本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

十地経とロビー君

2014-04-18 21:04:17 | 住職の活動日記

 最近は十地経講義の書写、そして

「 ロビー君 」 の制作にほぼ費やしています。

 

 もう、ロビー君も57号まで来ましたので、

もう少しというところなのですが、

51号でつまづいてしまい、

少しいや気がさしていたのです。

 手と足をコンピューターに接続して、

動かしてみるのですが … 動きません。

取説を読んでみると、

また分解して組み立てなおさなければ

いけないということです。

 手間なことと思いつつも、

組み立てなおしたのですが、

また動きません。   

 

 ちょうどその時、 「 十地経 」 の方は

ゲーテの 「 ウィルヘルム・マイスター 」 の

紹介で、

「 菩薩道の精神で大工が工作が与えられている 」

「 工作を菩薩道の精神でやっていく 」

というような一文に出会ったのです。

 そして、修行とは 「 数数修習 」 ( さくさくしゅうじゅう )

繰り返し繰り返し、進んでいく、

というようなことがあり。

 安田先生もとても 「 行 」 ということを

大切に考えておられます。

 仏教における人間像とは行者である。

ふつういう行者とは違って、生活者という、

ただ消費してるだけではなく、

主体的人間というものの要求を持った存在だと、

 

 そんあことがあり、

「 ロビー君 」 も、ただ説明書通り

通り一遍につくるのではなく、

何回も組み立てなおすことで、

もっと、ロビー君自体が理解できるのではないかと

思い直して、

また分解して、モーターのコンピューターへの書き込みを

し直して、丁寧に組み立てなおし始めました。

二度手間三度手間になっても、

また最初からやり直し、と繰り返していたら

出来たのです  

 それからは、一気に進み

昨日、今日とで 58号まで出来上がりました。

 

    

 

こんなところまで出来たのです。

 

    

 

胴体と手の部分、

 

    

 

そして、足の部分、

 

 朝から、十地経を読み書きし、

昼からは 「 ロビー君 」 の制作、

そしてまた、十地経を書き

また、寝るまで 「 ロビー君 」 と、

一日集中した時間が過ぎて、

頭のなかも、とてもすっきり  です。

 

 「 行住坐臥、一念も道を離れんと 」

 「 無間、不断、不息に行ずるがゆえに 」

 

と、休むことなく念じ続けていく、

難しいようですが、やってみると

実に快く気持ちのいい疲れがでるものです。

 

 なんのために ??

といわれるかもしれませんが、

「 十地経 」 をし書写しているときが一番落ち着けるのです。

ただただ、書き続けていこうと  …

 

 

 

 

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立てば芍薬、座れば牡丹 …

2014-04-17 17:34:16 | 住職の活動日記

   までに、

 

 なんと、アッという間に、

開敷牡丹 ( かいふぼたん ) となり、

 

   

 

満開の見事な 「 牡丹 」 です。

 豪華絢爛 

夕方の5時30分、

 

   

 

牡丹もあの細い枝から

こんな立派な花が出てくるとは、

自然の不思議さにおどかされます。

 

   

 

春という 「 ハタラキさま 」 のおかげでしょう。

 

 人が見ようが、見まいが、

ハタラキとして、自分の精いっぱいの花を咲かせるのです。

 

 しばし見とれております。  

 

 

 

 

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未敷牡丹

2014-04-17 15:25:19 | 住職の活動日記

 今日の3時の 「 牡丹 」 です。

 

    

 

やや、開きはじめました。

 

    

 

上から見ると、

もう一輪は

 

   

 

こちらが少し開き始めている。

今、上の二輪だけです。

 

 「 未敷牡丹 」 ( みふぼたん )

という言葉はないのでしょう。

 ただ、仏さまの台座で、

仏さまは悟りきっているので

満開の 「 開敷蓮華 」 ( かいふれんげ )

といい、

菩薩は、悟る一歩手前なので、

「 未敷蓮華 」 ( みふれんげ ) といって、

蕾のハスの花なのです。

 

 ということで、

つぼみの 「 ボタン 」 ということで、

「 未敷牡丹 」  と

いってみました。

 

 

 

 

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牡丹 開花宣言 !!

2014-04-17 10:48:22 | 住職の活動日記

 ここのところ、初夏を思わせるような

気候が続いています。

 今日も、25度に上がりそうな気配です。

そのせいか、

 

    

 

今朝起きてみると、

もう今にも 「 牡丹 」 の花が開きそうです。

あたりにはその香りが漂っています。

 

   

 

上に2輪、顔を出しています。

 

   

 

そして、下の方に  一輪

 

   

 

そして、もう 一輪 とつぼみを膨らませています。

明日には大きな花が開くことでしょう。

 

 熊本の阿蘇の道の駅で求めて、

熊本でも見事な花を咲かせ、

京都に来たのですが、

引っ越しのどさくさで、枯れてしまうのではないかと

心配していました。

 元気にさいてくれてなによりです。

 

    

 

そして、「 Okumura1号・2号 」 のバラも

小さな花のつぼみをつけています。

これから次々と咲き始めることでしょう。

愉しみ   です。

 

    

 

そして、こちらで求めた 「 さつき 」 も

ちゃんとついてくれたようで、

たくさんの花芽をつけました。

 

 日々の成長を見るのは 嬉しい ものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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あれ … !!

2014-04-16 21:38:22 | 住職の活動日記

 「 あれ~ ! こんなのきちゃいました。 」

宇治の市役所より、

 

    

 

「 お元気チェックリスト 」 なるものです。

そのチェックリストとは、

 

   

 

29ほどの質問項目があります。

◎ バスや電車で一人で外出してますか

◎ 日用品の買い物をしてますか

◎ 椅子に座った状態から何もつかまらずに

  立ち上がっていますか

 

などなど、 「 へっちゃらだ~い 」

と叫んでみても、 もうそろそろ ??

いつまでも気分は若いつもりなのですが、

66というと、はた目には、もう十分

高齢者の仲間入りです。

今のところ、質問項目も何の問題も

ないようなのですが、

何時、何かの拍子でこの項目が

当てはまる時がやって来るかもしれません。

 

 

あれ~、まだこんな標識が

 

    

 

近鉄伊勢田駅近くの交差点です。

もうずいぶん古びてますが、

久しぶりに懐かしいのを見ました。

 

    

 

その先を近鉄電車が、

もう標識はとっくに、電車のマークに変わっているのに、

 

   

あれ~、こんな道の隅っこに、

 

    

 

可愛い花がお行儀よく咲いています。

ほんの道と壁との間の20センチほどの

隙間なのですが、

 

あれ~、こんなところにも

 

    

 

ちゅーりっぷが、雑草の中にまじって

咲いています。

丁度近鉄の線路の土手のところです。

 

    

 

そして、野生化したチューリップでしょうか ??

たぶん、以前にこの空き地を利用して

花壇をつくられたのでしょう。

手入れが行き届かないまま、

その中でも、根性で生き残ったチューリップではないでしょうか?

 

 あれ~、 … !!

と気がつくと、いつの間にかこんな年に

ほんとうに、光陰矢のごとしですね   

 

  ご用心 あっという間に

年は過ぎ去っていくものです。

すべきことはどんどんしていきましょう。

 

 

 

 

 

 

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書く力 !!

2014-04-15 18:59:14 | 住職の活動日記

 最近はパソコンのおかげで、

あまりボールペンとかで書く機会が

少なくなりました。

 便利でとてもうれしいのですが、

文字を忘れていくことが悲しくもあります。

読めても、書けない   

 そろばんを使っていた時は、

暗算が パッと   できたのですが、

計算機が出現して以来、

どうも簡単な足し算でも、間違うありさまです。

 

 今は、はまって 「 十地経の講義 」 を

読んでいます。

 この本はいつも肌身離さず、

持ち歩き、暇あると、開いたところから

読み、響いた言葉にマーカーを引き、

更に手帳にメモッたり、して

何かの発想のヒントにしていました。

 この本の不思議なところは、

書いてある内容よりも 、

( そのことも重要なのですが )

読むことによって、考える頭に

切り替えてくれる点です。

 

 ふとしたことから、

メモっていても失くしてしまう、し

いっそのこと、ノートに書こうと思って、

ちょうど、 「 十波羅蜜 」 の経文を

書き写しました。

 そしたら、引きずり込まれるように

次々、手が進みだして、

一言一句残らず書き写し始めたのです。

 ついつい時間のたつのも忘れ、

書きだしたら、あっという間にノート一冊が

終わってしましました。

 読んでた時はわかったつもりでも、

書きだすと、結構見落としてる言葉があるもので、

あらためて、書くことの大事さを

再認識しました。

 今は、鉛筆とノートと消しゴム、

鉛筆削りが三種の神器になりました。

 

 おかげさまで、目覚めもよく

朝から2時間は鉛筆が進みます。

 そして、この 「 十地経講義 」 は

講義のテープ起こしをそのまま活字にしてあるので、

先生の 「 あー 」 「 うん 」 「 えー 」

という言葉もそのまま書いてあり、

先生の思索の道程を垣間見るようです。

 その場にいた私にとっては

先生の声がよみがえってくる時でもあります。

 

 ちょうど、洛南高校創設時期の話で、

この講義が洛南高校の精神のバックボーンなった

ようです。

 だから、安田先生も、常に 「 教育 」 

ということを念頭に置いて話されています。

 あるところで、安田先生が述懐しておられました。

 

 「 私の話を聞いて、薄めてよそで話す人は

  大勢いるが、私の話を実践した人は

  三浦君だけだね。 」

 

 十地経の実践が 「 十波羅蜜 」 となり、

そのことがどのように、教育に取り入れられたか

三浦先生の問いに対して、

安田先生が講義を通して答えていかれる、

その光景も思い出されて、

切れば血が出るような生きた話に

心が躍ります。

 

今は、書き写すことの力を

あらためて感じています。

書けば今まで見えなかったものが

見えてくるような気がします。

 デジタルの世の中ですが、

書くということの大切さもあるようです。

 

 

 

 

 

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「散る桜 残る桜も 散る桜」

2014-04-14 21:17:33 | 住職の活動日記

 近くの桜は散ってしまいました。

しかし、桜の種類も多く、まだ今を盛りに

咲き誇っている桜もあります。

 ちょうど、先日は 「 太閤花見行列 」 で有名な

「 醍醐の花見 」 がありました。

 残念ながら見ることは出来ませんでした。

 

 絢爛豪華な桜もやがて、

良寛さんの歌のように、

 「 散る桜 残る桜も 散る桜 」

 

    

 

とやがて散ってしまうのです。

 

 親鸞聖人も出家されるとき、

今日はもう遅いので出家得度は明日にしようと、

おっしゃたら、

 

 「 明日ありと思う心のあだ桜

     よわに嵐の吹かぬものかわ 」

 

    

 

と、歌よ詠まれて、その日の内に

出家されたという話が残っています。

 

  

     

 

豪華絢爛に咲き誇っている桜も、

もう数日の内には散り始めるでしょう。

そしたら葉が出そろい、桜は緑に包まれます。

 

 「 咲けば散り 散ればまた咲く

    年ごとの花のすがたは 如来常住 」

 

という、歌がありますように、

「 ハタラキさま 」 という如来の力を

感じるものです。

 

    

 

「 御衣黄桜 」 という桜も

丁度  今が見ごろでした。

 

    

 

八重の桜でしょうか ??

とても美しいピンク色に輝いています。

 

 西行法師の歌に

 

   「 願わくは花の下にて 春死なん

      そのきさらぎの望月のころ 」

 

という歌もあります。

 

 「 桜木を手折りて見れど 花はなし

     春こそ花の命なりけれ 」

 

と、今まで枯れ枝だった木が、

その死んだような木の枝から

なんと美しい可愛い花を膨らませてきます。

木の枝を折ってみても、

そこのに花の命は見つかりません。

「 自然法爾 」

ハタラキさまのおかげです。

 

 花が咲く

 咲きほこって散っていく

 

当たり前といえば当たり前かもしれません、が

不思議といえばこれほど不思議なことはありません。

 

 まだまだ、花を楽しめるところもあります。

そして、新緑のまばゆさに

元気を頂く頃になってきます。

 

 ご用心 !!

自然の変化に目を奪われていると

私たちの体に変調をきたすときでもあります。

 

 

 

 

    

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チューリップ

2014-04-13 17:40:08 | 住職の活動日記

 咲いた 咲いた

 チューリップの花が

 ならんだ ならんだ

 赤白黄色

 どの花見ても

 きれいだな

 

 

西京極幼稚園で毎月発行されている

「 たんぽぽ 4月号 」 が届きました。

その一面に 「 チューリップの歌 」 が、

紹介してあります。

先日の入園式で、新入園児さんたちが

最初に歌ったのが 「 チューリップ 」 です。

 

   

 

「 たんぽぽ 」 より、

 

 園庭のチューリップが春の日差しを受け、

精いっぱい咲き誇っています。

 新しいお友達が希望に胸をふくらませ、

園の門をくぐりました。

 ちょっぴり不安をのぞかせている新入園児、

在園、進級のお友達は一回り大きくなりました。

 

    

 

はじめて出会うお友達、先生、お部屋や机、

何もかもが新しい出会いです。

 刻々の出会いを、子供たちと真剣に向き合い、

そして 「 仏教保育は合掌に始まり合掌に終わる 」

といいます。

「 感謝する心 」 「 敬う心 」 が芽生えるように

大切に歩んでいきたいものです。

 

 と、 「 たんぽぽ 」 には載っています。

 

今の季節は、どこの庭を見ても 「 チューリップ 」

が咲き誇っています。

 

    

 

一面に広がる 「 チューリップ畑 」 もあるようです。

チューリップはすらっと伸びて一輪だけ花をつけますが、

   

    

 

原種といわれるチューリップは背も短く、

花もさほど大きくはありません。

 

 チューリップの花言葉は、いろいろあるようですが

園児さん方にとっては 「 博愛 」 「 思いやり 」

という言葉がぴったりするようです。

 

「 たんぽぽ 」 は続きます。

 

 私たち一人ひとりのいのちは、

たったひとつの尊いいのちです。

だれのいのちも、姿や形、能力は違っても、

すべては平等ないのちなのです。

赤や白、黄色と春を謳歌するチューリップは、

どの花見ても美しく、

それぞれがいのちを輝かせて咲き誇っています。

 

   

 

一人ひとりの子のいのちもまた、

光り輝いて生きたいと願っているのです。

 仏さまの眼差しは、だれのいのちも平等に

見ておられます。

そしてだれ一人見捨てることなく、

全てを等しく救いとってくださるのです。

そんな仏さまに、すなおなこころで

「 ありがとうございます 」

と手を合わせ、拝むことから、

ともに新しい出遭いの保育に踏み出したいものです。

 

と、ありました。

 

    

 

自分を誇らず、それぞれがいのちを輝かせて

力を合わせれば、チューリップやいろんなお花で

こういう絵もできるのですね。  

 

 もうしばらくは 「 チューリップ 」 が楽しめそうです。

 

 

 

 

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お茶の新芽も出始めました !!

2014-04-12 11:54:20 | 住職の活動日記

 道すがら、足を進めると、

「 山政 小山園 」 というお茶の老舗のお店があります。

 

    

 

このお店の裏の通りやら、近くには

小さい茶畑ながらたくさんの茶畑が点在しています。

 

    

 

こういう茶畑を発見 !!

たぶん ??  ここが一番おいしい玉露ができるところでしょう。

屋根の部分も、壁の部分も 「 藁むしろ 」 で覆ってあります。

直射日光を遮り、藁のあくがお茶のうまみを引き出すのでしょう。

 

    

 

そっと覗いてみました。

静かに、静かに葉を膨らませているようです。

 

    

 

こういう普通の茶畑もあります。

しかし、途中からは黒い覆いが掛けられるのでしょうか。

 

   

 

新芽はしっかりと、 … 日の光を受け

まばゆいほどに輝いています。

 

   

 

茶摘みのころが楽しみです。

 

 宇治は昔はお茶の産地でしたが、

今はこの地で作られているのは少なくなったようです。

「 山政 小山園 」 さんは貴重な存在なのかもしれません。

あくまでも、宇治でとれるお茶にこだわって、

今でも製造しておられるとのことです。

 

 この近くには、たぶん宇治の地の神様でしょう、

「 巨椋神社 」 があります。

 

    

 

地名も 「 小倉 」 という字が圧倒的に

多いのですが、もともとは

 

    

 

「 巨椋神社 」 の額にもあるように、

この 「 巨椋 」 を書いたのです。

古い昔はこの地には大きな 「 巨椋池 」 があり、

宇治川が流れ込み、やはり水路の拠点だったようです。

そこから、大きな凹んだところ、という意味で、

「 巨椋 」 と書いたそうです。

 

 歩いて見ると、面白い楽しい発見があるものです。

 

 

 

 

 

 

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改ざん ! ねつ造 ! ずさん !

2014-04-11 21:37:14 | 住職の活動日記

 最近、テレビ・新聞をにぎわしている言葉です。

なにかしら、嫌な響きを持った言葉です。

ですから、気になって、辞書を引きました。

 

 「 改竄 」  ( かいざん )

漢字で書くと上のような字です。

「 竄 」   よく見ると、

鼠 ( ネズミ ) という字が入っています。

「 穴 」 の下に 「 鼠 」 を書くという組み合わせ。

「 竄 」 の意味は、

ネズミが穴の中にはいる意で、

逃げ隠れること。 

そこから、

① かくれる ② のがれる ③ はなす

④ ふすべる ⑤ あらためる ( 改竄 )

⑥ 穴に入る

というような意味が出てきたようです。

「 改竄 」 の 「 改 」 も面白く、

もともとは、むちで鬼を打ち追う、という意味で

「 追儺 」 の原字と考えられる。

そこから、追儺を終えて新年となるので

あらたむる、意味になった。

そういうことから、

「 改竄 」 は、文章の文句を改める、

という意味になったようです。

 

 

 「 捏造 」  ( ねつぞう )

「 捏 」 という字は、

手偏に日と土が組み合わさって

出来た文字です。

意味は、土をこねる、が本来の意味で、

① 土をこねて色々なものをつくる

② ないことをでっちあげる

③ おす

というように変化しています。

捏造は、根も葉もないことをでっちあげる、

という意味になります。

 

 「 杜撰 」  ( ずさん )

「 杜撰 」 ( とせん ) 書いて、( ずさん ) と読む、

宋の杜黙の作詩が多く律に合わなかった、

という故事から、

① 著作などに誤りが多いこと

   典拠の正しくないこと

というような意味になります。

 

 しかし、この一連の騒ぎを見て、

最近は 「 責任をとる 」 という

人がいなくなったようで寂しく思います。

 それに関して、ふと思い出すのは、

三浦先生のことです。

何はともあれ、自分の部下とか

組織の一員にあたる人は

絶対的に身をもってかばってくれたのです。

 洛南高校も 「 三浦俊良 」 という大きな傘の下で、

先生方が安心して教育に専念できたと思います。

 

 一人の若い科学者を、

なんでもっと優しく見守り育て上げる

ようなことは出来ないのかと、

内心腹立たしいものを感じます。

なぜその組織の責任者は

自分の部下をかばおうとしないのか、

それが現代の風潮なのか、

それとも科学をやるということは

そういう冷徹な眼で臨まなければいけないのか、

その辺のことはわかりませんが ??

 

 仏教にも 「 三道 」 ということがあって、

最初に 「 見道 」 ということがあり

次に 「 修道 」 ということが出てきます。

 仏教でも科学でも勉強でも 「 直観 」

ということがとても大切です。

そのものの本質を 「 見た 」 という直観、

ひらめきです。

そこから、繰り返していくのです。

それが 「 修道 」 、

見道 ・ 修道  を繰り返して

物事が深まっていく、

そのことを 「 純熟 」 という表現で

お経には出てきます。

 

 彼女の細胞を見たというのは 「 見道 」

でしょう、それは直観です。

それから 「 修道 」 です。

反復修習という、道程が始まるように思います。

 

 若い一人の科学者をつぶしてしまわずに、

見守ってほしいと思います。

 そして、彼女には周りの干渉には妨げられず、

どうか、地道にこつこつと研究を続けてほしいと願います。

反復すれば足りないものが出てきます。

それで、足らんことで止めてしまわずに、

繰り返すしか、それしかないように思います。

地道な道を歩くほかないようです。

 

 お経の文句に

 「 数数修習 」 ( さくさくしゅうじゅう )

という言葉があります。

 修行も地道な繰り返ししかない

ということです。

 

 

 

 

 

 

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