零和三年十二月四日(土) 晴
体調不良だった本業の相方が亡くなって早一ヶ月。
十月半ばに一度社会復帰したのだが、その一週間後に検査入院の為再度戦線離脱となり、二週間後に相方の舎弟より相方逝去との連絡あり・・・。 私より3歳若いというのに・・・。
正に青天の霹靂であった。 R.I.P.
相方と初めて会ったのは20数年前の台湾の屏東県の田舎町だった。
当時、私がN社の業務で出張した時、相方はF社の業務で同じ現場で稼働していた。
あの頃は一つの現場にT社やK社も同時に稼働しており、週末は皆で高雄へ移動して六合市場周辺を中心に数か月間一緒に遊びまくっていた。
昔は一般的に他社との私的交流は珍しかったのだが、我々全員年齢も近く現場でもお互い支援しながら業務遂行していたので和気藹々とした現場で楽しい時間を過ごすことができた。
週末の高雄の六合市場近辺の宿(相方の会社の伝手で高級ホテルに激安で宿泊できた)を起点に、居酒屋~足裏マッサージ~クラブ(スナック)~小姐達とカラオケ、翌日は小姐達と飲茶~観光~台湾料理~同伴出勤~カラオケのローテーション。 高雄の魯肉飯と牛肉麺がたまらなく美味しかった。
半年後、相方とはたまたまK社のプロジェクトで一緒になり、二人で組んで米国で半年ほど渡航し業務に勤しんだ。
米国では日本側と稼働時間を合わせる為、我々は14:00 - 24:00の時間帯で稼働し、ホテルへ戻ったら暖炉の暖かい炎と、ターキー・サンドイッチを肴に加州葡萄酒を毎晩ガブガブ飲みまくっていた。
週末はサン・フランシスコまで移動し、フィッシャーマンズ・ワーフやダウンタウンのライブハウスでブルース三昧。 ビール、バーボン、たばこの2本吸いの不摂生の塊のような堕落した生活が懐かしい。
その後私が異国企業の手先となり、暫くは相方との交流は途絶えていたが、15年ほど前にこちらに欠員が出たので即相方に連絡を取り、こちらへ来てもらった。
色々な経緯があり、最終的に私と相方の2人が別の異国企業へ移籍する事となり、この5年間は2人で稼働を続けてきた。
長い付き合いなので、お互い仲がいい時もあり険悪な時もあったが、業務上相方ほど信頼出来る者がいなかったので、今回の訃報は右腕と脳みその半分を失ってしまった感じだ。
しかし、現場は複数のプロジェクトが同時に動いているので、心身ともに疲労困憊していても稼働を続ける必要があり、この一か月はリアル地獄のような日々だった。 来週一週間まで継続予定。
相方の存在の重要性をひしひしと感じる昨今。
相方のご冥福をお祈りすると共に、感謝の意を捧げます。
R.I.P.
それでは、また。 ごきげんよう。
調献式後に南会長宅にて、相方さまが緊急入院されたと聞き心配しておりました。
ブログでご逝去を知り、悲しい思いでいっぱいです。
相方さまのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
北面武士さまご多忙でしょうから、御身体どうぞご自愛くださいませ。