地下鉄根津駅から賑やかな不忍通りに沿って千駄木方面へと進んでいきましょう。途中、細い路地を左に入り静かな住宅街の中を進むと右手に社名を刻んだ立派な石柱と鳥居が目の前に現れてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/e8/a1f5292c5332df864d72aa2f60399bda.jpg)
この鳥居が立つ場所が根津神社の表参道です。この表参道の前の道は大きく蛇行しながらなだらかな坂をつくっています。この坂道は新坂、権現坂、またはS坂と呼ばれています。S坂という呼び名はあの明治の文豪「森鴎外」の小説、青年の中で名付けられています。
さて本日のお題の根津神社ですが、実は別ページで紹介した神田明神と山王権現(現日枝神社)と並んで「天下祭り」を挙行した神社であったことについてその背景を紹介していきたいと思います。
神田明神は平将門を祀る庶民の崇敬の的、一方山王権現が武家の崇敬を集めたことで、幕府が意図的にこの二つの祭りを競わせて、所謂「ガス抜き」効果を狙ったものであると推測されるのですが、この根津神社に関してはまったく異なる次元で当社の祭山車が御城に繰り出したことが見えてくるのです。
それではその背景を簡単に紹介いたしましょう。
宝永2年(1705)、五代将軍綱吉公は兄の甲府宰相綱重の子、綱豊を養嗣子と定めます。その当時、現在の根津神社のある場所には綱重公の下屋敷が置かれていました。境内には屋敷として使われていた頃の綱豊公産湯井戸が非公開ですが残っているといいます。この綱豊公が第六代将軍家宣に宣下されると、それまで千駄木(団子坂上)に置かれていた根津神社を家宣公の産土神としてここ根津の綱重公の屋敷に移すべく、世に天下普請と言われる大造営を行ったのです。
翌年、宝永3年(1706)に完成した根津の社は壮麗を極め、あたかも日光東照宮が再現されたような佇まいを見せていたと言われています。現在でもその片鱗を残す権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門は将軍家の神社としての権威を今に伝え、その全てがオリジナルのままの姿で残っています。ちなみにこれら全てが重要文化財に指定されています。
南側に位置する大きな鳥居をくぐると参道は大きく右へとカーブを描き、左手の丘陵地帯には低木が一面に広がっています。この木が有名な根津神社の「つつじ園」なのです。毎年4月から5月には盛大な「つつじ祭り」がここで開催されています。
丘陵に広がるつつじ園
参道を進むと、目の前に大きく視界が広がります。並みの神社ではない広い境内をもっていることがすぐに分かります。緑色に塗られた神橋を渡ると堂々とした造りの「楼門」が歩みを遮るようにして立ちふさがっています。随身門と呼ばれていますが、門の左右に2体の像が祀られています。定かではないのですが、左側が綱吉公、右側がなんと水戸光圀公がモデル?と言われています。
楼門
楼門上の扁額
水戸光国像?
楼門をくぐると目の前に現れるのが唐門です。格調高い気品に満ちた門で、唐破風を備え権現造りの神社洋式を見事に示しています。この唐門の左右にのびる透塀は本殿地域をぐるりと囲み神域の威厳を保つ工夫がされています。当時の職人たちの技術の優位性が今に伝わる傑作の一つがこの透塀です。
唐門
唐門
透塀
透塀
そして唐門をくぐると拝殿前の広場にでてきます。1対の青銅製の燈篭が配置されていますが、この燈篭は藤堂高敏が奉納したもので、これも重要文化財に指定されています。
拝殿
拝殿はその背後に幣殿、本殿を控えそれらが一つの屋根で覆う権現造りの完成品であり、大変貴重な歴史建造物として重要文化財に指定されています。
拝殿
このようにかつての壮麗豪奢を今に伝える根津権現の「天下祭り」ですが、前述のように綱豊公(第六代将軍家宣公)の産土神として崇敬されていたことで、家宣公は幕制をもって当社の祭礼を定め、正徳4年(1714)にお江戸の全町から山車を出させ、世に言う「天下祭り」と呼ばれる壮大な祭礼を挙行しました。この祭礼は後にも先にもこれ一回限りのもので、隔年で催行された神田明神と山王権現の天下祭りとは性格が異なるものです。
神楽殿と境内俯瞰
また、家宣公生誕の地であることから、家宣公の胞衣塚(えなづか)なるものが境内の千本鳥居の中ほどに置かれています。胞衣塚(えなづか)はこの当時の慣習により、六代将軍家宣公の胎盤が納められているものです。
家宣公の胞衣塚
家宣公とは関係ないのですが、透塀にそった道筋の脇に「水飲み場」があります。この水飲み場の台座のことを「鴎外の石」と呼んでいます。実はこの台座は日露戦争の時の砲弾を置いていたもので、台座の裏に「森林太郎」の名前が刻まれています。
鴎外の石
秋深まるこの日、境内の木々の葉が色づき朱色の社殿や楼門と絶妙な色のコントラストを見せてくれました。根津、千駄木界隈の散策の途中に是非立ち寄っていただきたい場所としてお勧めいたします。静かな空気に包まれた境内でお江戸の昔を思い起こすことができる場所ではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
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この鳥居が立つ場所が根津神社の表参道です。この表参道の前の道は大きく蛇行しながらなだらかな坂をつくっています。この坂道は新坂、権現坂、またはS坂と呼ばれています。S坂という呼び名はあの明治の文豪「森鴎外」の小説、青年の中で名付けられています。
さて本日のお題の根津神社ですが、実は別ページで紹介した神田明神と山王権現(現日枝神社)と並んで「天下祭り」を挙行した神社であったことについてその背景を紹介していきたいと思います。
神田明神は平将門を祀る庶民の崇敬の的、一方山王権現が武家の崇敬を集めたことで、幕府が意図的にこの二つの祭りを競わせて、所謂「ガス抜き」効果を狙ったものであると推測されるのですが、この根津神社に関してはまったく異なる次元で当社の祭山車が御城に繰り出したことが見えてくるのです。
それではその背景を簡単に紹介いたしましょう。
宝永2年(1705)、五代将軍綱吉公は兄の甲府宰相綱重の子、綱豊を養嗣子と定めます。その当時、現在の根津神社のある場所には綱重公の下屋敷が置かれていました。境内には屋敷として使われていた頃の綱豊公産湯井戸が非公開ですが残っているといいます。この綱豊公が第六代将軍家宣に宣下されると、それまで千駄木(団子坂上)に置かれていた根津神社を家宣公の産土神としてここ根津の綱重公の屋敷に移すべく、世に天下普請と言われる大造営を行ったのです。
翌年、宝永3年(1706)に完成した根津の社は壮麗を極め、あたかも日光東照宮が再現されたような佇まいを見せていたと言われています。現在でもその片鱗を残す権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門は将軍家の神社としての権威を今に伝え、その全てがオリジナルのままの姿で残っています。ちなみにこれら全てが重要文化財に指定されています。
南側に位置する大きな鳥居をくぐると参道は大きく右へとカーブを描き、左手の丘陵地帯には低木が一面に広がっています。この木が有名な根津神社の「つつじ園」なのです。毎年4月から5月には盛大な「つつじ祭り」がここで開催されています。
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参道を進むと、目の前に大きく視界が広がります。並みの神社ではない広い境内をもっていることがすぐに分かります。緑色に塗られた神橋を渡ると堂々とした造りの「楼門」が歩みを遮るようにして立ちふさがっています。随身門と呼ばれていますが、門の左右に2体の像が祀られています。定かではないのですが、左側が綱吉公、右側がなんと水戸光圀公がモデル?と言われています。
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楼門をくぐると目の前に現れるのが唐門です。格調高い気品に満ちた門で、唐破風を備え権現造りの神社洋式を見事に示しています。この唐門の左右にのびる透塀は本殿地域をぐるりと囲み神域の威厳を保つ工夫がされています。当時の職人たちの技術の優位性が今に伝わる傑作の一つがこの透塀です。
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そして唐門をくぐると拝殿前の広場にでてきます。1対の青銅製の燈篭が配置されていますが、この燈篭は藤堂高敏が奉納したもので、これも重要文化財に指定されています。
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拝殿はその背後に幣殿、本殿を控えそれらが一つの屋根で覆う権現造りの完成品であり、大変貴重な歴史建造物として重要文化財に指定されています。
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このようにかつての壮麗豪奢を今に伝える根津権現の「天下祭り」ですが、前述のように綱豊公(第六代将軍家宣公)の産土神として崇敬されていたことで、家宣公は幕制をもって当社の祭礼を定め、正徳4年(1714)にお江戸の全町から山車を出させ、世に言う「天下祭り」と呼ばれる壮大な祭礼を挙行しました。この祭礼は後にも先にもこれ一回限りのもので、隔年で催行された神田明神と山王権現の天下祭りとは性格が異なるものです。
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また、家宣公生誕の地であることから、家宣公の胞衣塚(えなづか)なるものが境内の千本鳥居の中ほどに置かれています。胞衣塚(えなづか)はこの当時の慣習により、六代将軍家宣公の胎盤が納められているものです。
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家宣公とは関係ないのですが、透塀にそった道筋の脇に「水飲み場」があります。この水飲み場の台座のことを「鴎外の石」と呼んでいます。実はこの台座は日露戦争の時の砲弾を置いていたもので、台座の裏に「森林太郎」の名前が刻まれています。
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秋深まるこの日、境内の木々の葉が色づき朱色の社殿や楼門と絶妙な色のコントラストを見せてくれました。根津、千駄木界隈の散策の途中に是非立ち寄っていただきたい場所としてお勧めいたします。静かな空気に包まれた境内でお江戸の昔を思い起こすことができる場所ではないでしょうか。
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