大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸東日本橋・薬研堀不動院と七味唐辛子【お江戸三大不動】

2010年11月14日 22時08分38秒 | 中央区・歴史散策
日本橋浜町から浅草橋へ抜ける道すがら、江戸らしい響きを今に伝える不動院があるのをご存知ですか?
江戸時代には日本橋から浅草へ抜ける浅草御門へとつづく途中、更には歓楽街として賑わいをみせていた両国橋西詰の広小路へつづく途中にある不動院には、多くの江戸庶民が参詣に訪れていた名所だったのです。

その名所が今日のお題、「薬研堀不動院」なのですが、実はこの不動院は目黒、目白と並んで江戸の三大不動の一つに数えられていたのです。であれば、それなりの規模の不動様かと思いきや、周囲をビルに囲まれ、どこに参道があるのかもわからない位で、道なのか、参道なのかわからない道筋に赤い幟がたてられていることで、やっとその場所がわかるといった具合です。



ご本尊は不動明王で、古くは天正13年(1585)に大印僧都が尊像を守護して葛籠に収め、それを背負って東国へ下ってきました。やがて隅田川のほとりに堂宇を建立したのが薬研堀不動院の始まりです。その後、幾多の変遷があり、明治25年(1892)真言宗智山派大本山川崎大師平間寺の別院となり、今日に至っています。

薬研堀不動院本堂

ところで「薬研」とはいったい何の事なのでしょう。またどうして薬研堀という地名がつけられてのでしょう。
まず「薬研」とは漢方薬を磨り潰す道具のことです。そして薬研堀の地名の由来は、正保2年に大きな堀を持つ徳川幕府の米蔵「矢ノ倉」がこの辺りにできたのですが、元禄11年に火災で焼失後、堀の一部が残り、底がV字形で浅く「薬研」の形に似ていたので「薬研堀」の地名になったと言われています。

さて、ご本堂の入口は写真のように道路から少し入った場所からのびる急な階段を登りきったところにあります。目黒不動尊に比べると、その規模の小さいことに驚きます。ご本堂の階段の左側に駐車場があり、その駐車場の左端から奥につづく道をはいっていくと狭い境内が現れます。その境内に興味深い石碑が建てられています。

「順天堂発祥の地碑」です。天保9年(1838)順天堂の始祖・佐藤泰然が和蘭医学塾を開講したのがこの地です。その後、安政6年(1859)に現在の浜町に在った堀田備中守・下総佐倉藩の上屋敷に病院を設立したのです。そんな経緯から薬研堀町には多くの医者が住み、矢ノ倉町には病院も多くできたため「医者町」とも言われていました。

順天堂発祥の地碑
順天堂発祥の地碑側面

もう一つ、講談発祥の地碑がたっています。

講談発祥の地碑

こんな薬に関係するこの地だからこそ、考案された日本独自のスパイスがあります。それが七味唐辛子なのですが、それも江戸の初期の寛永2年(1625)には漢方薬を食に利用する方法として開発されたのです。開発者の名前は「からしや徳右衛門」で、後の「やげん堀唐辛子本舗」で「日本三大七味」の一つです。
江戸時代の中期には、両国橋西詰袂には薬(漢方薬)問屋と医者の多くが集まっていたので、地の利を活かし「七味唐辛子」が人気を博していきます。現在は浅草で老舗「やげん掘」の名前で唐辛子の販売を続けています。

薬研堀不動院には馬喰町の繊維問屋街でのお買い物がてらに立ち寄るのも一考。また、浅草橋、向島からもそれほどの距離ではありません。毎年12月27日から3日間に渡って歳末大売り出しが行われ、問屋街の大出庫市と併せ、江戸の昔と変わらぬ賑わいが今でも続いています。是非、足を運んでみてはいかがですか?

納めの歳の市の碑





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