
絵のタイトルは、「なんとなくうれしいな」です。
名もない花たちの饗宴です。
誰かが、私のために摘み届けてくれました。
草刈は、草刈り機でやるから楽だろうと信じていた。
友人は、タンクの燃料が無くなったら、その日の草刈は終了と決めている。
正解だと思うようになった。
草刈の翌日、休日を利用してゴルフに行った。
前半は、100を切るペースが後半に失速した。
体力不足を実感した。
何度も書いているが、草刈は当然のこととして育ってきた。
故郷の山には、落ち葉は落ちていなかった。
落ち葉を集めるなら、奥山へと入っていくしかなかった。
ここでは、刈った草をマルチに使っている。
マルチの役目を終えると、土にすきこまれて栄養と緩衝材(土を柔らかくする)になる。
故郷の山はおろか畑も草に埋もれて山に帰っている。
広島への野菜供給基地としての役割は終わった。
奨励作物として植えた蜜柑も収穫作業がきつく、暴落もありやめてしまった。
増える猪からわが身とわずかに作る作物を守るために柵(電気柵も)をせざるを得なくなった。
この地に来て、あぜ道の草がきれいに刈りこまれている風景をみて感動した。
街の空洞化は、センターから始まる。
かつて繁栄していた町並みも空き家が目立つようになった。
空き家であっても、草刈はしなければならない。
高齢で草刈ができなくなった家は、市役所を通じてシルバーに草刈や剪定を依頼する。
私の担当は、5軒の空き家の草刈と決めている。どのうちも草刈の承諾を得ている。
私はシルバーではない。無償の協力である。
敢えて言うなら、カフェに来られるお客さんのためである。
カフェだけきれいにしておけば良いとはならない。道すがらの風景も大切なのである。
道がきれいになれば、散歩する人が増える。
空き家であっても、庭には住んでいた人が植えた植物が残っている。
毎年、きれいな花を咲かせたいと誰しも思うのである。
かつて見た秋田の秘境が花で埋まっていた。桃源郷であった。
草が無くなれば、次の作業が見えてくる。
侵食する筍を蹴飛ばそうにも、どこに新たに生えたのかわからない。
よって、低木を伐ることになる。
草刈り機の歯がぼろぼろになろうと、いったん払うしかないのである。
草刈は、苦行である。よって、燃料タンクいっぱいと決めている。
毎日やればよいのである。できれば、日が高く昇らぬうちに済ませたい。
長き草 しゃべりながらも 抜く癖が
2019年6月6日
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