神田駿河台の高台にはここが日本かと見まがうような素晴らしい歴史的建造物が聳えています。御茶ノ水の聖橋(ひじりばし)からなだらかな坂を下っていくと、かつて日本大学工学部そして中央大学の白門校舎があった場所、所謂、日本のカルチェラタンと呼ばれた学生街が広がっていました。
学生運動華やかりし頃、御茶ノ水界隈にはたくさんの喫茶店と雀荘が並び、日大、中大、明大のノンポリ学生たちが「今日もまた休講」を愉しむように喫茶店や雀荘で時を過ごしていました。そんな私も、当時は中大生。全中闘の本拠地でもあった中央大学は過激派学生によるバリケードで封鎖され、来る日も来る日も休講がつづく異常事態が続いていました。
そんな学生時代を送らざるを得なかった当時、国電御茶ノ水駅の聖橋口からロックアウトされているはずの白門へとむなしく通う毎日、いつも目に飛び込んできたのがニコライ堂のすすけた建物だったのです。その当時はこの建物がいったい何のためのものなのかすら気にとめることもなく、無意識の内にただ眺めていたことを思い出します。思い起こせば、当時のニコライ堂は現在の外観に比べ、かなり黒ずんでいたように記憶しています。
時代が下り中央大学の白門校舎は今はなく、かつての学生街はビジネス街へと姿を変える中で、ニコライ堂は昔と変わらない異国情緒溢れた姿を見せています。
私がこの駿河台のニコライ堂の姿を身近に感じた時がありました。それは旅行会社に就職し、24歳の頃、はじめて東ヨーロッパの正教圏を訪れた時のことです。日本の御茶ノ水にも同じような建築様式の建造物があることを思い出したのです。特にブルガリアのソフィアのアレクサンダー・ネフスキー寺院をはじめとする正教寺院、さらにはリラ僧院、もちろん東ローマ帝国の総本山であったかつてのコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)のアヤソフィア寺院の姿を見たときに、御茶ノ水のあの建物は「正教寺院」であることを知ったです。
あの独特の丸みをおびた円蓋とその円蓋をささえる柱が形作るアーチ型はビザンチン様式の最たる特徴です。
ニコライ堂正門
正門から見上げる鐘楼ドーム
日本に正教(オーソドックス)が伝播したのは幕末の文久元年(1861)の頃、ロシアからの伝道者「聖ニコライ」によってもたらされました。いわゆるロシア正教です。
そして1864年には日本で初めてロシア正教の洗礼を受けた日本人が3人現れます。その中の一人がなんと坂本龍馬の従兄弟にあたる方で、その名を沢辺琢磨といいます。
彼、沢辺琢磨は攘夷の志からかロシア人であるニコライを見て日本国を毒する輩と決めつけ、ある日、論争を持ちかけ、あわよくば切捨ててしまおうとニコライのもとへ乗り込んでいったのです。しかしニコライの話を聞くうちにその教えの高尚さに心打たれ、やがて正教会の信仰を熱心に奉ずるようになり、ついには司祭にまでなった方なのです。
そして明治24年(1891)にここ御茶ノ水の高台にビザンチン建築様式の「復活大聖堂」が建立され、ニコライの名に因んで「ニコライ堂」と呼ばれるようになりました。
正面ファサード
庭に置かれた十字架
しかしロシア正教ほど、日本において多難な歴史を歩んだ宗教はありません。それは日本とロシア(ソ連)との関係に因るものです。特にロシアが革命により社会主義を標榜し、社会主義こそ宗教であると豪語したあのスターリンの出現でロシア正教は地下に潜らざるを得ない状況に追い詰められていきます。革命後、60年余りに渡り、本国ソ連では正教は弾圧され正教寺院は荒れるがままの状況が続いていました。こんな状況下では、当然駿河台のニコライ堂も活気が薄れていったのでしょう。私が学生時代の頃は、東西冷戦の真っ只中であったことを考えれば、ロシア正教から生まれた御茶ノ水ニコライ堂はもっとも寂れていたのではないかと思います。
そしてゴルバチョフのペレストロイカによるソ連国内でのロシア正教の復権は、ここ日本のお茶の水ニコライ堂にも福音を施したはずです。1992年からお茶の水ニコライ堂の修復工事が始まります。約9年間の工事によって、外壁の塗り替えやさび付いた十字架の架け替えなどが施され、美しい姿に生まれ変わったのです。
正面ファサードのフレスコ画
美しい円蓋
聖ニコライチャペル
庭の片隅に置かれた聖像の頭部
以前、信者ではない私が日曜日のミサにお邪魔してニコライ聖堂内部に入ったことがあるのですが、ロシアで訪れた正教寺院と同じ様な雰囲気と香りを感じたことを思い出します。板に描かれた聖像「イコン」が壁に掲げられ、燭台に灯された蝋燭の炎が堂内に煌く様子はカソリック教会では見られない独特な荘厳さを感じます。
尚、ロシアの正教寺院の建物は「玉葱型」のドームが一般的で、ニコライ堂のような円蓋は見た事がありません。
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学生運動華やかりし頃、御茶ノ水界隈にはたくさんの喫茶店と雀荘が並び、日大、中大、明大のノンポリ学生たちが「今日もまた休講」を愉しむように喫茶店や雀荘で時を過ごしていました。そんな私も、当時は中大生。全中闘の本拠地でもあった中央大学は過激派学生によるバリケードで封鎖され、来る日も来る日も休講がつづく異常事態が続いていました。
そんな学生時代を送らざるを得なかった当時、国電御茶ノ水駅の聖橋口からロックアウトされているはずの白門へとむなしく通う毎日、いつも目に飛び込んできたのがニコライ堂のすすけた建物だったのです。その当時はこの建物がいったい何のためのものなのかすら気にとめることもなく、無意識の内にただ眺めていたことを思い出します。思い起こせば、当時のニコライ堂は現在の外観に比べ、かなり黒ずんでいたように記憶しています。
時代が下り中央大学の白門校舎は今はなく、かつての学生街はビジネス街へと姿を変える中で、ニコライ堂は昔と変わらない異国情緒溢れた姿を見せています。
私がこの駿河台のニコライ堂の姿を身近に感じた時がありました。それは旅行会社に就職し、24歳の頃、はじめて東ヨーロッパの正教圏を訪れた時のことです。日本の御茶ノ水にも同じような建築様式の建造物があることを思い出したのです。特にブルガリアのソフィアのアレクサンダー・ネフスキー寺院をはじめとする正教寺院、さらにはリラ僧院、もちろん東ローマ帝国の総本山であったかつてのコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)のアヤソフィア寺院の姿を見たときに、御茶ノ水のあの建物は「正教寺院」であることを知ったです。
あの独特の丸みをおびた円蓋とその円蓋をささえる柱が形作るアーチ型はビザンチン様式の最たる特徴です。
ニコライ堂正門
正門から見上げる鐘楼ドーム
日本に正教(オーソドックス)が伝播したのは幕末の文久元年(1861)の頃、ロシアからの伝道者「聖ニコライ」によってもたらされました。いわゆるロシア正教です。
そして1864年には日本で初めてロシア正教の洗礼を受けた日本人が3人現れます。その中の一人がなんと坂本龍馬の従兄弟にあたる方で、その名を沢辺琢磨といいます。
彼、沢辺琢磨は攘夷の志からかロシア人であるニコライを見て日本国を毒する輩と決めつけ、ある日、論争を持ちかけ、あわよくば切捨ててしまおうとニコライのもとへ乗り込んでいったのです。しかしニコライの話を聞くうちにその教えの高尚さに心打たれ、やがて正教会の信仰を熱心に奉ずるようになり、ついには司祭にまでなった方なのです。
そして明治24年(1891)にここ御茶ノ水の高台にビザンチン建築様式の「復活大聖堂」が建立され、ニコライの名に因んで「ニコライ堂」と呼ばれるようになりました。
正面ファサード
庭に置かれた十字架
しかしロシア正教ほど、日本において多難な歴史を歩んだ宗教はありません。それは日本とロシア(ソ連)との関係に因るものです。特にロシアが革命により社会主義を標榜し、社会主義こそ宗教であると豪語したあのスターリンの出現でロシア正教は地下に潜らざるを得ない状況に追い詰められていきます。革命後、60年余りに渡り、本国ソ連では正教は弾圧され正教寺院は荒れるがままの状況が続いていました。こんな状況下では、当然駿河台のニコライ堂も活気が薄れていったのでしょう。私が学生時代の頃は、東西冷戦の真っ只中であったことを考えれば、ロシア正教から生まれた御茶ノ水ニコライ堂はもっとも寂れていたのではないかと思います。
そしてゴルバチョフのペレストロイカによるソ連国内でのロシア正教の復権は、ここ日本のお茶の水ニコライ堂にも福音を施したはずです。1992年からお茶の水ニコライ堂の修復工事が始まります。約9年間の工事によって、外壁の塗り替えやさび付いた十字架の架け替えなどが施され、美しい姿に生まれ変わったのです。
正面ファサードのフレスコ画
美しい円蓋
聖ニコライチャペル
庭の片隅に置かれた聖像の頭部
以前、信者ではない私が日曜日のミサにお邪魔してニコライ聖堂内部に入ったことがあるのですが、ロシアで訪れた正教寺院と同じ様な雰囲気と香りを感じたことを思い出します。板に描かれた聖像「イコン」が壁に掲げられ、燭台に灯された蝋燭の炎が堂内に煌く様子はカソリック教会では見られない独特な荘厳さを感じます。
尚、ロシアの正教寺院の建物は「玉葱型」のドームが一般的で、ニコライ堂のような円蓋は見た事がありません。
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