益気神社での一件
升田に益気神社(ますきじんじゃ)があります。
神社の入り口にその由緒を刻んだ石碑があります。
その石碑に「・・・・文禄三年(西暦1594)九月二十一日、秋季例祭の故ありて(平ノ荘神社)から分離すに至り・・・」あります。
その「故」の理由を記していません。「故」とは次のようでした。
・・・・事件は、文禄3年(1594)、平ノ荘神社16ヵ村の代表者の参詣の時におきました。*(16ヵ村:益気郷3ヵ村、平ノ荘13ヵ村)
益気・・・平の面々、益気の中にも御歴々(おれきれき)がいるのだが、毎年益田の者は下座に座っている。座を改めて我々を上座にすればどうか。
平ノ荘・・・御歴々であることは承知しているが、益気の人の中には、殺生を仕事とする者がいる。・・・穢しい。(益田の者に川漁の権利が認められていることを指す=秀吉の免状)
売り言葉に買い言葉、日ごろの不満が燃え上がりました。その勢いは、すさまじいものでした。
この時、近郷からこの喧嘩を見ようと数万の人が押しかけたと言います。
この事件のあと、慶長四年(1599)益気郷は益田山(加古川市東神吉町)に益気神社(ますきじんじゃ)を創建しました。
その後、池尻村も平ノ荘の氏子から抜け、池尻村・益田新村(出河原村)も益気神社が創建され、3つの益気神社が誕生しました。
益気神社という名称から、奈良時代の創建を想像してしまいますが、慶長四年に、平ノ荘神社から分かれた比較的新しい神社です。
*写真:升田益気神社
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