本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

萌えいずる

2019-03-16 17:40:02 | フラワー

いのちの芽生えてくるような

力を感じる花が活けられました。

 

 

ぜんまいの2本がなんともいいですね

 

 

不思議なかたちです

茹でてゴマ油で炒めて

醤油で味付けしても美味しい

こうやって活けても

まさに今春という感じを

表現しています

 

 

チューリップも時期のもの

この薄いピンク色も淡い感じで

 

 

春の芽生えてくる優しさを

表すようです

 

 

真中ではやはりユリの存在感が

全体を締めているようです

 

 

周りにあるコデマリも

面白い線の形が花全体にボリュウムを

見せています

 

 

もの言わぬ草花ですが

よく見るとそれぞれが

語りかけてくるようです。

 

 

赤い色もわずか二輪ですが

絶妙のバランスを保っているようです

 

外を見ると、

山法師も目立ってはいないのですが

確かに芽を出す準備ができている

春は萌えいずるいのちのハタラキを

感じる絶好の時です。

名前も知らない野の花でも

誰に見られることもなく

小さな花を咲かせる準備中

散歩の途中でもそっと見てみると

なんだかうれしくなってきます。

 

 

 

 

 

 

 

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「ちちんぷいぷい」に熊本の蓮華院

2019-03-15 22:02:36 | 住職の活動日記

昨日の毎日放送「ちちんぷいぷい」

の番組に熊本の玉名にある蓮華院が

登場しました。

この番組の中の「修行場めぐり」

という企画、43回続き

今回が最後ということで

熊本の蓮華院での修行となりました。

 

「河田アナウンサー」と

「くっすん」という二人組が

各地のお寺で滝に打たれたり

水行したり、護摩の法要に参加したり

厳しい修行に挑戦するという

ことなのです。

 

煩悩を焼き払うという

その為の修行ということなのですが

番組の出演者から

これだけお参りして来たのだから

何か変わりましたか?

という質問が出て来ました。

 

河田アナウンサーはリードして

くっすんを引っ張るのですが

ダメキャラというか

根が正直というのでしょう

歩く途中でも根をあげてしまい

「がんばりや!」とか

「しっかりして!」という

あばさま方の激励が飛ぶという

そういうキャラクターなのです。

 

そのくっすんの一言が

なかなかすぐれていたのです。

「やればやるほど自分はあかん」

ということが見えてきた

というのです。

煩悩が少しは消えたとは言わない

ますます、自分の情けなさが

はっきりしてきたと、

私はこういう捉えたかが好きです。

 

厳しい修行をすれば

何か気分的に清らかになったような

自分の頑張りが見えてきて

少しは自分を克服できたと

思うのですが、

その時はそう思えても

現実に戻ればもとの自分に

帰ってしまい

あの厳しい修行は何だったのか

ということになりかねません。

 

というのも、

煩悩、煩悩というのですが

この煩悩ということも

分かったようで何が煩悩なのか

分かりません。

煩悩も根本煩悩があって

六大煩悩があり十大煩悩が出てきて

小随煩悩・中随煩悩・大随煩悩と

あります。

この一つ一つが解って

それを対治していくというのであれば

まだしも、

煩悩のなんたるかを分からずに

いたずらに厳しいことだけやっても

本当の対治にはならないと思います

 

仏教では面白いもので

それと闘ってなくしてしまう

ということではなく

「転じる」

ということがあります。

外国の場合は見ていると

悪を退治して平和にする

という物語がたくさんあります。

東洋の考え方は違って

「転じる」

ということが重要な要素

になっているようです。

 

大宰府に流された菅原道真

雷神となって都に

災いをもたらすのですが

それを封じ込めたり

やっけるのではなく

神社をつくり神として祀り

今までの災いを転じて

私たちに幸いをもたらす

神として崇め祀るのです。

 

煩悩もただ悪いものとして

対治して焼き払うのではなく

その煩悩を転じて

菩提とするということが

仏教の根本課題のように

思います。

転じてさらに高めていく

 

そこに二者選択ということではなく

悪いものを切り捨て

良いもだけを取り入れる

ということではなく

悪いものは断じそれを転じ

善いものは更に善いように勧める

こういうはたらきを

見い出さしていくのが

本当の修行だと思います。

 

河田アナウンサーとくっすん

これからは東海道五十三次の

道中に出るということです。

河田さんのしっかり者と

どこか緩めのくっすん

面白いコンビがまた新たな道中に

挑戦です

また面白いことが起きるのでしょう

楽しみに拝見していきたいと

思います。

 

くっすんの

「やればやるほど自分はあかん」

という言葉に心惹かれました

本当の修行とはそういうものでしょう

あかん自分が見えてくる

だからこそ、

また再び修行に励めるのです。

人間死ぬまで修行です。

これで終わりという修行はないのです

 

くっすん、がんばれ!!

 

 

 

 

 

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シクラメンの咲き方

2019-03-14 21:27:14 | フラワー

花屋の店先では

クリスマスの頃が一番人気の

シクラメンですが、

我が家では日当たりの悪い

北側に置いているせいでしょう

今が盛りと咲き誇っています。

 

 

しかし

この花もよく見ると

面白い咲き方をするようです

 

 

謙虚に頭はうなだれて

つぼみを出しています

そして

それが上向いて開くのかと

思いきや

 

 

そのまま花びらを巻くような形で

花びらが膨らんでいきます

 

 

そして、そのままの状態で

巻いた花びらをほどくように

一枚一枚がひろがり

 

 

花びらだけが上に向かって

花びらを広げていくのです。

てっきり、

下に向かって咲いたつぼみが

途中から上向きになると

思っていたのですが、

萼自体は下に向いたまま

花びらだけを上に向かって

広げていく

よく見ると不思議な花です。

 

生きているものは

すべて生き方は不思議なのでしょう

与えられた場所で

周りを変えることなく

自分がそれに合わせて生きていく

なんだか考えさせられます。

人間だけかもしれません

自分は変えようとせず

周りを無理やり変えていこうとする

たとえ周りを壊しても

自分の都合に合うように

変えてしまう。

 

どちらがいいのでしょう?

共存、共栄といいますが

「ともに」といっても

難しいですね!

 

 

 

 

 

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分かる・解る・判る

2019-03-13 21:20:26 | 漢字

書いていくと「わかる」

ということも、

普通には「分かる」と書きますが

たまに「解る」というようにも

書いてあります。

私的には、

物事がわかったということで

「解る」という字を

使いたいのですが、

しかし、

「分かる」と書いてしまいます。

 

この「分」という字は

「八」と「刀」から出来た

文字になります。

部首では刀部になります。

もとの意味は

刀で切り分ける、ということで

そこから色々の意味が

発展していきます。

 

わける。わかれる。

くばる。「配分」

見聞してわかる。「分別」

もちまえ。性質。「天分」

人の地位。「身分」

つとめ。責任。「職分」

 

一つの字でも

その成り立ちから

意味が膨らんで変化していく

そいうことを見ていくと

今まで

あたりまえに過ごしていたことが

意外な発見や

また考え直すきっかけにもなったり

面白いものです。

 

分別ということも

一般的な言葉として使いますが

仏教の言葉としても

「分別知」とか「無分別智」

これも面白いもので

普通には、

「分別ある人」というよに

物事をわきまえた人のことですが

仏教では「分別」というと

迷いです。

「無分別」もそうで

考えのない人というか

無分別にやられたらたまりません

ところが、

無分別智と智慧がつくと

変ってきて、仏さまの智慧

ということになります。

 

『唯識三十頌』という

お経の中には一番最初に

「稽首唯識性 満分清浄者」

とでてきますが、

その時の「満」というのは

すべてが満ち足りた人

ということで仏様のことです

そして「分」は

その仏さまの一部分を持っている

ということで

私たち人間のことを表します。

 

だから、私たちも

「分をわきまえる」

ということがとても大切で、

何もその人が偉いとか

立派とかいうことではなく

その役目において

そのハタラキの「分」が

あるということです。

社長には社長の分があり

課長は課長としての働き

その分があるということです。

それを間違えると

大変なことになります。

 

仏と人間といっても

全く別物ではなく

神と人間は全く別物です。

一部分を有しているのがの人間で

完全に満ち足りている人が

仏ということです。

 

ちょうど

『十地経講義』のなかにも

こういう一文があります。

「仏といっても偉いものになった

という意味ではないんだ。

凡夫といってもつまらんもんだ

という意味ではないのであって、

偉いものになったというのも

つまらんものだというのも、

これはコンプレックスです。」

というところがあります。

 

また、

「釈迦が仏に成った

ということは、

誰も仏だということを

証明したんだ。

むしろ、

仏ならざるはない

というのが大乗仏教です。

凡夫なんかおりゃせん。

まだ目覚めない者が凡夫

だというけど、

ただ不覚というものではない。

それは未覚というものではないか。

まだ目覚めんのであって

永遠に目覚めんもんではない。」

と出て来ます。

なかなか面白い表現です。

 

よく安田先生も

修行とはコンプレックスの克服だ

と、おっしゃっておられましたが

偉いというのもコンプレックス

また、つまらんというのも

コンプレックス。

いずれにせよ

人に勝った負けたと

上がったり下がったりして

比べあって生きているのが

私たちのようです。

 

ある面からいうと

自家用機をもったというのも

コンプレックスかもしれません

また、そういう私も

コンプレックスなのでしょう。

 

なかなか根は深い!!

 

分かるということも

なにがどうわかり

分かればそれどう実践するのか

難しいものです。

 

 

 

 

 

 

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One is All All is One

2019-03-12 21:12:54 | 住職の活動日記

似たような言葉に

One for All All for One

というがあります。

どちらかというとこちらの方が

有名です。

ラグビーの用語のようです

「一人はみんなのために

 みんなは一人のために」

と簡単に言っていますが、

そうではなく、

「一人はみんなのために

 みんなは一つの目的のために」

ということのようです。

 

これが、

for と is とでは

意味も違ってきます。

仏教でいう、

「一即一切 一切即一」

ということを英語で表すと

One is All All is One

となるようです。

たぶん?

最初に言われたのは

鈴木大拙という方だと思います

『仏教の大意』という

『Essence of Buddhism』

と英訳もされましたが

昭和天皇に講義されたものが

このような本になったのです。

随分前の話で、

大学の授業でこの本を読んだ

のですからあやふやですが。

 

一即一切ということも

よく考えれば分かったようで

分からない。

前にも書きましたが

モナドというところで、

読み返していたらふと思い返して

 

「十方衆生ということがありますが

個というものは、

十方衆生の中の一人であるけれど

また十方衆生を代表する一人だと。

一人一人が寄って全体になる

というのは、私ワタクシです。

そうではない。

一人が全体だと。

全体の一人であるとともに

また一人が全体である、

というところで一人というものが

成り立つ。」

 

勉強会があったのですが

本当は自分が主人公なのです

しかし、

お客さんになってしまって

聞いている。

聞法ということも

私一人がため、ということが

あるように

自分が真になって聞かなければ

いけない問題です。

ご飯もトイレも人に

代ってもらうことができないように

自分のこととして聞かなければ

まあ、座って聴いていれば

なんとかなるでしょう、

ということではないのです。

 

しかし、

「仏法は毛穴から入る」

ということもありますので、

そういう空気の中にいるという

ことも大切です。

聞いてどうするこうする

ということもないのですが

ただ傍観者ではいけない

ということです。

 

いきなり、

勉強会に出る、聞法会に出る

ということも

自分の問題として聞くという

こともありますが

それには機が熟すという

こともあります。

そういう人にはほんの一言で

ピシッと心に入ることも

あるようです。

 

ただ、

会があるということが大切で

この損得の世界に

ソロバン勘定を外した話という

ことは貴重なのです。

 

また、「無住所涅槃」

ということもあります。

具体的には、

その場その場で主となるという

ことです。

一即一切、一切即一

そこには私ではなく、個として

独立した人

そういう人とと人との関係が

一即一切 一切即一

ということを表すのでしょう。

 

「自分は自分の責任者」

ということがあります。

耄碌しないようにしっかりと

歩んで行かなければと

あらためて心しました。

 

 

 

 

 

 

 

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「法流」喜んで自己を否定するものが欲しい

2019-03-11 21:18:04 | 十地経

十地経の講義は昭和46年3月から

始まっているのですが

ちょうど安田先生70歳の時です。

毎日、少しずつですが

読み書きして見に添っている

ということですが、

何度読み返しても私には新しい

新鮮な言葉として響いてきます。

また読み返している第1巻ですが

少し紹介します。

 

『十地経』には法流という字が

使ってありますが、

凡夫には流れはない。

凡夫流ということはいわない。

凡夫というものはあなた方でも

ぼくらでも特定の職業をもって

年齢をもって或る形をもっている

ということは、

その時その時のものだという

人間の在り方ですね。

その時その時のものだと。

そういう意味が実存ということの

なかにもある。

その時その時のもの。

だけどそれは凡夫というあり方で

凡夫を超えて法に触れたときに

始めて法の流れに

なるのではないか

人間と人間との関係が

流れになる。

法というものを取ってしまうと、

人間はその時その時のものだと

いうことになるのではないか。

マイホームは

その時その時のものだ。

 

権威に対する反抗ということを

学生は今いうけども、

それはただ反抗しているのでは

ないのであって、

本当の権威が欲しいのです。

外的な権威を拒んでいる

のであって、

権威それ自身を

拒んでいるのではない。

外的に自己を拘束するような

固定化された権威を拒んでいる。

固定化されたら

伝統は伝統でなくなる。

習慣になってしまう。

そういうものに対する

反逆ということは、

かえって積極的な意味で、

本当の伝統というものを

要求しておるのです。

 

それはどういうことかというと、

喜んで自己を否定するような

ものが欲しいのです。

所が現代のこのLiberalism

(自由主義)の世界

というものは何かというと、

自由のために

流転しているのではないか。

 

Gemeinschaft(共同社会)

といってみても、

その実態は何であるかといえば、

個人個人の、

ただ自分の幸福しか考えない

人間の集合体でしょう。

今の日本といったら。

戦争でも嫌だ、

だから平和というような、

平和の動機も個人的なものだ。

自分の幸福追求以外にはなにも

問題のないような個人ですね。

私的個人です。

そういうものの集合体でしょう。

そういう代表機関だ。

日本というたところで

そういう日本です。

そこになんか人間は

故郷を失っているのです。

存在の故郷をね。

冷たい世界というのはそれです。

都市といっておるけれども、

煉瓦を集めたような、

煉瓦の建造物みたいなのが

今の社会です。

 

そして

なるべく近所と交際しない、

まあ町内会費は出すけど。

あんなものは都市ではないんだ。

公園も学校もいらん。

風呂屋もいらん。

自分の家で沸かすから。

がっちりした塀をもった家が

あんあものは何万軒並んでも、

それは都市ではないです。

冷たいものでしょう。

都市がないんだ。

共同体になっていない。

都市は家の集合体ではない。

 

まあそういうわけで、

現代の権威反抗するということの

意味が分からないでしょう。

なんか

頭が無条件にさがるようなものが

欲しいんですよ。

自由はもう懲り懲りなんだ。

無理に頭を下げさせるものは

おりますよ、

だけど悦服する、

むしろ喜んで服従する、

奴隷にはならんというけど

敢て喜んで奴隷にもなろうという

ものがない。

これはやっぱり伝承を失った

世界の悲哀ではないか。

 

というようなことです。

自分には頷ける

とても心に響く言葉でしたので

アップしました。

 

 

 

 

 

 

 

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『怒り』の深層 by 篠田暢之先生

2019-03-10 20:03:48 | 住職の活動日記

「怒り」とても興味ある問題です

三大煩悩は「貪・瞋・癡」です

この瞋が普通いう怒りに当り

哲学から経済、宗教、文化と幅広い

ジャンルを持っておられる先生の

人間の内面に迫る講演は面白い

ものでした。

 

怒りは誰にでも起こる感情で

その収め方が問題ではないかと

それによって、その人の“人となり”が

現れるということです。

怒りの感情の正反対が「寛容」

ゆるし合うということです。

 

現代の問題点として

心理学では、

高い知能は現実を客観的に認識し

正しい判断をするのに役立つのでなく

そのもっとも重要な機能は自己正当化

であると、指摘されます。

なるほど、現代は他というより

いかに自己防衛するかに論をめぐらし

責任回避に務めるようです。

 

仏教にみる「怒り」の種類

として10種の怒りの元を言い当て

ておられます。

①進まぬ気分(なのに、せかされる)

②憎悪(にくしみ・きらうこと)

③恨(うらみ)

④軽視(無視する・される)

⑤競争(負ける)

⑥嫉妬(うらやみねたみ)

⑦吝嗇(リンショク・けち)

⑧反抗心(気に食わない)

⑨後悔(してしまったことへの

    ウラヤミ)

⑩激怒(はげしいイカリ、

    起こっている自分が

    止まらなくなる)

 

と話しは面白く展開して

結びとして

現代では「怒り」が「個人」に

向けられ、その攻撃性が

社会的に曖昧なままに正当化

される社会、

というネットでの書き込みとか

そういう問題があり

 

仏教では

怒ることの大切さと共に

怒りを抑える重要さも教えている

何も心静かにする

というだけが仏教ではなく

社会の不正義と不実に対する怒り

そういうことを忘れてはいけない

という「心の正常化」を

持つべきではないか。

ということで締めくくられました。

 

その道中、小雨の中

 

 

今まさに満開の梅にも出遇い

 

 

まだ蕾の深紅のマヤ紅梅という梅

も見つけ、

雨の日はなによりも

 

 

苔の美しさに目を奪われました

 

 

小ぶりの薄いピンクの椿

 

 

苔の上にも落ちても

その美しい姿にもどことなしに

儚いような美しさを感じるものです

 

 

 

 

 

 

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晴耕雨読

2019-03-09 20:38:44 | 住職の活動日記

穏やかな春の陽気

明日はまた雨模様

三寒四温というのでしょうか

こうやって植物たちは

目覚めていくのでしょう。

 

ちょっと足を延ばして「二条城」へ

 

 

やはり立派な建物です

御所は塀もなくオープンな感じです

ここは家康の京都での居城

堀をめぐらし本丸をつくり

城の体裁を整えています。

 

 

至る所に意匠を凝らした

それも豪華絢爛な装いです。

庭の様子は

 

 

ヒカンザクラがこれから

開きそうな気配です

 

 

枝ぶりが面白い造形美を

作っています

 

 

この桜の木にはヤツデや楠が

寄生木をしています

終いに桜を凌駕して大きくなり

存在感を表すでしょう

 

 

もともとは神泉苑の池を埋めて

作ったという二条城

そういうと禁苑という神泉苑

その広さが窺い知れます

 

 

そこの住人の一人でしょう

アオサギが日向ぼっこをしています

この広い漁場を持っている

まあ

なんと贅沢な暮らしかも知れません

 

この界隈には

いろいろ楽しいお店もあるようです

 

 

名物どろぼう、という名が気になり

入ってみると

 

 

なんと可愛い御菓子が並んでいます

 

 

どろぼう、というのは

甘いものがなかった時代

黒砂糖に付けたおこし

盗んででも食べたくなった

ということからの名前のようです

その名の通り後を引く美味しさです

 

 

その神泉苑は弘法大師が

雨乞いをして都に雨を降らせた

という所です

 

 

近くには京都で一番小さい町屋

という建物もあります。

 

天気に誘われて

鴨川のほとりへ

 

 

なんとも気持ちの良い空気です

 

 

空の雲ものどかで

 

 

川の流れも緩やか

 

 

桜の蕾もしっかりと準備中

 

 

川にはカモのつがいが仲良く

つかず離れず

でも、雌の方が上 ?

 

鴨川のほとりでは

子どもたちが遊びお年寄りは散歩

私たちの後ろでは

 

 

何かの演奏が始まりました

歌をバックにおにぎりを頂く

何とも幸せな一時

 

 

枝に付いているのは

何かの虫の卵でしょうか

啓蟄も過ぎたのですから

もうそろそろ出てくるかもしれません

 

明日は雨です

静かにお勉強に励みましょう。

 

 

 

 

 

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ほとけ

2019-03-08 21:01:58 | 住職の活動日記

「ほとけ」とは

解ったような、あらためて

聞かれると分からなくなってくる

不思議な字でもあります。

 

「仏さん」と

軽く気安く呼ぶのですが、

どういう言葉なのでしょう。

 

「佛」ということは

お釈迦様の自称に始まるという

ことだそうです。

お釈迦様は太子として生れ

けれども

世の無常を感じて

国を捨て家を捨てて道を求め

求道の旅に出られたのです。

色々の修行をされて

35歳の時、悟りを開かれた。

その時にお釈迦様は、

私は佛陀になった、と

それが「佛」という言葉の

始めということです。

 

仏というのは

印度の言葉のブッダを音略した

ものということです。

正しくは仏陀と音写します。

この言葉も中国で色々と音写され

佛駄とも浮図(ふと)とも歩他など

時代によって当て字がたくさん

出てきたということです。

そこから、

浮図(ふと)という当て字から

「ほとけ」という言葉が生まれた

とも、

また、迷いの心がほどけてくる

煩悩に縛られた心の縄がほどける

その「ほどく」ということが

「ほとけ」という言葉の始まり

ということも言われています。

 

仏教のことを浮図氏の説といいます

浮図というのは仏陀ですから

氏の代わりに家をつけて

浮図家と言い直し

それがなまって「ほとけ」になった

ということもあるようです。

 

佛という字も

人偏に弗(ドル)のような

この字は弗(あらず)という意味

ですから、

佛は人にあらずというような字の

形です。

 

ブッダというのは言語的には

Buddhaは目覚めるという意味

朝起きた時、

「ブッダ」といって起きる

ということで日常語です

それを仏教用語として

目覚める、迷いから目覚める

というように「覚り」という

迷いに対する悟り(覚り)と

当てたのです。

 

ほとけということは

なかなか分かりにくいのでしょう

迷った人間がいくら考えても

解るはずはありません

そこで色々表現を考えて見るのです

仏には十号といって

その徳を讃えて十の呼び名が

あるのです。

1.応供(おうぐ)

 供養を受けるに相応しい人

2.正遍知(しょうへんち)

 ただしく真理を覚った者

3.明行足(みょうぎょうそく)

 言語と行いが完全である

4.善逝(ぜんぜい)

 迷いを越えて善く行ける者

5.世間解(せけんげ)

 世間のことを知り尽くしている者

6.無上士(むじょうし)

 最も尊い者、(上がない)

7.調御丈夫(じょうごじょうぶ)

 衆生をよく調伏制御し導くもの

8.天人師(てんにんし)

 天と人との師匠、すべてを導く人

9.佛・仏陀

 目ざめたもの

10.世尊(せそん)

 世間から尊ばれるもの

 

というよに

色々の名前を持っておられます

というのも

佛といっても

なかなか一言でいい表すことが

できないということです。

「ほとけ」ということも

分かったつもりで使っていますが

その背後には計り知れない

深い内容を持っておられるのです。

 

 

 

 

 

 

 

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啓蟄

2019-03-07 20:48:04 | 住職の活動日記

啓蟄というのにまだ肌寒い

虫たちもこの寒さでは

出てこられないでしょう。

 

啓という字はひらくとかもうす

という意味です。

口で人のわからないところを

ひらくことから教える。

というのがもとの意味のようです。

 

 

我が家のピンカミノールも

一輪二輪と花を出しました

その周りの土の中を見ても

虫の動く気配はありません

 

 

いつもの木瓜の花も

しっかとつぼみのままのようです

 

 

しかし、野の花たちにとっては

もう春の装い

あちこちで咲き始めています。

 

「日々是好日」

どの日もみな好き日だと。

好きという意味は、

好ましいという意味でしょうね

好ましい日。

好きというのは広い言葉です。

good という意味も好き日という

意味がある、比較を絶して。

いや儲かったからいいとか、

天気だからいいとかいう意味で

比較していいという意味ではない。

雨が降っても好き日なんだ。

天気でも好き日なんだ。

雨の降る日も天気の良い日も

平等に尊厳であると。

絶対独立であると。

春も夏も絶対の独立であると。

春は春として全体なんだ。

夏は夏として全体なんだ。

 

と、『十地経講義』に出ています。

それを読みながら

その時その時が全体であると

思うのです。

50は50の人生、

20は20の人生

70は70の人生

長い短いではない

それはそれで

その人の全体を表してると

そして、

そのように受け止めることが

日々是好日ではないかと。

 

昨日からのあいにくの雨

それは私の思うこと

虫や草花にとっては

どの日も日々是好日なのです。

 

もう少し待てば

日も温かくなり

虫たちももぞもぞと動き始める

ことでしょう。

 

日々を楽しんでいきたいものです。

 

 

 

 

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