ひろかずのブログ・3

81歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

志方町をゆく(94) わたの里(10) わた消える

2023-05-10 07:11:07 | 加古川市歴史探訪 志方町編

    志方町をゆく(94) わたの里(10) わた消える

 時代を少し進めます。明治時代、日本の綿作が急速に消えた原因を考えます。

 「稲岡工業株式会社文書保存会」から『綿の里通信雑誌(NO9)』が届きました。綿作の消滅について中央大学経済学部の田中光(ひかる)先生が次のような記事を掲載されています。詳しくは『わたの里通信(NO9)をご覧ください。

 

 明治になり不思議なくらいに日本の綿作が一斉に消しました。

 産業革命以来、イギリス・アメリカをはじめとする先進国は綿花から糸を紡ぐ技術を飛躍的に進めました。

 明治時代の初め、先進国は手作業で糸を段階は終わり、綿糸・綿布の機械化は、はるかに進んでいました。当然、日本の木綿はコスト高になり、太刀打ちできません。

 こうして、日本の綿花生産力は急激に衰えます。

 以後、日本の紡績業産業も輸入機械による生産をめざします。

 ということは、開国以来、日本の紡績業は農家の手工業ではなく、大企業の生産をめざしたのです。

 もう一つは、日本での綿花(和綿)と外国の綿(洋綿)との違いがありました。

 一本の木になる綿の量が洋花の方が多いのです。

 また、綿の繊維の長さも違っていました。

 和綿では細い糸が作れませんでした。外国から輸入した機械にあわないのです。

 また、品種の違いだけでなく地理的・気候的条件においても日本の綿花は国際競争力が持てなくなりました。

 これらの条件が重なり、日本の綿花栽培が不思議なほど急速に消滅してしまいました。

*写真右:和綿(小さく)下を向いてはじける。写真左:洋綿(和綿より大きく概ね上を向いてはじける。(写真撮影・吉田義弘さん)

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