本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

「法流」喜んで自己を否定するものが欲しい

2019-03-11 21:18:04 | 十地経

十地経の講義は昭和46年3月から

始まっているのですが

ちょうど安田先生70歳の時です。

毎日、少しずつですが

読み書きして見に添っている

ということですが、

何度読み返しても私には新しい

新鮮な言葉として響いてきます。

また読み返している第1巻ですが

少し紹介します。

 

『十地経』には法流という字が

使ってありますが、

凡夫には流れはない。

凡夫流ということはいわない。

凡夫というものはあなた方でも

ぼくらでも特定の職業をもって

年齢をもって或る形をもっている

ということは、

その時その時のものだという

人間の在り方ですね。

その時その時のものだと。

そういう意味が実存ということの

なかにもある。

その時その時のもの。

だけどそれは凡夫というあり方で

凡夫を超えて法に触れたときに

始めて法の流れに

なるのではないか

人間と人間との関係が

流れになる。

法というものを取ってしまうと、

人間はその時その時のものだと

いうことになるのではないか。

マイホームは

その時その時のものだ。

 

権威に対する反抗ということを

学生は今いうけども、

それはただ反抗しているのでは

ないのであって、

本当の権威が欲しいのです。

外的な権威を拒んでいる

のであって、

権威それ自身を

拒んでいるのではない。

外的に自己を拘束するような

固定化された権威を拒んでいる。

固定化されたら

伝統は伝統でなくなる。

習慣になってしまう。

そういうものに対する

反逆ということは、

かえって積極的な意味で、

本当の伝統というものを

要求しておるのです。

 

それはどういうことかというと、

喜んで自己を否定するような

ものが欲しいのです。

所が現代のこのLiberalism

(自由主義)の世界

というものは何かというと、

自由のために

流転しているのではないか。

 

Gemeinschaft(共同社会)

といってみても、

その実態は何であるかといえば、

個人個人の、

ただ自分の幸福しか考えない

人間の集合体でしょう。

今の日本といったら。

戦争でも嫌だ、

だから平和というような、

平和の動機も個人的なものだ。

自分の幸福追求以外にはなにも

問題のないような個人ですね。

私的個人です。

そういうものの集合体でしょう。

そういう代表機関だ。

日本というたところで

そういう日本です。

そこになんか人間は

故郷を失っているのです。

存在の故郷をね。

冷たい世界というのはそれです。

都市といっておるけれども、

煉瓦を集めたような、

煉瓦の建造物みたいなのが

今の社会です。

 

そして

なるべく近所と交際しない、

まあ町内会費は出すけど。

あんなものは都市ではないんだ。

公園も学校もいらん。

風呂屋もいらん。

自分の家で沸かすから。

がっちりした塀をもった家が

あんあものは何万軒並んでも、

それは都市ではないです。

冷たいものでしょう。

都市がないんだ。

共同体になっていない。

都市は家の集合体ではない。

 

まあそういうわけで、

現代の権威反抗するということの

意味が分からないでしょう。

なんか

頭が無条件にさがるようなものが

欲しいんですよ。

自由はもう懲り懲りなんだ。

無理に頭を下げさせるものは

おりますよ、

だけど悦服する、

むしろ喜んで服従する、

奴隷にはならんというけど

敢て喜んで奴隷にもなろうという

ものがない。

これはやっぱり伝承を失った

世界の悲哀ではないか。

 

というようなことです。

自分には頷ける

とても心に響く言葉でしたので

アップしました。

 

 

 

 

 

 

 

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