大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸湯島・幕府のエリート校「昌平坂学問所(湯島聖堂)」【明神様を後ろに神田川を望む】

2010年11月16日 09時29分36秒 | 千代田区・歴史散策
電気街の喧噪をあとに、昌平橋交差点からから続く外堀通りのなだらかな坂道をのぼると右手前方に歴史の趣を感じさせるような築地塀が見えてきます。この築地塀に囲まれているのが、お江戸の時代の幕府官学の拠点であった昌平坂学問所なのです。お江戸の時代にはここ湯島の高台から町屋の屋根や武家屋敷の甍が連なる景色や御城の櫓も俯瞰できたのではないでしょうか。

昌平坂指標
築地塀

ここで「昌平坂」の名の由来ですが、これは中国の儒学者・孔子の生地「昌平」から採ったもので、名付け親は五代将軍綱吉公です。昌平坂学問所として官学になったのは寛政9年(1797)で、それまでは昌平校という名の私塾だったのです。学問好きの綱吉公が代々、幕府の侍講(教授役)を務めた林家(りんけ)の家塾を上野忍ヶ丘から湯島に移し発展した歴史があります。その後、一時期は衰退したのですが、あの寛政の改革で松平定信公の「寛政異学の禁」なるお達しで、朱子学を幕府の正学としたことから息を吹き返しました。

寛政時代には「学問吟味」なるものすごく難しい試験がここ学問所で始まります。3年ごとに行われる試験で、結構な有名人が受験していたんです。合格した代表としてあの戯作・狂歌界の大物「太田南畝」は首席で合格。また北方探検家として名を残した「近藤重蔵」、そして旗本クラスでは名奉行と謳われた「遠山の金さん」のお父さん「遠山景晋(かげみち)」などが名を連ねています。合格すれば間違いなく出世をするという、エリートになるための「狭き門」がこの学問吟味だったのです。

迎高門

ちょうど湯島の高台から神田川の流れに落ち込むような傾斜地につくられた学問所の敷地は階段状になっており、その階層毎に建造物が配置されています。
神田川側に近い入口に建つ「迎高門」から入ると右手に事務所棟の建物、その棟が切れる辺りに堂々とした居ずまいで「孔子像」が立っています。昭和50年(1975)に中華民国台北市のライオンズ・クラブから寄贈されたもので、高さ4.75m、重さ約1.5トンは世界最大を誇っています。

孔子像

孔子像をあとに数段の階段を登ると前方に木造の門が見えてきます。聖堂敷地内では唯一の木造建造物で宝永元年(1704)建造されたものです。入徳門と名付けられています。

入徳門

この門をくぐると、石の階段が杏壇門へとつづいています。

杏壇門から大成殿前広場を見る

そして杏壇門をくぐると目の前に広々として中庭をもつ大成殿が現れます。漆黒塗りの堂々とした建物は見る者を圧倒します。大成とは、孔子廟の正殿の名称です。正殿の大きさは間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートルの堂々としたもので、殿内の中央の神龕(厨子)に孔子像、左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人が祀られています。

大成殿
 
大成殿(孔子廟)内部

秋深まる中で所内の木々の葉が色づき、築地塀に枝を落とす紅葉が秋風に揺れ心安らぐ風情を醸し出しています。



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