北面武士

至誠通天

談山神社

2015-04-09 | 日記
四月十一日(土) 曇

長らく続いている曇天雨天による不快を消し去るべく、大和国の神社四カ所を奉拝に訪れた。
車両離合もままならない山深い旧道、伊勢国・松坂~三杉経由で大和国へ入り、
大和国・桜井市郊外の、要塞の如き石垣に囲まれた山頂にある談山神社まで、車両で約3時間半かけて移動。

多武峰山頂の談山神社の祭神は藤原鎌足公(中臣鎌足)。
飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会にて出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、
藤の花の盛りの頃、当時、天皇家を蔑ろにして権力をふるう蘇我入鹿の暴虐をいかにせんと、
現・談山神社本殿裏山で極秘の談合を行われた。
蘇我入鹿を誅殺後、多武峰は談峯、談い(かたらい)山、談所が森と呼ばれるようになり、
「大化の改新談合の地」の伝承が残り、社号の「談山神社」の名称もここからきているとの事。

天智天皇の代に鎌足公が重病となられた際、天皇自ら病床を見舞い、後日、大織内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えられ、藤原氏はここから始まる。

鎌足公没後、墓は摂津国阿威山(大阪・高槻)に造られたが、唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の骨の一部を多武峰山山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙薬時と称する。 さらに、方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置。
因みに次男は藤原不比等公、藤原北家・氏長者の源流。
これより談山神社が始まる。

前回は10名で後醍醐天皇陵を参拝する前に訪れたので、今回は二度目の参拝となる。 一人ゆっくり堪能できた。 



談山神社。






神廟拝所。 


神廟拝所内。 藤原鎌足公




神廟拝所内を望む。














有名な歌詠み人達。 御存知の方達が大勢見うけられます。



会津・狩野派最後の作品。







拝観者なき室内に着座し、暫しの間、奈良~平安時代から続く時間に心を遊ばせる。



御本殿へ向かう。



左側が御本殿、右側が拝殿。


御本殿を望む。



御本殿を正面(拝殿内)より望む。



拝殿回廊。







中大兄皇子と中臣鎌足公、都より遠く離れた山中にて談合中。


都へ戻り最終打合せ。


蘇我入鹿襲撃前。 弓を持つ鎌足公と、左手で太刀の鯉口を切る寸前の中大兄皇子。



蘇我入鹿誅殺の場面。(右)  蘇我入鹿の遺体を運び去る。(左)


歴史の教科書に掲載されている有名な画。 中大兄皇子の凄まじい剣裁き、一刀にて断首。
血、死など穢れを最も嫌う皇族において、自ら剣を取り誅殺するという意味は大きい。 蘇我入鹿に対する憎しみの深さが窺われる。


国宝級の能面も展示されている。 作者の魂が隠っているように感じれらる。









全作品を拝観後、猛烈な疲労感に襲われたので、10分程着座して御本殿を拝観する。



木造十三重塔としては世界唯一。 神仏習合時代の名残りであると同時に、談山神社の象徴的な存在。



既に桜ば散ったが、素晴らしい枝振りで満開時の美しさを想像できる。

最近、神社仏閣に油をかけられるという被害が多発しているが、幸いにも談山神社への被害は見うけられなかった。
流石にこの山深きところまで来る国内外の反日連中はいないであろう。 やがて、神罰が下されるであろう。


その後、大和国一宮・三輪明神 大神神社(おおみわじんじゃ)へ。  次回のブログへ続く。 

それでは、また。 ごきげんよう。







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