本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

モナド

2019-03-06 20:27:18 | 十地経

安田先生の命日を

「無窓忌」といいます。

そのもとになった言葉が

「モナド」という言葉です。

謎めいたコードのような言葉ですが

そういうことも折にふれて

考えていくことも私たちの務め

ではないかと思います。

 

講義の中でいたるところに

ヒントのように出てきます。

よく話の中に出てきましたが

「我と汝」(Ich und Du)

講義では、

相手を汝と言った場合には、

それは人格的尊厳というものを

認めた証拠だ。

わしの自由にならにもの

という意味が汝なんです。

わしのもんだという意味は、

おまえという意味です。

わしのせがれとか、

わしの家内とかいった場合には

わしの自由になるんです。

そいう場合はおまえという意味

汝という場合には、

私に対して、

わしから独立しておる者が汝だ。

相手を独立者として取り扱うことに

よって、私も独立者にされる。

独立した者と独立した者との関係が

我と汝だ。

 

ということがあって、

個という話になっていきます。

 

ひとりというのは個ということを

表すでのしょう。

私を表すのではない。

私を表すには、孤の方が適切。

私なら孤というような、

孤立した存在だけど、

個というものは独立したもんだ。

なんかそこにはindividuum(個体)

というような意味がある。

これはなかなか分からん言葉では

ないでしょうか。

individuumということが

簡単には言えんものでは

ないでしょうか。

 

例えてみたら、

十方衆生という言葉がありますが

個というものは

十方衆生の中の一人であるけれども

また十方衆生を代表する一人だと。

一人一人が寄って全体になる

というのは、そういうのは私です。

そうではない、

一人が全体だと。

全体の一人であるとともに

また一人一人が全体である、

というところで一人というものが

成り立つ。

そういうものが個ではないか。

Individuumというものではないかね。

 

個というようなことを考えた思想家

というものは、

これはなかなかえらいことで、

ライプニッツという人が、

Individuumということを哲学的に

本当に考えた人だと

僕は思いますが、

Monadologie(単子論)と

いいますが、

Monade(モナド・単子)は

一即一切というような意味

でしょうね。

 

これは倫理学的概念として

表せば、Person(人格)という

ものでしょう。

Personといえば、それは

Individuumというものを倫理的な

観点からいい表している。

人間には目がある鼻があると

いうようなものではないです。

人格でしょう。

Ich und Duということは

人格関係だ。

汝を汝とすることによって

我は我となる。

こういうのが人格という。

そこには、個というと、

ただ一人の人というものはない。

なんかそこに

個は個に相呼応するんです。

そこに呼応というようなことが

いえるのではないですかね。

呼応関係です。

 

と続いていくのですが、

モナド(単子)という意味の中に

モナドには窓がない

という意味が出てくるのです。

そういうところから、

安田先生の命日を「無窓忌」と

呼ぶのではないかと思っています。

 

また別の個所にも

出てくると思いますので

また書いていきます。

 

 

 

コメント
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