平成三十一年一月十九日(土) 晴
今年は「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム・シーズン2」に嵌まっている。
昨年放映されたシーズン1の続編で、14~20世紀初頭まで600年間存在したオスマン帝国の最盛期を作り上げた第10代皇帝スレイマンの時代(1520年-1566年)、皇帝に次ぐ地位の大宰相・イブラヒム・パジャ(皇帝妹・ハティジェの婿)と、ウクライナ人の奴隷~寵妃~后妃へと成り上がった悪女?ヒュッレムの争いを中心に、ヒュッレムの、権謀術数を用いた後宮のライバル達(母后・ハフサ、皇妃マヒデブラン)とのドロドロした世界を描いている作品だ。 脇を固める女官長、宦官長や後宮の側女達が良い仕事をしている。
シーズン1でも結構嵌まったのだが、今回のシーズン2の方が展開が早く、観る毎に引き込まれていく。
基本的にフィクションで、諸外国との軍事・外交・内政等のストーリーに忠実なので面白さが半端なく、毎日録画した番組を就寝前に必ず観ている。
これからの展開が楽しみで、ワクワク感が止まらない。 トルコの酒・アラックを飲みながら、トルコ料理を食したくなってくる。 思えば20年以上トルコ料理を食してない。
このスレイマン皇帝が亡くなり、ヒュッレムの息子・セリム2世が第11代皇帝を継承後、セリム2世は酒と女に耽り、軍事・外交・政務をほっぽりだし、大宰相達に一存する体制となり、以来皇帝は完全な飾り物と成り果ててしまった。 以来、オスマン帝国は徐々に衰退の一途を辿る。
17世紀に軍事力をつけたヨーロッパ諸国の侵攻や、アラブ諸民族の自立で領土が縮小し、19世紀に近代化に失敗。
1922年にトルコ革命で600年続いたオスマン帝国滅亡となる。 最後の皇帝となる第36代皇帝メフメト6世一家は帝国滅亡後にマルタに亡命し、現在、彼の子孫達はイタリア、エジプト、フランスにいるとの事。
現在はオスマン・トルコと呼ばれる事はなくなったそうだが、このオスマン帝国外伝が爆発的人気となってからは、トルコ国内でもオスマン帝国時代の名称を冠したホテルやレストラン等が増えているそうだ。
1890年に和歌山県串本沖で起きたエルトゥールル号遭難事故以来、トルコは日本に対し恩義と友情を感じ、世界一の親日国家として現在も友好関係が続いている。
また、2015年にはエルトゥールル号海難事故を題材とした日本・トルコ合作映画「海難1980」が公開された。
トルコでは教科書に記載されているが、日本の教科書には記載されていたのだろうか? ガキの頃は教科書に落書きばかりしていたから覚えてないのかも?
私が娑婆で働き始めて、これから海外出張が増えてくる頃、1985年のイラン・イラク戦争(1980年勃発)時に、テヘラン在留の多くの日本人が出国不可能な状態となった。
それは3月17日にイラク軍が、3月19日20時20分を過ぎたらイラン領空全域を戦闘地域とし、全ての民間機も攻撃の対象となると発表。
日本政府がイラン・イラク両国に救援用特別機の飛行の安全を保証されるよう交渉したが明確な返事が得られなかった。 チャーター機を準備する時間も無い、突然の発表であった。
ソ連・エアロフロートは自国民を優先し、日本人の搭乗を拒否、オーストリア航空2機、エールフランス機、ルフトハンザ機で40名余の邦人が脱出したが、200名以上の邦人が取り残された。
その時にトルコ駐在の商社マンで、日本・トルコ協会理事を務めておられた故・森永堯氏が、旧知のトルグト・オザル首相(当時)に在留邦人を救うために航空機を派遣して戴きたいと依頼し、オザル首相は”親友の森永さん、心配するな、我々は日本人に恩返しをしなければいけないからね”と答え、派遣を決定してくれたのだ。
オザル首相の指示を受けたトルコ航空が救援のパイロットを募ったところ、その場にいた全員のパイロットが手を挙げたそうだ。
イランには多くのトルコ人も残留していたのだが、トルコ政府は日本人を優先して飛行機に搭乗させ、残された自国民はトルコ大使館が用意した車に分乗し、陸路でイランを脱出しトルコへ移動したとの事。
イラクの警告期限の3時間前に離陸した一番機に日本人198名、期限1時間前に離陸した二番機に17名が搭乗し、無事イランの国境を越える事ができた。
この時のニュースは今でも鮮明に覚えている。 しかし、当時はエルトゥールル号海難事故を知らずにいた・・・。 ユセフ・トルコしか知らなかった頃が恥ずかしい・・・。
1990年8月17日に発生したトルコ北西部大地震では、テヘランで助けられた商社マンや銀行マンが義援金募集に奔走し、日本政府も迅速に救援物資や無償援助の提供、レスキューチーム、医療チーム、耐震診断の専門家、ライフラインの専門家が派遣され、横須賀から救援物資の仮設住宅を積んだ日本海軍輸送艦・おおすみの艦長から次のような訓示があった。
「トルコ共和国はイラン・イラク戦争の祭、危険もかえりみずに二機の航空機を派遣し、テヘランに在留していた邦人215名を救出してくれた。 日本は、いまこそ、トルコの恩に報いなければならない。 トルコの人々の友情に応えなければならない。 先達が遺してくれた日本とトルコの絆を断ち切るようなことがあってはならない。 さあ、すみやかに、トルコへ向けて出発しよう。 トルコには日本の支援を待ち焦がれている人々がいるのだ」と。
日本からの救援物資はトルコへ届けられ、仮設住宅は「日本トルコ村」と呼ばれ、ピーク時には5000人の避難民が身を寄せられていたようだ。
ドアには日の丸が張られ、路地は「東京通り」、「神戸通り」などと名付けられたとの事。
その後、日本でも阪神大震災、東日本大震災、熊本大震災、北海道大震災が発生し、トルコでもアンカラや他の地方でも大きな地震が発生する度、お互い救援活動を行い交流を継続している。
トルコ、台湾、パラオ。 ありがたき国家に感謝。
それでは、また。 ごきげんよう。