大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

浅草裏・今戸橋袂の今戸神社…招き猫と新撰組沖田の妙なコラボ【お江戸今戸の山谷堀】

2010年11月02日 22時22分01秒 | 台東区・歴史散策
浅草馬道通りから言問通りを渡り、かつて吉原通いで賑わった土手八丁(現在の山谷堀)界隈に今戸橋が遭った場所。かつての山谷堀は大川(隅田川)に通じ、その傍らに向島へ渡るための「竹屋の渡し」があったところ。
吉原遊廓が華やかりし頃、多くの旦那衆は大川を猪牙船で遡り、ここ今戸橋で船を下りて陸路吉原大門を目指したのです。尚、山谷掘は現在暗渠となり、かつての川は埋め立てられ緑道公園となっています。

旧今戸橋の橋柱

江戸時代は浅草裏手の田圃が広がる寂しい場所だったのでしょう。そんな場所も今では住宅が密集し、かつての面影はまったく感じることができません。
そんな場所にあるのが今戸神社。浅草・浅草寺や待乳山聖天までは足が届く範囲で、今戸まではちょっと遠いなと思う方が多いのではないでしょうか。

今戸神社鳥居


さてこの今戸神社は新撰組隊士「沖田総司」とは切っても切れない関係があります。というのも労咳を患った沖田は鳥羽・伏見の戦いに負け、江戸に戻ってきます。その時、沖田の病状はかなり悪化し、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていました。
そして慶応4年の江戸城無血開城に伴い薩長軍の命により、総司を含む患者たちは浅草今戸八幡に収容されたとのこと。医師の松本良順は今戸八幡に寓居して総司を含む患者の治療にあたり、総司は松本良順宅で療養したといわれています。今戸八幡は現在、今戸神社と改称し、境内に「沖田総司終焉之地」の碑があります。
終焉の地については千駄ケ谷説もあり、また没年齢も24歳、25歳、27歳の3説があります。

沖田総司終焉の地の碑

そしてもう一つ、この神社の名物が「今戸焼きの招き猫」。この招き猫の焼き物は江戸の末期頃からのものらしいのですが今戸焼き自体の歴史は古く、16世紀まで遡ると言われています。

今戸焼発祥の地碑
なで猫

招き猫の焼き物の由来ですが、江戸の末期に浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立ってこう言ったそうです。「自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる」と。
そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったとのことです。
境内には「今戸焼発祥の地の碑」と「今戸神社なで猫」の石碑が置かれ、なで猫をやさしく撫でであげると「福を招く」と言われています。

本社殿
本社殿に鎮座する招き猫
社務所玄関の招き猫

またここ今戸神社は縁結びに多大なご利益があるとのことで、境内には円形の祈願絵馬が絵馬掛けに鈴なりに吊るされています。
今戸神社から隅田河岸にでると「桜橋(X橋)」が架かっています。この橋は対岸向島の長命寺、弘福禅師、言問団子、長命寺の桜餅へのアクセスに非常に便利です。是非、向島にも足をのばしてください。





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