お寺さんぽ Ver.03

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後継者決定、そして内乱へ… 「清洲会議」5

2006年11月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は意外と知られていない、「本能寺の変」そして「山崎合戦」後の織田家について。
ちょっと長くなってしまいましたが、これが最終回です。
刮目してご覧下さいませ。
…また、最後にお知らせがありますんで、そちらもどうぞ。

さて、筆頭家老の「柴田勝家」は三男「織田信孝」を候補として擁立しました。
嫡男「信忠」の亡き今、武人としての資質は次男「信雄」より上ですし、なにより敵討ちの合戦にも参加しています。
年齢も健康状態も申し分ありません。
ある程度の条件が「信孝」にはあったのです。
しかし、その意見をきっぱり否定したのが「羽柴秀吉」、後の太閤「豊臣秀吉」その人でした。

「信長公の嫡孫にして信忠さまの嫡男、”三法師”君とするのが筋目である」

やはり後でいざこざを起こさないために、長男が継ぐのが一般的なのでした。
時代としてそういう風潮でしたから、長男が健在なら、これは間違いないことなのです。
しかし、織田家のケースでは先に書いたように、「信忠」は戦死していました。

そうすると次男、としたいところなんですが、「信忠」の嫡男がこの時にはもう誕生してたんですね。
それが、秀吉が擁立した「三法師」こと後の「織田秀信」なのです。
唯一、当時は幼少の身であったことが若干のマイナス要因ではありました。
ちなみに、当時の「三法師」は三歳です。

仮に「柴田勝家」の主張が通ったとして、三男「織田信孝」が相続したとします。
そうすると、本来の流れで後継者だった「織田秀信」は逆にその家臣となってしまうのです。
これは、後々で内乱へと発展してしまう危険性があります。
おまけに、実際はどうであれ「信孝」は三男とされていましたから、これでは次男の「信雄」も面白くはないでしょう。

その点、元々相続権のなかった二人はそのままで、実際の後継者が引き継ぐという案はもっとも無難で、かつ正当性がありました。
これにはどうしても反論の理由がないのです。
そんな訳で会議では丹羽、池田両名を味方とした秀吉が勝家を圧倒し、主導権を握ったまま終わりました。

後継者は「三法師」とされ、その後見人は「羽柴秀吉」、「織田信孝」が補佐役と決定。
また、領土配分は以下のように決定するのです。

嫡孫「三法師」は安土城、織田家を相続。
次男「信雄」は清洲城と尾張(名古屋)、伊賀(三重)、南伊勢(三重)
三男「信孝」は岐阜城と美濃(岐阜)
四男「秀勝」は亀山城と丹波(京都・大阪・兵庫などの一部)
「柴田勝家」には越前(福井)安堵に追加して長浜(※秀吉領土から割譲)など北近江三郡を。
「丹羽長秀」には若狭安堵に追加して滋賀など近江二郡を。
「羽柴秀吉」には山城(京都)を。
「池田恒興」には摂津三郡(大阪・堺などの一部)を。

おそらく、「柴田勝家」には秀吉の黒い欲望が見えていたでしょう。
奴は必ず織田家を簒奪してしまう!
危機感をもった勝家は秀吉に対抗するため、この後から下準備に取り掛かります。
こうして、こじれた関係が「賤ヶ岳合戦」へと繋がっていくのです。

最後に毛利家の外交僧「安国寺恵恵瓊(あんこくじ・えけい)」の言葉をひとつ。
「筑州(秀吉のこと)は世上操りの名人なり!」


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