本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

分かる・解る・判る

2019-03-13 21:20:26 | 漢字

書いていくと「わかる」

ということも、

普通には「分かる」と書きますが

たまに「解る」というようにも

書いてあります。

私的には、

物事がわかったということで

「解る」という字を

使いたいのですが、

しかし、

「分かる」と書いてしまいます。

 

この「分」という字は

「八」と「刀」から出来た

文字になります。

部首では刀部になります。

もとの意味は

刀で切り分ける、ということで

そこから色々の意味が

発展していきます。

 

わける。わかれる。

くばる。「配分」

見聞してわかる。「分別」

もちまえ。性質。「天分」

人の地位。「身分」

つとめ。責任。「職分」

 

一つの字でも

その成り立ちから

意味が膨らんで変化していく

そいうことを見ていくと

今まで

あたりまえに過ごしていたことが

意外な発見や

また考え直すきっかけにもなったり

面白いものです。

 

分別ということも

一般的な言葉として使いますが

仏教の言葉としても

「分別知」とか「無分別智」

これも面白いもので

普通には、

「分別ある人」というよに

物事をわきまえた人のことですが

仏教では「分別」というと

迷いです。

「無分別」もそうで

考えのない人というか

無分別にやられたらたまりません

ところが、

無分別智と智慧がつくと

変ってきて、仏さまの智慧

ということになります。

 

『唯識三十頌』という

お経の中には一番最初に

「稽首唯識性 満分清浄者」

とでてきますが、

その時の「満」というのは

すべてが満ち足りた人

ということで仏様のことです

そして「分」は

その仏さまの一部分を持っている

ということで

私たち人間のことを表します。

 

だから、私たちも

「分をわきまえる」

ということがとても大切で、

何もその人が偉いとか

立派とかいうことではなく

その役目において

そのハタラキの「分」が

あるということです。

社長には社長の分があり

課長は課長としての働き

その分があるということです。

それを間違えると

大変なことになります。

 

仏と人間といっても

全く別物ではなく

神と人間は全く別物です。

一部分を有しているのがの人間で

完全に満ち足りている人が

仏ということです。

 

ちょうど

『十地経講義』のなかにも

こういう一文があります。

「仏といっても偉いものになった

という意味ではないんだ。

凡夫といってもつまらんもんだ

という意味ではないのであって、

偉いものになったというのも

つまらんものだというのも、

これはコンプレックスです。」

というところがあります。

 

また、

「釈迦が仏に成った

ということは、

誰も仏だということを

証明したんだ。

むしろ、

仏ならざるはない

というのが大乗仏教です。

凡夫なんかおりゃせん。

まだ目覚めない者が凡夫

だというけど、

ただ不覚というものではない。

それは未覚というものではないか。

まだ目覚めんのであって

永遠に目覚めんもんではない。」

と出て来ます。

なかなか面白い表現です。

 

よく安田先生も

修行とはコンプレックスの克服だ

と、おっしゃっておられましたが

偉いというのもコンプレックス

また、つまらんというのも

コンプレックス。

いずれにせよ

人に勝った負けたと

上がったり下がったりして

比べあって生きているのが

私たちのようです。

 

ある面からいうと

自家用機をもったというのも

コンプレックスかもしれません

また、そういう私も

コンプレックスなのでしょう。

 

なかなか根は深い!!

 

分かるということも

なにがどうわかり

分かればそれどう実践するのか

難しいものです。

 

 

 

 

 

 

コメント
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