「言語道断」
意外や、仏教語
「言語道断の行い」とか
「そういうするとは言語道断」と、
なにかしら、叱られるときに
こういう言葉を聞いたような
気がしてたのですが、
お経に出てくる言葉で
「言語道断、心行処滅」
(ごんごどうだん、しんぎょうしょめつ)
言葉によっていいあらわすことも、
思慮によって思いはかることもできない
という、
さとりの世界を表現した言葉です。
言語の道を断つ、
言葉では言い尽くせない
心行、は言葉に対して
心のはたらき、で
心行処滅とは
こころで思いはかることも
出来ないということでしょう。
「如来」、とか「一如」とか
『如』ということは
本来考えがおよばない
人間では考えられないという
人間の考え、
何でも言葉で考えてしまう
人間の考えを否定したこたが
「如」ということです。
最近のコマーシャルでは
「ONEミズホ」とか聞きます
また、ONEワールドとか
「一」ということがありますが
この「一」ということも
おもしろい問題です。
西洋の哲学者ではシェリング
でしたか、
「同一哲学」を唱えた方も
いらっしゃいます。
仏教では「一」とはいわずに
「一如」という具合に
また、「不二」ともいいます。
一とは言わずに二に非ず、と
ここがおもしろいところです。
「不二の法門」ということを
天台の教学の方では
説いています。
「富士山」ということも
昔は「不二山」といったのでしょう。
日本一の山ですから、
一と言えばいいものを
あえて、二ではないと
「不二」といったところに
何か意味を感じるのです。
また、別な表現では
「離言」(りごん)
ということもいいます。
仏の境界をあらわすのに
「離言の境界」と
言語道断と同じことです。
「法華経は寝乱れ髪に
さも似たり、言うに言われず
説くに説かれず」、と
髪を結う、と言うをかけて
髪を梳く、を説くにかけて
昔の方は言ったのです。
そのように、
仏の悟りの世界は
言うに言われず説くに説かれず
ということです。
言語道断ということも
今あらためて、
仏教語だと知りました。
「けしからん」
というような意味でも使いますが
ほんとに深い意味があって
驚きです!!