本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

世の中は三日見ぬ間の …  !?

2014-04-27 15:39:47 | 住職の活動日記

 留守にしている間に、

牡丹の花はすっかり咲き切って、 …

 

   

 

花びらを落とし、額だけが不思議な形で残っていました。

これが種になっていくのでしょうか ??

 

   

 

美しく、豪華絢爛に咲いた牡丹の花も

自分の役目を終えて、花びらを一枚ずつ散らし、

実を結んでいきます。

 

 その隣では、

 

    

 

バラの花がつぼみを膨らませていました。

 

   

 

もう色がわかる蕾もあります。

こちらが、勝手に名づけた 「 オクムラ2号 」

もう一鉢の 「 オクムラ1号 」 は葉っぱは

咲きほこっているのですが、花芽は少し遅いよう、

 

 花が咲きだせば、虫が来る !!

 

    

 

葉っぱの様子がおかしいと思ったら、

あっという間に、小さい、とても小さい虫が来るのです。

どこからくるのでしょう ???

その虫の命はどこにあったのか、

これも不思議な限りです。

 

 虫が来ると、

 

    

 

その夜この 「 皐月 」 には

トカゲが顔を持ち上げて様子をうかがっています。

 

 花が咲きだすと虫が来る、

虫が出てくるとトカゲが来る、

 

 「 世の中は三日見ぬ間の … 」 ではないですが、

我が家の小さな小さな緑の世界ですが

小さいながらも、大きな大きな 「 いのちの働き 」 が

始まっていました。

 

 

 

 

 

 

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白龍欅(ケヤキ)

2014-04-27 12:31:29 | 住職の活動日記

 ちょうど、オバマ大統領が国賓として

来日されていたころ、東京にいました。

 東京といっても、まだ田舎の香りのする

田園の広がるところでお手伝いをしていました。

 

 そこで、気になる木に出会ったのです。

交通量の激しい道路に面して、大木が聳え立っています。

普通であれば、当然切り倒されても

おかしくないような位置です。

 

 

    

 

見上げれば、6,7階建てのビルに匹敵するほど

見事に成長しています。

 

    

 

その下には小さな一軒家が、

ちょっとこの木とは不釣り合いな気もしますが、

またアンバランスも引き付ける魅力を醸し出しています。

 

    

 

近づいて見ると、立派な由来の表札が、

それによると、

 大正末期のころ、この地の財産家 「 朝倉重威の妻ミヤ 」

という方の前に白蛇が現れた。

これはきっと神の使いに違いないと、

大切にお祀りし、そこに祠を立て、「 ケヤキ ・ 欅 」 を

植樹したのが始まりで、その後手厚く保護されて、

現在のように大きく成長したということです。

今では、小金井街道のランドマークとして、

市民に親しまれている。

というようなことが書かれています。

 

 「 白龍さん 」 といえば、

松下電器の守り神さまとして、

松下幸之助さんのころより代々信仰されていて、

当院でも、祖父の代より毎月、その御分身である

九州の白龍さまにはお参りに寄せていただいておりました。

 また、弘法大師を守ってこられたのは

「 善女竜王 」 という方で、

東寺にもそのお社があり、お参りしてました。

 何かしら、「 竜神さま 」 つながりでしょうか ??

この欅の大木にも心惹かれるものがあったのです。

 

 またまた、当院の護摩壇も 「 総ケヤキ作り 」 で

天板は桜の一枚板で出来ています。

欅の木目の美しさを出して、磨いたらよかったのですが

お堂も暗いこともあって、バランスを考えて

今は朱色に塗ってしまいました。

次の修理の時には、その朱色を落とし、

欅の木目を出せばまた美しい護摩壇になると思います。

 

 ま~、東京というところビルが乱立していると思っていましたが

結構、緑も多く、それを大切に守っておられる、

意外な一面を発見しました。

 

 そして、余談ですが、

その斜め向かいには、修道院がありました。

 

   

 

そこも、こんもりとした緑に包まれて、

世間を遮断するように、緑が修道する人たちを

守っているようにも見受けられました。

 

   

 

「 聖霊修道院マリア館 」 という表札が上がっています。

『 修道 』 という言葉にもひられるものがあります。

「 菩薩 」 といっても現代の言葉でいえば

「 修道的人間 」 といえるのでは、

人間というあり方が本来修道的なのです。

死ぬまで、修行の道程にある、

一服するのではなく、修道的に生きていく

そこが人間の本来の在り方のようです。

 

 この森の中で、自分に厳しく心を修め

道を修めておられるのでしょう。

 

 東京といっても、意外なところで、

じっとして手伝っておりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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