北面武士

至誠通天

歴史本

2014-09-01 | インポート

八月三十一日(日)

今週は、写真整理・プリント依頼、写真DVD作成&送付等で時間を費やした。 各所より受領の連絡があったので、とりあえず完遂。   

昔はフィルム代が高価だったので、写真1枚撮影するのに”一発必中”の心構えで挑んでいたが、最近は3~5枚撮影した中から1枚を選択するようになった。 撮影した同じシーンの写真比較を行うだけで、相当な時間が必要となっている。 特に集合写真において目をつぶる人が大勢いるので、極力全員が目を開けた状態の写真を選択しなくてはならないからだ。

写真撮影時に”目を開けて~!”とお願いしているのだが、必ず何名かは目をつぶっている・・・。 幕末・明治の頃の銀盤写真撮影で5分~15分間微動だにせず写るのではないのだから、せめて3秒~5秒は目を開けていて欲しい。 もしくは後ろ向きでいて欲しい・・・。

今週は井沢元彦氏の「南北朝動乱と戦国への道」を読んでいる。 私の好きな足利義政公の馬鹿さ加減により応仁の乱が始まり、下克上の戦国時代へ突入した件を解説してある。 「逆説の日本史」に記載されている内容に書き足した内容だが、井沢氏の視点と歴史感が素晴らしいので何度読んでも面白いし、復習にもなる。

最近興味を持っているのが、陣参公家衆だ。 戦国時代で私が一番好興味を持つ、五摂家筆頭である藤原の氏長者・近衛前久公を中心とする公家衆、日野輝資、飛鳥井雅敦、烏丸光宣、土御門久脩、竹内長治、正親町季秀、高倉永相・永孝等。 前久公(龍山)の嫡男・信伊公(三藐院)も含め、当時の公家衆はお歯黒の軟弱な公家ばかりでなく、戦場へ陣参した荒ぶる公家も大勢いた。 戦国大名となった土佐の一条氏、飛騨の姉小路氏が有名な戦国公家である。

公卿・公家に関する資料は、あまり世の中には出回っておらず、一部の専門家によって独占されているのが現状で、時折見かけた本の価格も驚くほど高価で、ほぼ原文に近いので解読不可能な状態だ。 

Photo

近衛前久公。 従一位 関白左大臣

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近衛信伊公。 従一位関白。

近衛前久公は、上杉景虎(謙信)上洛時に血書起請文を交わして同盟を結び、越後へ下向し上杉軍に陣参して関東方面で活躍したり、足利輝政公暗殺に関与されるとの疑惑により、政敵の先関白・二条昭晴公(足利義昭の圧力)から罪を追求され追放されて京を去り、丹波・赤井直正氏や本願寺顕如を頼ったり(本願寺顕如の子・教如は前久の猶子)、近衛家の荘園でもあった薩摩へ流されたりもしている。 幕末まで近衛家と薩摩・島津家の交流は継続。 

前久公と織田信長公とは当初同い年という事もあり、破天荒な前久と波長が合い良好な関係を保ち、息子に”信”の一字をもらい信基(信伊)とする。 しかし、信長公が徐々に朝廷(主にお歯黒おじゃる衆)をないがしろにしていくうちに互いの溝が深まっていく。

本妙寺の変に関わったとして織田信孝や羽柴秀吉から詰問され、隠居し龍山と号し徳川家康を頼って遠江・浜松へ下向。 (徳川性へ変更時に支援)

隠居後は慈照寺東求堂(銀閣寺)を別荘として過ごしたとの事。

息子の信伊も政敵・二条昭実と関白を巡り確執があり、秀吉に関白職が移った為に左大臣を辞任、自堕落的に武将として朝鮮へ出兵しようとするが朝廷の勘気を被り薩摩に三年間配流といった波瀾万丈の人生を送っているが、晩年は書家として寛永の三筆として一流を立てている。

近衛前久公と嫡男・信伊公に関する本はほとんど見当たらないが、先日ネットで検索中に「三藐院 近衛信伊 残された手紙から」という本を見つけて注文完了。 待ち遠しい!

今回はマニアックな記述となってしまいましたが、陣参公家衆に関する資料等がございましたら、教えて戴きますようお願い致します。

それでは、また。 ごきげんよう。  

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