ちょうど読んでいる『十地経』にも
よく出てくる言葉、「三昧」
また、この言葉は日常語としても
よく使われる言葉です。
「すし三昧」とか、
今まさに「野球三昧」とか
今晩はサッカー、UAEとの対戦
「サッカー三昧」に入ります。
集中というようなことですけど、
訳すると
等持とか定というような言葉に
「等持院」というお寺もあります。
等しく持つ、という
この等持という訳は言い当てている
ように思います。
人間の心はどちらかに偏りがちです
その偏る心を
一つには「掉挙」(じょうこ)
心がウキウキする
一つには「惛沈」(こんちん)
反対に心が沈む
どちらの心も集中力を切らし
正しい判断もできないし
智慧も生み出しません
その二つの心を離れて平等に
というところから、(等しい)
「持」ということは
心を一つの対象に止める
ということのようです。
今、十地経の講義録を書写し
分からない言葉を調べ、
と、単純な作業ですが、
不思議と心が落ち着いてくるのです
論理だって諄々と説かれた
ということではなく、
話しもあちこちととびとびに
しかし、
経典を切り開いていかれる
物事の思考方法を学ぶ
そういうことで、
書いているうちに自然と
三昧の世界に入れるのでは、
講義のときも
今思うと、講義を通して
三昧という世界を学んだような
そういう気がします。
老人ホームヘ行くとき
必ずこの講義録を持参して
早めに着いて駐車場で
ほんの少しの時間ですが
この十地経の講義録を読むのです
この話をするわけではありませんが
しかし、
頭が整理されてくるというか
不思議と閃きが起こるのです。
一日、一回は必ず
本を紐解き、書写する
ただ読むだけでは物足りない
ような?
書き写したからといって
頭に入っているわけではなく
ただ安心するというか
一字一句見落としなく読めるのは
有り難い気がします。
「三昧」という世界というか
三昧の味を知るというか
物事この三昧がないと
成り立たないような気がします。
勝負の世界でも
三昧が切れてしまった方が
負けるのでしょう。
今読んでいるところでは、
「そのものになりきる」
「ものそのものと一つになる」
というように出てきます。
小僧時代叱られたのは
「ほうきと体がバラバラだ!」
掃除になってない。と
掃除をしているときは
遊びたい心が出て来るし
遊んでいると
掃除のことが気にかかる
アフター5が近くなると
家に帰って一杯やりたいと
また、日曜の昼過ぎになると
明日からの仕事のことで鬱陶しく
なってきます。
そのときそのとき
そのものになりきる
それこそが三昧のように思うのです。
その味を覚えたら
仕事も遊びも大変楽しく
なってくるのではないでしょうか