大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸奥州・日光道中の宿場町「千住」の小塚原回向院に幕末の志士を偲ぶ

2010年12月01日 17時35分03秒 | 荒川区・歴史散策
荒川区三ノ輪駅からJRの線路にそって進むと、江戸時代の処刑場「小塚原」があった場所にでる。今でこ商店街や住宅地が密集する賑やかな場所になっているのですが、当時は草が生い茂り、人影もない寂しい場所だったにちがいありません。

江戸時代、ここ千住は奥州・日光道中への最初の宿場町があったところで、品川、板橋、内藤新宿と併せ江戸四宿の一つに数えられていました。当時の千住宿の中心は隅田川を渡り現在の北千住あたりであったようです。

 
 

さて今日のお題「小塚原回向院」は寛文7年(1667)に両国回向院の住職弟誉義観によって、行路病死者の埋葬そして小塚原刑場が側にあったことから刑死者の供養のため別院として創建されたもので当時は常行堂と称していました。

千住回向院はJRの線路脇にモダンな造りの姿で建っていました。刑場、刑死者という響きからつい暗いイメージがつきまとうのですが、このモダンな建物を見る限りそれほど気にもなりませんでした。山門?をくぐるとすぐ右手に「観臓記念碑」なるものが壁に埋め込まれています。



「観臓」とは小塚原刑場で刑死者を解剖したことを指すのですが、実はあの杉田玄白・前野良沢らが蘭学医学書ターヘル・アナトミアに記された解剖図を見ながら解剖を行った結果、蘭学医学書の正確さに驚き、その後「解体新書」として翻訳したことはあまりに有名なお話です。
解体新書の出版の前に、小塚原刑場で「観臓」なる行為を行っていたことを知るにつけ、いくら刑死者の解剖とは言え杉田玄白・前野良沢らの学問への探究心には心打たれる思いがあります。

この「観臓記念碑」を過ぎると、前方左側の通路沿いに「井伊大老暗殺浪士の墓」が並んでいます。万延元年(1860)3月3日、桜田門外の変で大老井伊直弼を暗殺した十五浪士(稲田重蔵・森五六郎・佐野竹之介・金子孫二郎・岡部三十郎・杉山弥一郎・森山繁之介・蓮田市五郎・大関和七郎・関鉄之助・広岡子之次郎・斎藤監物・黒沢・山口辰之助・鯉淵要人)が文久元年7月21日に小伝馬町牢屋敷で処刑後、いったん千住回向院に埋葬されましたが、その後に郷里に移されました。

井伊大老暗殺浪士の墓

そして小塚原で処刑された「腕の吉三郎」「義賊 鼠小僧次郎吉」「片岡直二郎」などの盗賊や毒婦と言われた「高橋お伝」の墓もあります。鼠小僧次郎吉の墓は両国の回向院にもありますが、両国の墓には戒名が「教覚速善居士」となっていましたが、千住の墓には「源逹信士」となっています。尚、鼠小僧次郎吉は鈴ヶ森で処刑され、後年両国の回向院に墓が建てられたのですが、ここ千住回向院にも墓が建てられた訳はいったいどうしてなのだろうか?と疑問が残るところです。

 
 
 

「腕の吉三郎」は江戸時代の侠客で、喧嘩の果てに腕を切られたのですが、ぶら下がった腕を自分で切り落としたという豪気な人だったようです。「高橋お伝」は明治時代の毒婦と呼ばれた人で、明治12年に最後の斬首刑で処刑された人です。「片岡直二郎」は徳川末期の詐欺・ゆすりの常習者です。

千住回向院といえば幕末の尊王の志士たちが眠る場所としてよく知られています。その代表的な人物としてはやはり吉田松蔭でしょう。小伝馬町の牢で処刑後、長州の桂小五郎らの手により回向院で供養されました。墓には「松蔭二十一回猛士墓」との銘が刻まれています。

吉田松蔭墓

おなじく尊皇攘夷の推進者として知られている頼三樹三郎の墓が松蔭の墓の傍らに置かれています。

>頼三樹三郎の墓

そしてひときわ目立つのが橋本佐内の墓です。福井藩主「松平慶永」に使え、一橋派として慶喜擁立を画策するも、安政の大獄で小伝馬町で斬首刑となってしまいました。

橋本佐内霊廟 
橋本佐内墓

回向院を訪れ、幕末の志士の墓に詣でることができたことは私自身にとっては喜びの一つでもあります。新しい時代を希求し改革を目指したにもかかわらず、道半ばにして死に至ってしまった若者たちの気持ちを思うと、彼らの墓前でつい「時代は確かに変わったよ。その礎を築いたのは君たちだよ。」とつぶやかざるを得ません。





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