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広島の方言に残る言葉が、古語に近いと感じたのは、
古文を習い始めた高校生の頃です。
福岡弁では、東京弁で言う「行く」が「来る」になる。
あんた天神に行くと?私も来るけん、待っときんしゃい。
もうみてたけん、新しいのを買うてくるけん、辛抱しときんさい。
が広島弁。「みてる」は無くなる、底をつくことを意味します。
福岡(九州)弁は、相手が中心となる話し言葉です。
目的の場所へ近づくことが、「来る」になります。
英語でも目的地に近づくことを''come''と言います。
美しい言葉です。
だから、あの時の絶頂感は、目的に近づく''come''となるらしい。
神が到来したのかと錯覚するなかれ。
のらぼう菜に会ったのは、三多摩に来てからです。
家庭菜園のプロフェッショナルである先輩から教えて頂きました。
広島菜とも、野沢菜とも違う食感でした。
厚めで、歯ごたえがありしかも甘いのです。
我が家でも植えました。
お腹空かしの鳥に若芽をつつかれ、一時は瀕死状態でした。
春には、小ぶりながらもあの食感を楽しめそうです。
私は、沖縄に行くと必ず食べるものがあります。
沖縄そばと島豆腐です。
天然塩をにがりに使った豆腐は、
酒のつまみに小腹がすいている時にちょうど良いのです。
沖縄そばは、ぼそぼそした麺と、昆布だしのスープが好きです。
蓄えが乏しいし、仕事における賞味期限も限られています。
勤めを辞めても、わずかな収入が必要です。
これまで頑張った知見を活かし、興味があることを延ばして何かをやります。
日本でも、外国でも活躍の場はあるはずです。
前向きであれば、みてるということはありません。
みてても良いのです。また継ぎ足せば。
「来る」のような素敵な日本語を正しく使いたいのです。
2015年2月27日
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