんの字です。花なのに

そして、「おす」という意味です

牡牝(オス・メス)のオスです。

また、

「丹」という字は

水銀という意味もあり

朱を表します。

お寺の赤い柱はこの丹です

丹の付く地名は

必ずと言っていいほど

水銀鉱脈のある場所です。

また、

昔は「仁丹」という

大人がよく口に入れていた

小さな粒がありました

これは「丹」という意味には

不老長寿の薬という意味もあり

この名が付いたのでしょう

 

それで「牡丹」という名前

ボタンは赤い花ですから

丹という字がついたのは

分かりますが

牡丹の「牡」は?

察するに

雄蕊(オシベ)から

きたのでしょうか。

 

何気なく当たり前のように

書いていますが

よく見ると面白いものです

また、この花は

たくさんの異名を持っています

中国名は「富貴花」

昔は中国の国花だったそうです

他にも

「百花王」「花神」「花中の王」

など、

いわれてみればなるほどと

思われる名前です。

 

これからが楽しみです

開いたらアップします。

 

 

 

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「山川異域・風月同天」&「温不増華・寒不改葉」

2020-04-13 20:54:54 | 住職の活動日記

コロナウイルス発生の時

日本から武漢へ

医療用マスクや医療品を

送りました

その時、段ボールの箱に

書かれていた言葉が

「山川異域・風月同天」

ということです

この言葉に

中国では大変感動したという

コメントが寄せられました。

 

それに対し

先日ですか中国より

サージカルマスクが30万枚

届けられたそうです

その時に書いてあった言葉が

諸葛孔明の

「温不増華・寒不改葉」

ということです。

 

こういう民際交流は

心熱くなるのもがあります。

日本から送った時の言葉は

古く、聖武天皇の頃(奈良時代)

長屋王が唐に送った千領の袈裟に

刺繍してあった言葉で

「山川異域・風月同天

 寄諸仏子・共結来縁」

という文句です

この言葉に感動して

鑑真和上は5回も失敗して

やっと六度目に渡航を果たし

日本に戒律を伝えました。

そのときにで来たお寺が

「唐招提寺」です。

 

その時、唐に向かったのが

第九次遣唐使です

その中には若き僧

普照フショウ・栄叡ヨウエイ達が

いました。

暴風雨に見舞われやっとの思いで

唐に着くことが出来ました

唐には阿倍仲麻呂もいたのです。

袈裟に書かれていた言葉も

鑑真の心を動かしたのでしょうが

やはり若き僧たちの熱意に

日本へ行く決心をしたのでしょう。

 

山川異域(サンセン イキヲコトニスレドモ)

風月同天(フウゲツ テンヲオナジウス)

寄諸仏子(モロモロノブッシヲヨセテ)

共結来縁(トモニライエンヲムスバン)

(共に来たって縁を結ぼう)

ということでしょう

 

日本から送る時に

よくぞ

この言葉を選ばれたと思います。

 

中国からもまた

諸葛孔明の言葉を添えて

送られたのもなんともいいですね

この言葉にも前後があって

「立派な人間の友情は

温かいからといって

花を増やすこともなければ

寒いからといって

葉を枯らすこともない

どんな時でも衰えず

順境と逆境を経験して

友情はいよいよ堅固なものに

なっていく」

という言葉が連なています。

 

いま中国は

いろいろの国にマスクを

送っておられるようです

困ったときはお互い様

一応の収束を見たので

送られているようです。

 

しかし、

このことも微妙な問題で

送りつつも

変わらず尖閣諸島には

巡視船が毎日のように来ている

また、

5Gの問題では

アメリカとの覇権争い

ヨーロッパではファーウェイは

いいものの

NATOとのつながりもあり

苦しい選択を迫られている

ということです。

 

自国ファーストというのも

自分さえよければいい

というのも問題ですし

すべてが国家に管理されていく

そういう体制も問題があるように

コロナウイルスという

意外な所から

世界のありようが変わろうと

しているような気がします。

 

注意深く見守らなければ!!

 

 

 

 

 

 

 

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「social distance」と「不即不離」

2020-04-12 18:13:11 | 住職の活動日記

コロナウイルス対策には

専門家の方が言っておられた

「まず近づかないこと」

防ぐにはこれしかない

ということです

 

テレビとかで見ると

外国のスーパーとかでは

丸い印があってその間隔が2m

行儀よく並んで順番を待っている

日本ではまだそこまで

徹底してないようです。

 

この2メートルの距離というのが

社会的距離(social distance)

とことです

しかし、飛沫が飛ぶ

ということになるとこの距離感も

どうでしょうか

5分間話すのと一回のくしゃみと

同じ飛沫が飛ぶということです

お互いのためできるだけ

人との接触を避ける

というのが一番の方法です。

 

ところで

この距離感が大切で

付かず離れず

というものでしょうか?

あまり離れてしまうのも

関係性がなくなり

近づきすぎるのも個人的に

なりすぎて危ない面もあり

ということがあって、

 

そこで思い出すのが

「不即不離」という言葉

ひとつには

つきもせず離れもしない

もう一つは仏教用語で

さとりと迷い

相反することのようですが

実は、迷いがあるから

さとるということもある

といえます

迷いと悟り、

逆説的にいえば

迷ってるということが

分かることは

さとりがあるからです

でなければ

さとりという真実があって

それからみたら

今の状態は迷っている

ということが分かるのです。

そういう意味で

「不即不離」

ということがいえると思います。

 

お釈迦さまは

一人でいても孤ではない

孤独ではない

みんなと一緒にいても

それに流されることもない

そこに独(独立)がある

といっておられます。

 

私たちの人間関係は

好きになるといつも一緒に

という具合にべったりと

反対に、

ちょっとしたことで諍いがあると

途端にその関係性は遠いもの

心が離れてしまいます

 

近づきすぎず

また、

離れてしまうのでもなく

その微妙な関係性

その距離感が大切です。

 

今は辛抱の時です

付かず離れず

その関係性を保ちつつ

できる限り「社会的距離」を

もって過ごさなければなりません

コロナに打ち勝つには

それしかないように思います

 

コロナという厄介な存在です

生きものでもなければ

ただの物質でもない

ひとたび宿主を得ると

生物のようになり

変異して姿を変え

次から次へと飛び回って

命を奪っていきます。

 

今しばらくステイホームで

いることにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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