犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 41・ 新たな先例などいくらでも作ればいい

2008-04-22 11:38:52 | 時間・生死・人生
光市母子殺害事件の刑の決定に際しては、被告人がその当時18歳になったばかりであったこと、被害者が2人であったことなどから、「永山基準」など過去の判例との兼ね合いが問題となっている。そして、一方からは、「先例に捕らわれていてはならない」「新たな先例を作る時期に来ている」などと主張されている。他方からは、「死刑の範囲が拡大されて先例になってしまう」「このような先例を作ってはならない」などと主張されている。

死刑を論じる際に、なぜ死刑の適用基準の先例を論じることが非常にもどかしく感じるのか。それは、「死」の形而上性と、「先例」の形而下性との激しいギャップによるものである。殺された人は生き返らず、この世で二度と生活をすることができない。殺人罪や死刑を論じるとは、本来はこの事実を論じることでしかあり得ないはずである。しかしながら、先例を論じることによって、死者は置き去りにされ、生き残った者だけが政治的な権力争いを繰り広げることになる。これは一つの人間疎外であり、全体主義である。

お役所は前例を踏襲し、裁判官は判例に追従する。これは、社会を維持するための予測可能性と、法的安定性の維持を目的とする。ここにおいて最優先されるのは、人間の生活である。消費者としての人間、様々な欲望を追求して衝突する人間である。このような思考パターンにおいて、最も忌み嫌われるのが「死」である。殺人罪を論じ、死刑を論じるにあたっても、なお人間の死は遠ざけられる。かくして、死は客観的な事実として客体化され、それを論じる者の主観的な死は忘れ去られる。

先例に従うことは、自らの死を除いて考える限り、先人が受け継いできたものを後世に伝える尊い仕事である。しかしながら、人間はどう頑張っても、死後の先例は追えない。21世紀において喧々諤々と論じられている前例や判例の基準も、50世紀や100世紀にはゴミ以下である。その時、21世紀において前例を墨守してきたお役所の公務員の人生の意義は何なのか、21世紀において判例を研究してきた裁判官や学者の人生の意義は何なのか。このような問いは残酷であるが、事実は事実である。

殺人や死刑を論じることは、このような残酷な問いに正面から衝突することに他ならない。死とは永遠かつ無であるならば、ここ何十年かの先例に捕らわれていることの愚かさにも気づくはずである。本村弥生さんと夕夏ちゃんは、永久にこの世に戻らない。そして、元少年に死刑が執行されれば、彼も永久にこの世に戻らない。この永久の時間軸の前には、新たな先例などいくらでも作ればよいはずである。


光母子殺害事件 広島高裁判決、主文後回しに(朝日新聞) - goo ニュース

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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-04-22 16:19:38
理屈はいらない。死刑、死刑。これが一番。
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上のコメントが悲しい (qeb)
2008-04-23 00:58:32
理屈はいらないに越した事はないですけど、「死刑が一番」程度の感情で済むなら誰も苦労はないわけで…。


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ありがとうございます。 (某Y.ike)
2008-04-23 22:31:31
Unknown様
裁判員制度の議論において、「裁判員は死刑を選択することができるのか」といったドツボの問いにはまるくらいであれば、その程度の割り切りも有効かとは思います。

qeb様
ありがとうございます。死を忘れて死刑を論じると、反批判が生じて収拾がつかなくなりますね。昨日の本村氏の記者会見の中では、自らの将来的な死に触れた部分もあり、圧倒されました。
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