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故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

新しい試み

2014-12-13 06:17:24 | 故郷再生
 さなさん

早起きの読者の皆さんへ。

私が書いた短編小説を、試みに載せることにしました。
ある女性に会ったことをきっかけに書き始めました。

いつしか、筆は勝手に進み、故郷を想う小説に仕上がりました。
故郷の島には、古びた砲台があります。現在は山の中に埋もれています。
小説に書いている内容は、史実と違う部分があります。
フィクションということで、許してください。

タイトルは、「さなさん」です。
時代は、太平洋戦争のころです。
子供達の日常には、今の時代と違うものがありました。
貧しいなかでも生き生きと島の生活を満喫していました。

故郷再生の一役になりたいと載せることにしました。

2014年12月13日

「さなさん」の筆者より

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軍艦利根

2014-12-10 05:35:59 | 故郷再生
 軍艦利根が沈没した海

自転車に乗って、陸続きの向かいの島の射撃練習場にこっそり入りました。
空薬きょうを拾ってきて磨くのでした。
油タンクが何基もある浜には、蓮根火薬がなぜかいっぱい落ちていました。
その蓮根火薬をアルミの鉛筆キャップに詰めて、
針金で編んだ台に乗せて、ろうそくの火であぶりました。
50mは飛ぶロケットになりました。
どちらに向かうか分からないのが悪ガキの興奮の種でした。
岬には、軍艦利根の大砲の弾が飾られていました。
終戦間際に湾内で撃沈されました。
島に見えるように木々で迷彩していたのですが、発見されたのでした。

子供の私は、台風の前日に湾内に避難してくる駆逐艦や潜水艦を
飽きずに眺めていました。
総数30艘の連合艦隊が江田島湾に集結しました。
もちろん戦後の話です。
信号もないド田舎の島の唯一の自慢は、世界中のどこにでも
つながっている海でした。

石船を作っていた造船所が鉄鋼船を作り始めてから斜陽になりました。
韓国勢に押され始めたのでした。フェリーや高速船の小口受注で
息を吹き返しました。まさに、ニッチ産業のおかげです。
前にも増してクレーンがにょきにょき伸びています。
呉と長崎で同時に造船された大和と武蔵の僚友鑑は、
どちらも戦闘に参加せずに沈没したのでした。
瀬戸内海の赤ふんどしの海賊の末裔である私達は、今もおとなしくしています。

何か再生の道はないのでしょうか。
私が見た連合艦隊は、幻だったのでしょうか。

2014年12月9日
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新旧交代ならず

2014-12-09 04:52:02 | 故郷再生
 現役ばりばりの50年選手
日本の数々の都市で、路面電車が走っていました。
広島では、50年前と同じ車両がまだ現役で市民の足として活躍しています。
車高が高く、我々には乗り降りの際少しきついかもしれません。
さにあらん。小さなステップが高いステップの間にもう一段設置されていました。

お袋が病院を3ケ月ごとたらいまわしされていた頃、
ベッドの手すりに自由が効かないように優しく縛られていました。
介護とは、こんなものかと悲しいと感じました。

昨今のデイケアでは競争激化によるためか、やっと本腰になったのか
様相が変わってきました。
来られるお年寄りのモチベーションアップのプログラムが
多数用意されているのです。
かつてはできたことが、いつしかできなくなっていきます。
それは仕方がないこと。
それでもしてみようかと思う気持ちを後押しするのが介護のようです。
経済活動に寄与しなくなったら、生きている価値が低いのではないかと
思いがちです。さにあらん。生きていることそのものに価値があるのです。

私達が故郷に帰るのは、先祖の墓にお参りするのは、
今いる自分のルーツに感謝するからです。お袋が生きていれば会えます。
お袋が生きているから懐かしい方たちとも会うことができます。
亡くなった今でも、多くの方と会うことができました。
和尚は、「縁」と言われました。

可能性は無限です。起爆剤はやる気(モチベーション)です。
できることから、ほんの小さなことからやり始めることです。
できなくなったことを数えるより、できるようになったことを
実感することです。諦めることはありません。

私のことが解らなくなって六年生きてくれた母です。
生きている母に会えることがとても嬉しかった。

2014年12月8日
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土産話

2014-12-08 05:33:33 | 故郷再生
 猿猴川のボート小屋
さあ、落ち着いて今日も書きましょう。

探せばあるものです。
故郷の川のボート小屋に、「ドーム行き」の看板がかかっていました。
駅前の猿猴川にあるボート小屋から、元安川の原爆ドームまで行く
水上バスの案内でした。

本通りと電車道の間の国際ホテル前の路地もなかなか良いのです。
福屋から西に国際ホテルに向かうと釜飯酔心前を通ります。
同じく福屋から本通り方面に南へ行くと、パルコのモダンなビルが
できていました。右手には古本屋も残っていました。
私はこの古本屋に読んだ全集を売りに行きました。
姉が嫁入り道具に買っていた全集です。
彼女は一度も目を通しませんでした。
持っていく頃には、50冊の小説全集が半分になっていました。
ごめんなさい。

次回の同窓会の準備について話すため、女の人と国際ホテルで
打ち合わせをしました。絵手紙を私が描き、彼女の了解を得て、
互いに友人たちに送る企画を相談しました。
そのための「故郷探し」となったのです。

見過ごしていた風景が生き生きとしてきました。
確かに変わってもいます。懐かしい場所も残っていました。
それぞれ意味があったのです。事情があったのです。
変わる理由と変えられない訳があったのです。
再発見の旅になりました。

これから、川崎です。
病気の義兄に食材を届けに行きます。
その後、ゴルフの練習です。先輩に指導をあおぐ手筈は整っています。
急ぎましょう。

2014年12月7日

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故郷でも忙しい

2014-12-07 22:56:28 | 故郷再生
 安芸の小富士
久しぶりに故郷に帰りました。
会社では、年上です。故郷では、下っ端です。
ほとんどの方が、年上です。

あれせえ、これせえとこき使われました。
パシリです。仕方がありません。大先輩方を前に文句も言えません。
子どもの頃は、手伝いがしたくなくて逃げ回っていました。
今は、出来ることがあればやらせてくださいと素直に言えるから不思議です。

お袋の法事に来られた和尚は71歳です。わざわざ来てくれました。
30年前、親父が無くなった時に勤めてくださった和尚です。
注がれた酒を大半こぼし、袈裟はべたべたでした。
帰りには、車で迎えに来られた奥様に、「しっかりなさいまし。」と怒られていました。
私の故郷の家は、集落の中でも一番上にあります。和尚が油断するのも当たり前です。
麓から順繰りに法事を済ませ、ここが最終ですから。

本日も、メーターは上がるばかりです。誰も帰ることができません。
和尚が立ち上がらないからです。
そんなことを知らない町から来られたお客様が帰られてから、
やっと近所のおばさん達は帰ることができました。

故郷は、遠くにありて想うもの。若い頃はそうでした。
今は、帰って見なきゃ解らない故郷のありがたさです。

2014年12月7日
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