大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸・愛宕神社~幕末のページを飾った水戸尊王志士が集い、勝・西郷が揃って江戸府内を眺めた場所~

2010年12月22日 22時44分22秒 | 港区・歴史散策
都心のほぼ中心といってもいい場所にある愛宕神社は桜田通りと日比谷通りに挟まれたビジネス街を見下ろす高台に位置しています。多くのビジネスマンが忙しく行き交う通りから少し奥まったところに、あの有名な石段がまるで垂直の壁のように山の頂上へ伸びています。

愛宕神社一の鳥居

へえ~、これがあの平九郎が馬に乗って上り下りをした石段なんだ。と改めて感心するほどの急峻な石段なのです。「改めて」と書きましたが、若い頃にはこの界隈は取引先や航空会社のオフィス、各国の政府観光局などへの行き来にしょっちゅう歩いた場所で、いまさら愛宕神社もないだろう、という気持ちがつよいのですが、実は個人的に愛宕神社をゆっくりと時間をかけて参拝するのは初めてかもしれません。

出世の石段
下から見上げる石段

前述の石段を上った記憶も定かではない位に、愛宕神社への参拝の思い出はかなり希薄になっていました。そんなことで、平九郎の石段を眺めながら、あの逸話が事実なのかという疑問と、事実であれば人間離れした快挙であったのだろうと改めて感心した次第です。

さてこの「平九郎」なる御仁のことですが、このような逸話が残っているのです。
時は江戸時代、三代将軍家光公の御代のことです。ある時、家光公が増上寺参詣の帰路にここ愛宕山のふもとにさしかかりました。その時、山頂に梅の花が咲き誇っていたのをご覧になり、一言こう言ったそうです。
「誰か、馬にてあの梅をとってまいれ!」と。
しかし、この愛宕山の石段はあまりにも急峻で、とても馬に乗って上り下りできるようには見えません。
家臣たちは皆押し黙り、一様に静まり返っています。
しばらくの沈黙を破って、一人の男が馬に乗って石段を上り始めたのです。
これを見た家光公は「あの者は誰ぞ」と供の者に聞くと、近習の者が「おそれながら、あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがきへいくろう)と申す者でございます」と声高に伝えたのです。
そして家光公は「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」と賞賛したといいます。
平九郎は山頂の梅を手で折り、垂直の壁のような石段を馬で降りて家光公の御前に梅を献上したのです。
このあっぱれな所業に平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」の称号を与えられ、その名誉は日本中に伝えられたといいます。
この逸話に因んで、愛宕神社正面の急峻な坂(男坂)を「出世の石段」と呼ばれるようになったのです。

この石段は全部で86段、傾斜角度37度、高低差20mという代物です。上りは息は切れるわ、膝が笑うほどガクガクの状態。下りは足がすくむほど恐怖感を覚える始末。よくぞこの石段を馬で上り下りができたものかと…。

息をきらしてのぼった山頂でしばし地べたにしゃがみこむという体たらく。呼吸を整え、社殿へと進みます。
江戸の愛宕神社は慶長8年(1603)に家康公が征夷大将軍に宣下された年に創建された神社です。いよいよ江戸の大普請が始まる頃、家康公じきじきに創建した由緒をもつ江戸の愛宕神社は一説によると、純粋な信仰というより、愛宕山自体が主要街道の中心にあり、江戸城も近いこともあわせて、「隠し砦」としての役割もあったのでは?と推測されています。

愛宕神社本殿

境内には前述の平九郎の手折りの「梅」の老木が残っています。家光公の時代の事ですから、この梅の樹齢は380年くらいはあるのかな?

手折りの梅

そして江戸末期のエピソードとして伝わっているのが、あの桜田門外の変の首謀者である水戸浪士たちが井伊直弼襲撃の前にここ愛宕神社に参拝し、その後、桜田門へと向かったという話。万延元年の3月3日の午前、愛宕山からみる江戸城方面は一面の銀世界が広がり、降り続く雪でほとんど視界が閉ざされていたことでしょう。
そんな気象条件のもとで、水戸浪士たちは降り積もる雪の上を一路、桜田門へ向かったのでしょう。血気にはやる浪士たちの気持ちになって考えて見ても、防寒具がそれほど整っていない時代に、降り積もる雪の上を愛宕山から歩き、桜田門外で井伊直弼の行列をいまか遅しと待つ忍耐力に感服せざるを得ません。

境内の池

この桜田門外の変から8年後の慶応4年の歴史的な出来事は、幕府全権の勝海舟と東征軍参謀の西郷隆盛の2度に渡る会談でしょう。東征軍の江戸総攻撃は3月15日に決定していたのですが、これに対して勝海舟のギリギリの交渉が3月13日に始まります。この交渉が始まる前に設定されたのが、勝と西郷が揃って愛宕山から江戸府内を俯瞰するというセレモニーなのです。そのとき、どちらともなく「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」という言葉が出てきたといいます。そして、13日、14日両日に渡る会談で江戸城無血開城が決定したのです。

山頂から見下ろした石段

現在、桜田門外の変の水戸浪士の痕跡や勝と西郷の愛宕山会見の名残りは何もありません。ですが愛宕の山だけは江戸時代からなにも変わらない姿で今もお江戸の町を見下ろしています。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (菅原で御座います)
2010-12-28 07:46:39
朝晩寒さが厳しくなって 来ましたね(涙)

散策は如何ですか?
以前隅田川七福神にて楽しく かつ 学ばせて頂きましたが
多聞寺が無かった気がしますが どうでしょうか?


返信する
Unknown (【ダンディ松】)
2010-12-28 09:43:34
寒さが増すにつれて、野外散策は結構きついものがあります。最近は足腰に疲れが顕著に現れ、長時間の散策は体力をかなり消耗します。人一倍寒さ嫌いなことで、体を縮めながら歩くので、余計な力が体の各部位に加わり、足腰に負担となっているような気がします。
ご質問の「多聞寺」は距離的に一番離れているため、取材からはずしてしまいました。隅田川(向島)七福神は結構歩行距離があるためしんどいですよね。
返信する

コメントを投稿