北面武士

至誠通天

米国初渡航

2014-09-04 | インポート

泰大と智大へ、

機会があったら一度米国へ行ってみろ、San Franciscoあたりが無難かも。 一週間ホットドッグとハンバーガーだけでも生きていけるし、現在だったらバイト代だけで渡米可能だ。 百聞は一見にしかず、自分の目で見て、身体で感じてみろ。 (学校が休みの時に限る!)

来週江戸へ帰ったら再度靖國神社を参拝して、ゆっくり時間をかけての遊就館を拝観しろ。 おまえと同じ歳に散っていかれた先輩達の勇姿を拝観し、親兄弟宛に送付された手紙を拝読してこい。 

オイラがおまえ達の歳の頃の話。

日本が戦争で負けた国はどのようなものか、いままで勉強してきた英語は通じるのか、初めて親元を離れ異国の地で生活出来るのか、憧れのロック・バンドと会えるのか等々、不安と期待で頭の中が真っ白になりながら、手持ちのハード・ケースに「護国尊皇」や「大日本帝国海軍」のステッカーを貼り、日章旗、旭日旗をバッグに詰め込んで、成田空港から米国・加洲・羅府国際空港へ向かって飛んだ18歳の春・・・。  

羅府空港税関で、持ってきた模造太刀がチェック対象となり、税関の役人が5人くらい集まってきて模造太刀だと説明するのに大童だった。  太刀を抜いて刀身に刃が無い事を証明したり、持ち込んだ理由を説明したり大変だったが、とりあえず税関をクリアし米国へ入国出来た。 いきなり強制送還では親に会わす顔がない・・・。 

そのままサン・ディエゴまで車両で移動。 フリー・ウェイ片道3車線&無料に驚き、ガソリンの安さに驚き、途中立ち寄ったスーパー・マーケットの大きさと食物類の価格の安さに驚き、米国の持つ強大な国力を身体で感じた。  道路を見ると国力がわかる。

数日後、サン・ディエゴ海軍基地に停泊中の航空母艦、巡洋艦、駆逐艦を間近で見て、海軍航空ショーでF-14を筆頭に艦載機A6,A7やP-51,B-17, B-25等の旧式戦闘機や爆撃機を観て、何となく大日本帝国が負けた理由を理解出来た・・・。 全てにおいて物量が違い過ぎ、少数精鋭だけでは勝てない。 戦局で勝っても戦略で負ける・・・。 強烈な精神的ダメージを被ったが、この軍隊に真っ向から戦い抜いた先輩達の偉大さも同時に感じ、日本人として誇らしく思った。 この時初めて日本人としての自覚を持つ。

当時の日本は250円/1ドルの頃で、Sony Walkman発売と共に日本が世界で認識され始めた頃だったが、未だ前の大戦経験者(リタイア)達のように日本を嫌っている米国人が大勢いた。 私も床屋で散髪を拒否されたり、レストランでの冷たい給仕等、様々な人種差別を受けたが、今では良い経験だったと思う。 日系米国人の方々の苦労は相当なものだったはず。

 

サン・ディエゴにて、まずは外国人が大学入学に必要なTOEFLの点数を取得すべく、英語専門学校へ入校(進学コースと英会話コースの二択)。  進学コース入校試験後、1クラス30名くらいのビギナーからアドバンスドの5段階のクラスのうち、中間レベルのクラスに組み込まれた。  

各クラスには日本人、アラブ人、南米人、欧州人、アジア人と世界各国から大勢の生徒が来ていて、自然と同国もしくは同言語同士のグループに別れていく中、私は何故か日本グループではなく南米グループに属していた。 彼等はスペイン語を母国語とする国だったので、プライベートではスペイン語しか話さないから、私も必死でスペイン語を覚えようと努力した。 英語もまともに話せないのだが、スペイン語のほうはスペイン人の8歳年上の彼女に教えてもらいながら、人生経験を積ませて戴いた。 その影響かもしれないが、後年コロンビア人と結婚。(既に離婚済) 外人好きはころ頃から始まったのかもしれない。

日々、初めて目にする物を知り、初めて口にする物を食べ、知らない事を知り、充実した楽しい時間を過ごした。 この英語学校の頃だけでもいろいろと記載不可能な事が多々あったが、ドラッグだけは親父との約束で決してやらなかった。 我一族の御法度である。

大勢いた日本人グループ(英会話コース100名、進学コース20名)の中で親しかったのは、私とは流派が違う剛柔流空手道2段の三木さんと、少林寺拳法3段の栗林さんと、沖縄のカズオさんの3人だけだった。 カズオさん以外、我々3人は武道一筋の硬派(暴れ者)という風評被害により日本人グループから恐れられていたと後日知らされる。 私にはほとんど関係なき事だったが・・・、風評被害とは恐ろしいものだ。  

勉強は辛かったが、我々3人同時にグロースモント・カレッジに入学する事が出来た。 同じ頃、英語学校の南米グループの仲間達もそれぞれ他州の学校へ入学したり、帰国したりして離ればなれになってしまった。 悲しい試練の一つだったが、新たな試練の始まりでもあった19歳の夏。  入学が決まり、念願の一時帰国を許される。 あまりの嬉しさに泣いた。

今日は疲れたので、続きはまた後日(覚えていたら)。

それでは、また。 ごきげんよう。

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大正時代の地図

2014-09-04 | インポート

第一次世界大戦時に作成された世界地図。 なかなか良き風刺画かと。

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大日本帝国と大英帝国が仲良しだった頃です。

注) 画素数が大きいので少々重たいですので、写真を開く時に暫くお待ち下さい。

それでは、また。 ごきげんよう。

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伊勢にて講演拝聴

2014-09-04 | インポート

九月四日(木) 雨

昨日は、東條英利氏による「一般社団法人 国際教養振興協会」設立記念キャラバン講演が、神都伊勢にて開催された。  東條英利氏は第40代内閣総理大臣・従二位陸軍大将であらせられた東條英機閣下の直系の曾孫であり、東條由布子女史の甥。

「国際教養振興協会」は日本人として健全なナショナル/ローカル・アイデンティティに裏打ちされた確かな「教養教育」の機会創出を目指し、自分たちの住む国、地域に対する強い愛着と誇りを持った人材育成に努める。 そして、国内外の文化交流を育みながら、日本固有の伝統文化、社会イデオロギーに対する理解促進に努め、確かな教養を持った強い人材、企業を国内外に循環させる、グローバル・イデオロギーとローカル・イデオロギーが相互機能を果たす新たな社会的枠組みを創出していく事を目指す団体。 (パンフレットより引用)

難しい言葉が並んでいる・・・。 要は国際的に恥ずかしくない日本人を育成しようという感じ。 その為に必要なものは何かを、「国際教養人8か条」として上げられている。

1.国家感  自国の歴史・民族に対する意識 - 自分自身が生まれた国、国家、民族に対する関心と感謝を深め、その一員としての自覚と誇りを持つ。

2.地域感  地域社会に対する意識 - 生まれ育った地域に対する愛郷心を忘れることなく、その土着文化、習俗に対する関心と感謝を深め、その一員としての自覚と誇りを持つ。

3.社会意識  社会人としての自覚 - 一社会人として公の意識を持ち、公正明大な社会の実現を目指して、自身の能力を社会に還元する志を持つ。

4.家族意識  先祖、家族に対する感謝意識 - 自分を産み、育ててくれた家族、そして、そのルーツにあたる先祖に対する関心と感謝を深め、家族を大切にできる心を持つ。

5.道徳心  自立自啓・利他の心構え - 自己中心的な考えを改め、相手の状況に則って慮る心、そして自身の存在に感謝する「おかげさま」の心を持って世界に臨む姿勢を磨く。

6.行動意欲  受動的でなく能動的な構え - 他者からの施しを待つのではなく、自らの意志と前向きな好奇心を持つことで自主的行動を磨く。

7.理解力  差別ではなく区別のできる理知的思考 - 感情的な判断ではなく、俯瞰的かつ冷静な視点を持って分別の判断できる理知的な思考を磨く。

8.表現力  自己表現できる確かな技術と創造力 - 自分の考えを表現出来る様々な手段とそれを伝える勇気を養い、自分の可能性を世界に発信する力をみがく。

私には表記されている単語や文章が少々堅苦しく思えるが、、要は「教育勅語」を基本として現代の国際社会情勢に対応可能な人物となりなさい、といった感じだ。(勝手な解釈で申し訳ない)

教養(Culture)とは、人本来が持つ資質の構成であり、自我(Identity)の補足要素。 ”自我”を中心として、”教養”を身につけた後、”知識”を得る事が出来る。 

「最も民族的なものほど、最も国際的である」  by ゲーテ

日本語で一番美しい言葉は「おかげさま」。 外国人のどなたが言われたか忘れました、失礼。

東條氏の講演内容は、基本的に我々が経験したような事を若者達へ教えながら、国際的に恥ずかしくない日本人の育成を目指していくのが目的のようだ。 話を聞いていたら、初めて渡航した18歳の自分を思い出した・・・。 あ~恥ずかしい!

外国人との会話で、お互いの国の事を話す事が多々ある。 自国と違うものに興味があるので歴史、宗教、伝統文化の事をよく聞かれる。 その時に自国の歴史を知らないで恥をかいた日本人が私の回りに大勢いたのを覚えている。 また、英語を話せても知識がないと会話にならない(日本語も同様)。  日本人として、最低限の自国の歴史・伝統文化・宗教・食事を知らない事には日本人とは思ってくれないだろう。(似非日本人も多々いるが)

東條氏の話で一番嵌まった言葉は、”政治的に、宗教的に私は中立です”と言っている人は、本来なら左翼思想も理解し、右翼思想も理解した上で中立を保つ、仏教を理解し、キリスト教、イスラム教も理解したうえで中立を保つというのが本来の中立であるが、実際には両方理解しない無教養・無知識で”中立”(本来なら”無関心”)と言っている人がほとんどだ。  何故かこの言葉に嵌まってしまた。  納得!

毎回、一気に書き殴った支離滅裂な文章で申し訳ありませんが、御容赦願います。

今回は、神宮参拝禊会仲間の上村善氏の主催により、東條英利氏講演の運びとなり誘って戴きました。 おかげさまで、有意義な時間を過ごす事が出来ました。 感謝合掌

それでは、また。 ごきげんよう。

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歴史本

2014-09-01 | インポート

八月三十一日(日)

今週は、写真整理・プリント依頼、写真DVD作成&送付等で時間を費やした。 各所より受領の連絡があったので、とりあえず完遂。   

昔はフィルム代が高価だったので、写真1枚撮影するのに”一発必中”の心構えで挑んでいたが、最近は3~5枚撮影した中から1枚を選択するようになった。 撮影した同じシーンの写真比較を行うだけで、相当な時間が必要となっている。 特に集合写真において目をつぶる人が大勢いるので、極力全員が目を開けた状態の写真を選択しなくてはならないからだ。

写真撮影時に”目を開けて~!”とお願いしているのだが、必ず何名かは目をつぶっている・・・。 幕末・明治の頃の銀盤写真撮影で5分~15分間微動だにせず写るのではないのだから、せめて3秒~5秒は目を開けていて欲しい。 もしくは後ろ向きでいて欲しい・・・。

今週は井沢元彦氏の「南北朝動乱と戦国への道」を読んでいる。 私の好きな足利義政公の馬鹿さ加減により応仁の乱が始まり、下克上の戦国時代へ突入した件を解説してある。 「逆説の日本史」に記載されている内容に書き足した内容だが、井沢氏の視点と歴史感が素晴らしいので何度読んでも面白いし、復習にもなる。

最近興味を持っているのが、陣参公家衆だ。 戦国時代で私が一番好興味を持つ、五摂家筆頭である藤原の氏長者・近衛前久公を中心とする公家衆、日野輝資、飛鳥井雅敦、烏丸光宣、土御門久脩、竹内長治、正親町季秀、高倉永相・永孝等。 前久公(龍山)の嫡男・信伊公(三藐院)も含め、当時の公家衆はお歯黒の軟弱な公家ばかりでなく、戦場へ陣参した荒ぶる公家も大勢いた。 戦国大名となった土佐の一条氏、飛騨の姉小路氏が有名な戦国公家である。

公卿・公家に関する資料は、あまり世の中には出回っておらず、一部の専門家によって独占されているのが現状で、時折見かけた本の価格も驚くほど高価で、ほぼ原文に近いので解読不可能な状態だ。 

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近衛前久公。 従一位 関白左大臣

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近衛信伊公。 従一位関白。

近衛前久公は、上杉景虎(謙信)上洛時に血書起請文を交わして同盟を結び、越後へ下向し上杉軍に陣参して関東方面で活躍したり、足利輝政公暗殺に関与されるとの疑惑により、政敵の先関白・二条昭晴公(足利義昭の圧力)から罪を追求され追放されて京を去り、丹波・赤井直正氏や本願寺顕如を頼ったり(本願寺顕如の子・教如は前久の猶子)、近衛家の荘園でもあった薩摩へ流されたりもしている。 幕末まで近衛家と薩摩・島津家の交流は継続。 

前久公と織田信長公とは当初同い年という事もあり、破天荒な前久と波長が合い良好な関係を保ち、息子に”信”の一字をもらい信基(信伊)とする。 しかし、信長公が徐々に朝廷(主にお歯黒おじゃる衆)をないがしろにしていくうちに互いの溝が深まっていく。

本妙寺の変に関わったとして織田信孝や羽柴秀吉から詰問され、隠居し龍山と号し徳川家康を頼って遠江・浜松へ下向。 (徳川性へ変更時に支援)

隠居後は慈照寺東求堂(銀閣寺)を別荘として過ごしたとの事。

息子の信伊も政敵・二条昭実と関白を巡り確執があり、秀吉に関白職が移った為に左大臣を辞任、自堕落的に武将として朝鮮へ出兵しようとするが朝廷の勘気を被り薩摩に三年間配流といった波瀾万丈の人生を送っているが、晩年は書家として寛永の三筆として一流を立てている。

近衛前久公と嫡男・信伊公に関する本はほとんど見当たらないが、先日ネットで検索中に「三藐院 近衛信伊 残された手紙から」という本を見つけて注文完了。 待ち遠しい!

今回はマニアックな記述となってしまいましたが、陣参公家衆に関する資料等がございましたら、教えて戴きますようお願い致します。

それでは、また。 ごきげんよう。  

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館友会 岐阜県大会

2014-08-25 | インポート

八月二十三日(土) 晴

「平成二十六年度 皇學館館友会全国大会 岐阜県大会」がホテルアソシア高山リゾートにて開催された。  全国大会開催地は毎年各県持ち回りで開催されており、今年は岐阜県高山市にて開催。 

館友会とは、皇學館卒業生が毎年八月下旬の土曜日に集う、同窓会に近いOB会。

私は皇學館出身ではないが、7~8年前より特別会員として館友会事務局・写真撮影担当&空手部関係者として出席させて戴いている。

当日早朝、昨夜の睡眠時間4時間という過酷な状況の中、コンビニでメガシャキを購入&一服後、南さんのお宅まで移動。 南さんの車両に同乗して飛騨高山まで約4時間かけて移動し、10:00 頃ホテルアソシアに到着。 諸先輩方々と挨拶を交わした後、15:00 過ぎまで南さんより自由時間を戴く。 感謝合掌

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移動途中、ひるがの高原SAにて高山ラーメンを食す。 醤油味&細麺。 スープがちょっと温かった・・・。夏バージョンかも。  またもや写真撮影を忘れる・・・。  冷たい牛乳が美味い!

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山深く空気が美味い。 ゆるやかな風が吹いて気持ちが良い。

前回、飛騨高山を訪れた時は、皇學館大学 前理事長・上杉千尋氏の葬儀に参列した翌日に、宮川朝市と高山祭屋台会館を見学させて戴いた。 その後すぐに白川郷見学へ出向いたので、市内を散策する時間があまりなかった。 今回は高山陣屋へ足を運び、のんびりと市内観光を満喫する事が出来た。  江戸時代、飛騨地方は徳川幕府の天領だったので、代官(郡代)の役所、役宅、蔵として高山陣屋が設置されたとの事。 歴史を感じ、江戸時代を勉強するには最高の建築物である。  歴史フリークには堪らない物件だ!

今回初めて山岡鉄舟が飛騨高山で10歳から17歳までの青春を過ごした事を知り驚いた。 幕末・維新の時代において、私が一番好きな人物が中村半次郎であり、二番目に好きな人物が山岡鉄舟(旧姓:小野)である。

山岡鉄舟を題材にした本「始末におえぬもの」は未だ拝読してないので、鉄舟の親父殿が飛騨高山の郡代として赴任されている期間、鉄舟が17歳まで当地で育ったとは知らなかった。 その後、鉄舟は江戸へ上がり小野家から山岡家の養子となり、幕末~明治時代に活躍された。 江戸城無血開城において一番重要な役割を果たした人物である。 若かりし頃の明治天皇の教育係としても有名。

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高山陣屋の説明。

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高山陣屋正面。

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正面玄関。

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御役所~御用場を過ぎると、役宅部・書院造りの居間へ。

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武家屋敷らしい「孝」と「忠」の掛け軸。

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使者之間。 太った腹が苦しくて駕籠には乗れない・・・。

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御白州。 竹駕籠の中に村田憲彦を探すも既に逃亡済???

残念ながら、山岡鉄舟の資料部屋は写真撮影禁止となっていた。

高山陣屋拝観後、多くの観光客が集まる古い町中を散策して飛騨蕎麦を食す。 美味し! 一週間前の豪雨で川が氾濫してダメージを受けたとの事だが、早急なる復旧作業で町中は普通の状態に戻っていた。 

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町中の観光地は歩いて散策可能。 直射日光は暑いが、心地良い風が吹いていた。

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酒屋で一杯飲りたかったが、運転しなくてはいけないので我慢。 飛騨の地酒、清酒もにごり酒も美味い。

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飛騨牛にぎり寿司(一皿・二カン)店頭テイクアウトの店に大行列。 私は別の店でざる蕎麦を食すが、またもや写真撮影を忘れる。 

14:00 を過ぎたあたりで高山駅前のホテルにチェックインし、暫し休息。 15:00 にホテルアソシアへ移動し、南さんと合流。  今回の岐阜県大会のまとめ役(事務局)である、南さんの空手道部の盟友・飛騨山王宮日枝神社宮司・奥洞憲仁氏と奥方の恵子女史と軽い打合せを行う。 大学時代、南さん、大野宮司、奥洞氏の3名に刃向かう事が出来る者は皆無だったようだ。(同時代を知らない私だが、普通に理解出来る)

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ホテルアソシア高山リゾートにて開催された「皇學館館友会全国大会 岐阜県大会」会場。 総会の一コマ。  

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記念講演「ニュージーランドから見た日本」の講師・ニュージーランド大使館 ジェイソン・リーブス商務参事官御夫妻(左)と、岐阜県大会事務局・飛騨山王宮日枝神社宮司 奥洞憲仁・恵子御夫妻(右)。

記念講演終了後、ミュージアム飛騨にて木製椅子・テーブル等、地元産家具類や建築技術道具を拝観。 ホテルへ戻り館友会のメイン・イベント「懇親会」が始まる。

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懇親会が始まる。 飛騨高山の祝い唄「めでた」が出るまで自席を離れる事は許されず、食事を堪能する時間となっている。 

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日本酒に合う地元の一品。 この後いろいろ食事が出たが、ローストビーフが美味かった。

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祝い唄「めでた」。 張りのある声が会場に響き渡る。

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引き続き、国重要無形文化財「徳兵衛獅子」が始まる。

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通常は春のお祭り(日枝神社)と秋のお祭り(八幡宮)でのみ披露される獅子舞だが、今回は特別に会場にて披露して戴いた。

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大きな動きで迫力ある獅子が4匹同時に舞う。 初めて見る独特の獅子舞に感動止まず。

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ベテランと若い伝承者達により、見事な徳兵衛獅子が披露された。 感謝合掌。

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奥洞御夫妻と岐阜県館友会の方々。

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同じく岐阜県館友会の方々。 大変お世話になりました。 感謝合掌。

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左より、館友会本部事務局長であり、南さんの空手道部先輩・鈴木正博氏、日本空手協会師範であり鈴木氏・南さんの大先輩・四宮裕爾氏、戦前の神宮皇學館大学卒・寮歌を披露される星田道夫氏、皆様御存知の南英雄氏。  押忍!

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館友会全国大会の〆である寮歌を歌われる星田氏。 参加者全員180名以上が輪となり唱和する感動のシーン。  楽しい余韻に浸りながら閉会となる。  その後、四宮さん、南さん、岩田さんと当方の4人で、高山駅前の居酒屋にて一献。 

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地元のにごり酒で一献。 諸先輩方々は清酒にて一献。

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高山名物・漬け物ステーキ。 飛騨牛と共に私が愛する一品。

その後、高山ラーメンを食べに行くとの事で追従するも、私は生ビールのみ注文。 先輩方の食欲には驚いてしまう。 深夜00:00となり、全員でホテルへ戻り就寝。  爆睡! 

八月二十四日(日) 雨

翌朝、南さんは法事参列の為、朝一番の電車で帰宅された。 私は一人ホテルで朝食を戴いた後フロアを歩いていたら、四宮さんと遭遇。 四宮さんは白川郷ツアーに参加されるとの事で、出発までお付き合いさせて戴く。  その後、雨の中を歩きたくないので、一人運転して帰路へつく。  久しぶりに運転中にラジオ番組を聞いて、わけもなく楽しい気分となる。 何故だ?

帰路途中、御在所SAにて好物のトンテキ定食を食す。 またもや写真撮影を失念・・・。  

食後の睡魔と壮絶な闘いを続けながら暫く走行していたが、敗北の色が濃くなってきたので仕方なくPAにて停車し、缶コーヒーを飲んで深呼吸。 その後、睡魔に襲われる事なく無事帰宅する事が出来た。

写真の整理をする気力も無く、ちょいと昼寝。 その後、先週のブログ作成&アップを行い、昨日電話を戴いて応答出来なかった方々へ順番に電話していたら、あっという間に 20:00 。 一日はあっという間に過ぎていくと思いながら、”だいちゃん”にて一献。  帰宅後、爆睡!

明日から写真整理・・・。 撮影時間と同じ時間が必要・・・。 ブログの作成も・・・。

それでは、また。 ごきげんよう。

 

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