大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第27回 第1日目 白須賀宿からJR二川駅前まで

2015年08月24日 09時30分40秒 | 私本東海道五十三次道中記


前回26回の旅では天竜川袂の東詰めから始まりました。暴れ川と呼ばれた天竜川を渡り、西詰の中町を抜けて浜松市内へと辿ったのが第一日目。そして浜松城を見学し、ひたすら長く続く街道を西へと進み、舞阪宿を抜けて今切の渡しの渡船場跡を見てから弁天島駅へ着いたのが第二日目。
いよいよ三日目は弁天島駅前を出立し、新居の関所のある新居宿を抜けて、ここ白須賀宿手前の港屋食堂に到着しました。
総歩行距離32㎞を踏破した前回の旅でした。

さて27回目を迎える今回の第一目目は白須賀宿からJR二川駅までの約9.3㎞、第2日目にJR二川駅前から吉田宿(現豊橋)を抜けJR飯田線の小さな駅、小坂井駅までの約12.2㎞、最終日の三日目にJR小坂井駅から御油宿そして赤坂宿を抜けて東名高速の音羽蒲郡インター至近の「えびせん共和国」までの約11㎞、総歩行距離約32.7.㎞を歩きます。

その間、32番目の白須賀宿、33番目の二川宿、34番目の吉田宿(現在の豊橋)、35番目の御油宿そして36番目の赤坂宿と5つの宿場を辿ります。そしてこれまで歩いてきた遠州とお別れし、いよいよ三河の国へと足を踏み入れていきます。

新居宿からここ白須賀宿手前までの街道は田舎道を歩いているんだなあ、と感じる風情が漂っていました。長くつづく松並木は街道らしい雰囲気を味あわせてくれました。街道の遥か左手には遠州灘が広がっているのですが、街道からは残念ながら遠州灘の大海原の景色をみることができません。

本日の出発地点の港屋食堂からほんの僅かな距離を進むと旧街道筋へ戻ります。旧街道に面して蔵法寺の山門が構えています。

蔵法寺の山門

街道から緩やかにつづく参道を進むと山門が置かれています。当寺は江戸開幕前の慶長3年(1598)に曹洞宗の寺として開基され、その後、慶長8年(1603)には家康公から23石を賜り、寺勢は盛んとなりなんと寺領は街道を跨って遠州灘の海岸まで達していたといいます。江戸時代を通じて、将軍代替わりに際しては、寺の住職は朱印状書き換えのため江戸に参府したといいます。

本堂には海底から引き揚げられたという秘仏の「潮見観音(聖観音)」が祀られています。この潮見観音は60年に一度開帳されます。ご本堂の扁額は有栖川宮熾仁親王御筆です。(潮見大悲殿の書)

この潮見観音(聖観音)にまつわる話があります。その話は江戸時代の宝永4年(1707)10月4日に起こった宝永大地震と深く関係があります。尚、浜名湖の面積が広がり、今切を出現させた地震は戦国時代の明応7年(1498)に起こった明応地震です。
宝永の大地震が起こった当時の白須賀宿は現在の場所ではなく、海岸に近い平地に置かれていました。そんな平地に置かれた宿場の本陣に地震の前日の10月3日にたまたま宿泊していた大名家がいました。その大名家は備前岡山31万5千石の藩主の池田家宗家二代・綱政公です。

その池田綱政公の夢枕に潮見観音(聖観音)が現れ、このようにお告げになられました。「大危難あり、早々にこの地を去れ」
これを聞いた綱政公は夜が明けるのを待ちかね、10月4日の早朝に本陣を立ち、潮見坂を上りきった時に、突如として大地震が起きたのです。これが宝永の大地震です。この地震により白須賀宿は津波に流され、もちろん本陣も跡形もなく消え去りました。潮見観音(聖観音)のお告げによって九死に一生を得た綱政公は国元に戻った後、城内の慈眼堂に潮見観音(聖観音)を祀り、敬ったといいます。

池田宗家の藩主については、三代継政公と駿河原宿の松蔭寺(しょういんじ)の「白隠の擂鉢松」の話があります。ここでは詳しく述べませんが、備前岡山藩主の池田公は東海道の宿場にいろいろとエピソードを残すお家柄なのでしょうか。

蔵法寺本堂

また、海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げて観音様の名前を念じて通り過ぎることとされていたので、またの名を「帆下げ観音」とも呼ばれました。



それでは蔵法寺の境内を抜けて、まずは32番目の宿場町である「白須賀」へ向かうことにしましょう。

境内を抜け、当時の街道を彷彿させるように木々が鬱蒼と茂る坂道を少し登っていきましょう。勾配はそれほどキツクないのですが、潮見坂(600m)を登っていることを実感できます。勾配が緩やかになると、左手にちょっとした広場が現れます。

その広場の奥に目立たない存在で1本の松の木が植えられています。ここが「うないの松」でかつてここにあった大松の切り株と、この松をよんだ久内和光の歌碑があります。この場所も蔵法寺の境内です。※久内和光:当山第十六世嘯雲光均尚のこと。

うないの松

歌碑には次のような歌が刻まれています。
「いにしへにありきあらずは知らぬども あてかた人のうなひ松かぜ」
「うない」とは「うなじ」のことで、松があった位置が潮見坂の首にあたるところから名付けられました。

説明版によると「駿河守護であった今川義忠公(1436~1476)が応仁の乱の渦中、文明8年(1476)4月6日、遠江平定を終えて帰路に就く途中、ここ潮見坂(史実によると現在の静岡県の菊川で討たれたとなっている)で敵に討たれ、その亡骸を葬った(胴塚)上に植えられた松にて、昔から枝一本折っても「オコリ」をふるったと恐れられている故、ご注意下さい。」と書いてあります。尚、義忠は今川義元の祖父にあたり、駿河今川氏六代目の当主です。
※オコリ:間欠熱の一つ。隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリアを指します。

「うないの松」から50mほど進むと左手から道が合流してきます。これが新道です。この場所から下の方角を見ると海が見えるのですが、まさに「潮見」の場所といったところです。

潮見坂から遠州灘遠望
広重の白須賀景

余談ですが室町幕府六代将軍の義教は富士遊覧の旅で、この場所から富士を眺めたといいます。そしてこんな歌を詠んでいます。
「いまははや 願い満ちぬる 潮見坂 心惹れし 富士を眺めて」ほんとうに富士山がみえるのだろうか?

潮見坂は街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋や富士山の見える場所として、旅人の詩情をくすぐった地です。安藤広重もこの絶景には関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いています。

さてこの潮見坂ですが、現在はそれほど急峻な坂道ではありません。しかし街道時代は旅人たちを悩ますかなりの登り坂だったようです。

そんな急な登り坂であるがゆえに、こんな伝説が残っています。それは「豆石伝説」と言われています。

この豆石伝説は2つのバージョンがあります。いずれの話も、この急峻な潮見の登り坂を上るにあたって「楽をしたい」と思う気持ちを表したものです。

《豆石伝説(まめいし)》その壱
昔、東海道での難所の1つといわれた潮見坂に、珍しい豆石というものがありました。そして、これを拾った人には幸福が訪れると伝えられ、街道を往来する多くの旅人は、潮見坂にやってくると、この豆石を探し求めたそうです。
ある時、わがままなお姫様が江戸から京への旅に出ました。しかし、東海道の長い道中のため、旅の疲れから途中で駄々をこねてはお供の者は、そのつどいろいろとなだめながら連れてまいりましたが、
潮見坂にさしかかると、長くて急な上り坂のため、いよいよ動こうとはしませんでした。
そんなお姫様に「この潮見坂には豆石というものがあります。そして、これを拾った人はみんな幸福になれるといわれています。どうかお姫様もよい人に巡り会って幸福になれますように、豆石をお探しになってみたらいかがでしょうか。」
と、お供の者が言うと、お姫様も、「そうか、これはなかなかおもしろい。それでは、わたしもそれを拾って幸福になりたいものだ。」
と、早速喜々として豆石を求めて坂を登ったと伝えられています。

《豆石伝説(まめいし)》その弐
ある時、初老の夫婦連れが京見物のために江戸から上ってきました。二人は長旅の疲れも出て、新居宿からは駕籠に乗って吉田宿(豊橋)まで行くつもりでした。ちょうど、潮見坂ののぼり口に来たところで、2つの駕籠が止まり地面に降ろされました。
2人は何事かと思い駕籠かきに尋ねました。
すると、「ここは白須賀宿の潮見坂といって、世にも珍しい豆石というものがあります。そして、この豆石を拾うとだれにも幸福がやってくるといわれます。そこで、お客さんにも幸せになっていただくよう、これから歩いて豆石を探していただきたいのです。」
と言い、坂上まで歩くことをすすめました。そこで、2人は「それなら私たちもそれを拾ってもっと幸せになってみたい」
と、手を取り合って坂をのぼっていきました。潮見坂は当時難所でしたので、駕籠かきもこのように豆石の話を客にすすめては、この坂で自分たちの疲れをいやしたといわれています。

合流地点からはそれほど急な坂道ではありません。そんな坂道を進むと、もう白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」に到着です。街道の左手奥に仕舞屋風の建物が現れます。

おんやど白須賀

※東海道宿駅開設400年を記念して、白須賀宿の歴史と文化に関する知識を広め、資料の保存と活用を図るため設置されました。
●開館時間:10:00-16:00
●休館日:毎週月曜日
●入館料:無料
●☎053-579-1777
●トイレの設備あり

館内はそれほど広くはありませんが、ここ白須賀宿の歴史に関する資料を展示しています。当時の街道の様子を描いたジオラマや甲冑などが展示されています。
また、冷たいお茶が飲める無料のサーバーも備わっているので咽喉を潤すこともできます。





「おんやど白須賀」から少し歩くと右手に白須賀中学校が現れます。そして道を挟んで「潮見坂公園跡」という石碑が建っています。

>「潮見坂公園跡」

この場所は天正3年(1575)の長篠の戦いで勝利した信長が尾張に帰る時、家康公が茶亭を新築して信長をもてなしたところと伝えられています。

長篠の戦い:信長・家康軍と武田勝頼との戦い。信長軍は3000丁の鉄砲で三段撃ちを考案し武田の騎馬隊を大敗させました。勝頼はその後、天正10年(1582)に信長の甲州征伐で追い詰められ、天目山で自害しました。

また明治天皇が江戸(東京)で行幸される途中に休まれた場所です。現在は公園ではありませんが、大正13年4月に町民たちの勤労奉仕によりこの場所に公園が造られ、その時に明治天皇御聖跡の碑が建てられました。

その公園の跡地に白須賀中学校が置かれています。この場所には明治天皇御聖跡碑の他にたくさんの石碑が置かれているので「潮見坂上の石碑群」と呼ばれています。潮見坂を登ってくる途中に「チラッ」と見えた遠州灘の景観をここからも見えるはずですが……。

さあ!それではお江戸から数えて32番目の宿場町「白須賀」の宿内へと進んでいきましょう。



私たちは東から京へのぼる旅をつづけていますが、逆に東下りの旅人達は三河の国から遠江に入って最初の本格的な坂道を登り、潮見坂上から広々とした遠州灘を眺めながら、いよいよ東国が近づいてきたと実感したのではないでしょうか。
潮見坂を登りきると、道は緩やかな下り坂へと変ります。そして白須賀の東町へと入って行きます。

この東町あたりはまだ宿内ではありませんが、道筋には連子格子の家がところどころに並び、かつての宿場の面影を残しています。とはいえ、期待したほどの古い家並みは多くありません。

さてここ白須賀の宿場は江戸時代の宝永4年(1707)以前は潮見坂の上ではなく、坂下の元町に置かれていました。実はこの年に起こった宝永大地震で宿場は大津波に襲われ壊滅してしまい、翌年に再度津波の被害に遭わないよう、坂上の現在地に宿場が移設された歴史があります。

さらに道を下って行くと白須賀宿の東の入口にあたる曲尺手(かねんて)にさしかかります。曲尺手とは、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていました。 

曲尺手手前の右角に「鷲津停車場往還」と刻まれた道標があります。鷲津は新居町駅の次の駅のことです。この道は鷲津駅に繋がっているのでしょう。道標には駅までの距離が書いてあります。それでは白須賀宿の中心「伝馬町」へと進んでいきましょう。

白須賀宿は遠江国の西端に位置し、東海道五十三次の32番目の宿場です。お江戸日本橋から70里22町(約275km)の距離にあります。

宿場中心の伝馬町へ入っていきますが、宿場内を貫く街道の家並みには古さを感じさせるものはありません。それでもこれまでもいくつかの宿場町で見てきたような江戸時代の屋号を記した看板が家々に掲げられています。

天保14年(1843)に編纂の東海道宿村大概帳によると、白須賀宿は東西十四町十九間(約1.5km)で加宿である隣の境宿村を含めて、人口は約2704人、家数は613軒で、本陣は1軒、脇本陣も1軒、旅籠屋は27軒の中規模な宿場でした。

静かな雰囲気を漂わせる宿内を進んでいくと、僅かながら店舗が現れるエリアへと入ってきます。そんなエリアの一画にあるJA(農協)のはす向かいの美容院と隣のお屋敷の間に本陣跡の説明版が置かれています。白須賀宿の本陣職は大村庄左衛門で、本陣の規模も建坪が183坪、畳敷231畳、板敷51畳と大きなものでした。本陣跡の左隣が脇本陣跡です。
この辺りが白須賀宿の中心といった場所なのですが、かつての宿場を感じさせる歴史的な建造物は残っていません。

宿の中心を過ぎて白須賀駐在前信号交差点を渡ると、すぐの右側の家の角に「夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址と加納諸平(かのうもろひら)の生誕地」の石碑が置かれています。夏目甕麿は伊勢松阪の本居宣長の門下に入り、国学の普及に努めたという人物です。加納諸平は、甕麿の長男で紀州和歌山の藩医の養子となり、晩年には紀州国学者の総裁となったという人物だそうです。



さらに道を進んで行くと、左側に「火防地」にさしかかります。宝永4年の大津波によって宿場が高台に移り、これ以降津波の心配はなくなったのですが、こんどは高台であるが故に、冬になると西風に悩まされます。

藁葺屋根の家々が並んでいたため、いったん火災になると、風にあおられ、あっというまに大火になってしまいます。その予防策として考案されたのが、「火防地」で宿場内には三地点、六ヶ所に設けられていました。

火防地跡

火防地は間口二間(3.6m)、奥行四間半(8.1m)の土地に、常緑樹の槙(まき)を10本ほど植えたといいます。

火防地の先の右側に「庚申堂」があります。天和元年(1681年)に立山長老に建てられましたが、現在の建物は天保12年(1841年)に再建されたものです。この地方にある庚申堂の中では最も大きく、堂々たる鬼瓦が目を引きます。
そしてお堂の前には「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹の猿がどういうわけだか2匹と1匹に分かれて像が置かれています。

庚申堂の先の右側にもかつて「火防地」があったことを示す小さな石柱が置かれています。



道筋を辿って白須賀宿の西端へと進んでいきましょう。現在は西町という地名になっていますが、このあたりは江戸時代には境村で白須賀宿同様、旅籠を営むものがいて、白須賀宿の加宿になっていました。

ということはまだ白須賀宿内をでていないのですが、街道時代には加宿と本宿が一体となって運営されていたのでしょう。そして少し歩くと右側の古い家の前に夢舞台東海道 境宿の道標が置かれています。

かつての境村にはこんな話が残っています。

《勝和餅(かちわもち)》
時は天正18年(1590)、太閤秀吉が小田原攻めへの途中、境宿(駿河と三河の国境あたり)の1軒の茶店に立ち寄りました。
茶店には93歳の爺と82歳の婆が暮らしていましたが、生業らしいことはしていなかったので、団子に「そてつの飴」を入れて餅にして、木の葉に包んで売っていました。この餅を秀吉に差し上げると「この餅は何というものか」と尋ねたといいます。
すると老夫婦は「これは、「せんく開餅」と申します。
その昔、後醍醐天皇の御時、赤松円心という御方がこの餅を戦場へお持ちなされたと承っております。「そてつの飴」が入っておりますから、腹持ちがよいと、先祖が書き残しております。
私どもも、これによって生命をつなぎ、長く安楽に暮らしております」と答えました。

秀吉は「これはめでたい餅であろうぞ。長命のめでたいことはよく判ったが、お前はよくも猿に似ていることよ」と、しきりにお笑いになりました。この年の八月に秀吉は勝ち合戦で帰国の折、またまたこの所に床几を御立てなされて、婆に御褒美をくださいました。
そして、「今度はこの餅を『猿がばばの勝和餅』と申せ」と仰せられました。

境宿は別名、番場(ばんば)と呼ばれていました。そのため「猿がばんば(番場)の勝和餅」とも言われています。そして境宿のお祭りの若衆のことを、今でも「勝和連」と呼んでいます。

戦国時代のことですから、白須賀の町は坂下にあった頃です。そう考えると、白須賀本宿から離れていた境宿にはこの茶屋1軒しかなかったのでしょう。秀吉の小田原征伐は、水軍を含めて総勢21万とも言われています。少なくとも数十万の軍勢がこの白須賀を通過して行ったことでしょう。尚、平成の世にあって、この勝和餅はもうありません。

尚、広重の東海道五十三次・二川之景は本来の二川宿ではなく、ここ「猿がばんば(番場)」の景色を描いているといわれています。

白須賀宿の西端に位置する境地区にはほんの少し古さを感じさせる家が残ってます。ただ江戸時代のものではないようです。そんな一画に「高札建場跡」の小さな石柱が置かれています。建場ということは、茶屋があったことを意味しています。

江戸時代の宝永4年(1707)の大津波以前は坂下の元白須賀が宿場だったので、この辺りに旅人達の休憩場所である「建場」が置かれていたと思われます。そして、坂上に宿場が所替えになってから、境村が加宿となってからは建場が廃止されたと思われます。

さあ!間もなく白須賀宿の西の端にさしかかります。旧街道筋は左手からの道と合流し、道幅が広くなります。そしてその道筋の左側に「村社・笠子神社」の参道入り口がありますが、この笠子神社の参道入り口辺りで白須賀宿が終わります。



歩き始めて3キロを過ぎて信号交差点を渡ると、小さな川にさしかかります。川幅は2間(3.6m)ほどの川で、架かる橋は川幅を若干上回る4mという小さな橋です。

そんな小さな川の名は「境川」と呼ばれています。古来、三河遠江の間で境界を巡って何度となく戦が繰り広げられていました。そしてこの二つの国の境となっているのが境川で現在でも静岡県と愛知県の県境をなしています。

県境の表示

それにしても静岡県は広かったですね。伊豆の国から駿河そして遠江と3国に跨って旅をしてきました。なんとその距離約45里(180キロ)もあったんです。昔の人もこの距離を5日から8日ほどかけて旅をしたのでしょう。しかし、その間には富士川、興津川、安倍川、大井川そして天竜川と大河が流れ、これらの川が止められれば更に日数が加わり、難儀をしたはずです。

そんなことを考えながら三河の国・現在の豊橋市へと入っていきましょう。境川橋を渡り、左下の畑の中を見ると、石仏が一体ぽつねんと立っています。祠もなく寂しげな雰囲気を漂わせています。

旧東海道筋は一里山東交差点で国道1号と合流し、ここから二川ガード南までの4キロにわたって国道1号に姿を変えています。一里山東交差点からすぐに一里山交差点にさしかかります。この辺りは江戸時代には立場茶屋があったところのようです。しかし現在、この場所には民家はなく、変化のない無味乾燥な景色が広がっています。そんな殺伐とした道筋の脇の小高い場所に崩れた祠の中に3体の馬頭観音が収まっています。

そしてちょっと左に目を移すと、一里塚の看板が置かれています。ということは馬頭観音が置かれている小高い場所こそが一里塚の盛り土だったわけです。そしてこの小高い盛り土を「一里山」と呼んでいるのです。この一里塚は「細谷一里塚」と呼ばれ、江戸から数えて71番目にあたります。

江戸時代にはこの一里塚や松並木は吉田藩(現豊橋)の管理下に置かれていました。ところが明治に入り、政府は一里塚を民間に払い下げたことで、南側は宅地に変ってしまいました。現在残る北側の塚(土盛り)は東西10m、南北14m、高さ3mの規模をもっていますが、当時の姿のままなのかは定かではありません。

さあ!ここから4キロ先まで国道1号線に沿って歩いていきましょう。幹線道路のためか、大型トラックがものすごいスピードで走り抜けていきます。そして街道を歩いていて目に入ってくるのは広々とした畑ばかりです。この辺りの畑ではキャベツ栽培がさかんに行われています。広々とした景色が広がる中を東海道の道筋は二川宿へと延びています。

街道時代も一里山から二川宿までは民家がまったくない松並木が延々と続いていた道筋だったようです。そんな寂しい道筋には盗賊がたびたび現れたといいます。このため江戸道中記には「夜道つつしむべし」と記述され、夜間の通行を慎むよう促していました。平成の世にあっても、この区間の両側には広々とした畑が広がり、店らしい店はほとんどありません。





マップ⑤、⑥、⑦と辿りマップ⑧へと入ってきます。
弥栄下、三ツ板を通り、豊清町茶屋ノ下、籠田(この信号手前にサークルKがあります)、三弥町交差点を過ぎると、左側に大きな工場が現れてきます。シンフォニア・テクノロジーという会社です。この工場を眺めながら歩いていると、右側には新幹線の線路が走っています。



長かった国道一号沿いの行程は二川ガード南交差点でやっと終わります。交差点を右折し、新幹線の高架下をくぐり、緩やかに左へカーブしていくと梅田川に架かる筋違橋にさしかかります。そしてその先の東海道線の踏切を越え、すぐ左に曲がると「二川宿」の町並みが見えてきます。お江戸から33番目の二川宿に到着です。

二川宿

二川宿
家数は328軒、本陣、脇本陣各1軒、人口1468人、33番目の宿場です。2ヶ所の枡形と当時の町割がほぼ残り、本陣や旅籠、商家が宿場の様子を今に伝えています。
尚、二川宿の宿内の距離は六町三十六間(約700m)、加宿の大岩町は五町四十間(約600m)の長さをもっていました。

宿場の成立は慶長6年(1601)の東海道整備と同時期ですが、その当時二川村は小さく、問屋業務を二川村だけで担うことが難しく、隣の大岩村と共同して行うことが幕府から命じられました。しかし共同業務とはいえ、大岩村とは1.3㌔も離れているため、幕府は正保元年(1644)、二川村を西に、大岩村を東に移動させて両村を接近させ、大岩村を二川宿の加宿とし大岩町に問屋を設けました。これが西の問屋といわれるもので、そして東問屋が西の問屋からさらに西よりに置かれました。
ということは西の問屋はもともとの二川宿の問屋場で、西の問屋場の西に置かれた東問屋は移動してきた大岩村の東問屋だったということなのではないでしょうか。

さあ!いよいよ二川宿です。宿内に入る手前に二川宿案内所があります。川口屋というタバコ屋さんですが、この建物の角に日本橋から72番目の一里塚跡が置かれています。

川口屋
一里塚跡
一里塚跡

一里塚から少し先を右折すると曹洞宗の十王院というお寺があります。天正13年(1583)に私庵として始まり、十王堂とも念仏堂とも呼ばれています。境内には寛永19年(1632)に建てられた、二川新町開山の石碑があります。碑文には「後藤源右衛門は二川宿開宿当時の本陣と問屋を勤めた人物で、寺を開いた一翁善得はその祖である」と書かれています。

そして街道を進んで行くと、右側に南無妙法蓮華経と書かれた大きな石碑が現れます。
日蓮宗の妙泉寺の入口です。当寺は貞和年間(1345~50)に日台上人が建てた小庵でしたが、寛永~明暦(1624~58)頃観心院の日意上人が信徒の助力を得て再興し、さらに万治3年(1660)現在地に移転して山号を延龍山と改めたといわれています。
街道から少し奥まったところに堂宇を構えるこの寺の境内には芭蕉の句碑が置かれています。
紫陽花塚と呼ばれるもので、寛政10年(1798)の建立です。句碑には「阿ちさゐや藪を小庭の別座敷」と刻まれています。
※この句は元禄7年(1694)に江戸深川で詠んだものです。

この辺りの街道沿いには間口が狭く、奥行きのある古い家が処々に散見されます。お江戸日本橋を出立して、これまで32の宿場を辿ってきましたが、かつての宿場の雰囲気を色濃く残している光景をほとんど見ていません。
私たちはここ二川で宿場らしい雰囲気が漂う家並みにやっと出会えることができます。二川では街道時代の歴史的建造物の保全、修復、復元に力を入れており、商家、旅籠、本陣の建物が当時の姿のまま残っています。
街道沿いの家々の玄関先には白地で「二川」と染め抜かれた暖簾と一輪挿しの花が飾られて、現代の旅人たちの目を楽しませてくれます。ほんの少し街道時代にタイムスリップしたかのような気持ちになるかもしれません。

そんな光景を眺めながら進むと、道の右側に白壁に囲まれた二川八幡神社の鳥居が現れます。

当社は鎌倉時代の永仁3年(1195)に、鶴岡八幡宮より勧請し創建されたと伝えられています。その当時、毎年八月十日に行われていた湯立神事は、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ多くの人々が集まり賑わったといます。(現在は十月にこの神事が行われているようです。)



八幡神社の鳥居を過ぎて小さな川を渡ると二川宿の入口にあたる曲尺手(かねんて)にさしかかります。道が折れ曲がる右角に古めかしい建物が連なっています。この建物は江戸時代から味噌やたまり醤油を造ってきた商家で、今でも「赤味噌」を製造販売する「東駒屋(商家駒屋)」です。この商家駒屋の脇には二川宿を南北につなぐ古道(瀬古道)があります。非常に趣のある古道で時間の流れが止まったような錯覚すら覚えます。

商家駒屋平面図

商家駒屋は二川宿で商家を営むかたわら、宿の問屋役や名主を務めた田村家の遺構です。平成15年に豊橋市指定有形文化財に指定され、その後、平成24年から26年の3年間で駒屋のすべての建物を江戸時代から大正の姿に修復・復元工事を行い、平成27年11月1日より一般公開されています。
◆開館時間:09:00~17:00
◆休館日:月曜日(祝日の場合は開館し、翌平日休館・年末年始(12月29日~1月1日)
◆☎:0532-41-6065

それでは二川本陣資料館へと進んでいきましょう。
その本陣資料館の東側に隣接して建つのが豊橋市指定有形文化財の旅籠屋「清明屋」です。清明屋は江戸時代の後期寛政年間(1789-1801)頃に開業した旅籠屋で、代々八郎兵衛を名乗っていました。
現在の建物は文化14年(1817)に建てられた旅籠屋遺構で、主屋(みせの間)・ウチニワ・繋ぎ棟・奥座敷が「うなぎの寝床」のように細長く連なっています。本陣のすぐ隣にあったことから、大名行列が本陣に宿泊した際には、家老など上級武士の宿泊所ともなりました。

清明屋平面図

二川本陣
二川本陣

私たちはこれまで武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江と辿ってきましたが、各宿場で本格的な本陣の遺構建築を見たことがありませんでした。脇本陣は舞坂で見学はしましたが本陣遺構の見学はここ二川が初めてなのです。

二川宿本陣は、文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、改修復元工事により主屋・玄関棟・書院棟・土蔵等を江戸時代の姿にもどし、大名や公家など貴人の宿舎であった建物を一般公開しています。
旧本陣のご当主馬場八平三氏は、昭和60年に全国的にも貴重な歴史的建造物であるこの本陣遺構の永久保存と活用を願って、屋敷地を豊橋市に寄付しました。市ではこれをうけて同62年に二川宿本陣を市史跡に指定し、翌年から改修復元工事に着手し、同時に二川宿ならびに近世の交通に関する資料を展示する資料館を建設し、二川宿本陣資料館として平成3年8月1日に開館しました。

本陣平面図



本陣内
本陣内の展示
本陣内の展示
本陣玄関
本陣の付属施設

一連の建物が完全な形で保存されている貴重な建築物です。3年にわたり全解体・改修復元工事を行い、間取図の残る江戸時代末期の姿にもどし、平成17年から一般公開されています。

尚、江戸時代に公家、大名、幕府役人などが旅の途中に宿泊休憩した専用施設を本陣といいますが、現存するものは非常に少なく、東海道ではここ二川宿と草津宿のみです

●入館料:一般400(320)円、小中高生100(80)円 ( )内は30名以上の団体
●開館時間:09:00-17:00(ただし入館は16:30まで)
●休館日:月曜日(ただし、月曜日が祝日または振替休日の場合はその翌日)
●接待茶屋:江戸情緒あふれる本陣主屋座敷にて、有料で抹茶の接待が受けられます。
 1服(菓子付き)300円
 *毎週土・日曜日および祝日(振替休日を含む)午前10時30分~午後4時
☎0532-41-8580

二川宿本陣からほんの少し進むと道が若干折れ曲がった場所にさしかかります。ここが2つめの枡形です。この曲尺手の左側に高札場跡の石碑が置かれています。そして二川宿の西の出入口になっていた場所です。ここからが加宿大岩町に入ります。
大岩地区に入ると、古い家並みはほとんど現れなくなります。

曲尺手から右手にのびる道を進むと大岩寺が山門を構えています。曹洞宗の寺院で千手観音がご本尊です。もともとは岩屋山麓に堂宇を構え岩屋観音に奉仕した六坊の一つだったのですが、正保元年(1644)の二川移転とともに現在地に移転してきました。

枡形の右側の民家の前には西問屋場跡の石柱が建っています。この問屋場は江戸時代に大岩町の方にあったものです。

その先の四つ角にある交番の前には郷倉跡の石碑が置かれています。四つ角を右へ進むと突き当りに大岩神明宮があります。
神明宮は文武天皇弐年(698)に、岩屋山南に勧請したのが始めといわれ、正保元年(1644)の大岩村移転とともにここに遷座してきました。境内は広く鬱蒼とした木々に覆われています。

四つ角から街道を進むと、左側の「おざき」という店の前に立場茶屋の石碑が置かれていますが、本陣からわずか700mしか離れていないのに立場が置かれていたのでしょうか?



ここから道幅が少し広がり、ほんの僅かな距離でJR二川駅前に到着します。白須賀の潮見坂下の蔵法寺から9.3キロを完歩して第一日目を終了します。

私本東海道五十三次道中記 第27回 第2日目 二川宿駅前から豊橋のJR小坂井駅まで
私本東海道五十三次道中記 第27回 第3日目 JR小坂井駅から御油そして赤坂へ

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