故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

絵のタイトルは、「ゴッドママ」です。
私の亡き妻を彷彿させる陶器の人形です。
この人がいたから、家族みんなが暮らせたのです。
多くの人が、私のブログのカテゴリーの「思い出話」(今日のタイトル)を読んでくれます。
どうせ、年寄りの世迷言だろうと自分のブログを読み返しました。
しっかりと書いています。どの記事も一球入魂の仕上がりです。
「思い出話」は、記憶の産物です。
認知症になった方は、昔のことはよく覚えている。
私も徐々に人の名前が出て来なくなりました。
記憶の壺には限りがあると言われます。
反面、映像の壺の容量は格段に大きいのです。
あの顔は見たことがあるが、文字の記憶の名前は思い出せない。
当然な現象で、気にすることはない。
私の「思い出話」には、具体的な名称や言い回しが再現されている。
よく覚えていたものだと感心する。
なぜ、思い出話を読んでくれるのか、考察しました。
一つは、正直に書いていること。
考え方も記憶の一つです。
人の考え方は、どんどん変化する。
苦しい経験を積み知恵をつける。
若い時の感動は、日々の葛藤ですり減らされ風化される。
思い出話が新鮮なのは、当時の気持ちになって書いているからでしょう。
辛かった思い出話を優しい目で見られる大人になったからでしょう。
どんな事柄にも意味があった。
嫌々やらされていた手伝いの記憶だって、今ではやらせた側の辛さが理解できる。
「思い出話」には、心の原風景が映し出されている。
知らぬうちに、血となり肉となっている経験であり、
ルーツのような精神の背骨であろう。
人それぞれ生き方は違えども、心のこなし方は似ているのであろう。
そんな風に推測する。
生きることが素晴らしいと気づくまで、「思い出話」は続く。
年寄りの 堂々巡り 進化なり
2021年3月20日

先輩夫婦です。
呼び名は、「かあちゃんとうちゃん」です。
えへへ。
今日のタイトルは、「さん付けで呼ぶ」です。
起きてすでに1時間半が経ちました。
ほんわかと幸せな時間です。
あれこれと、昔のことが目に浮かぶ。
夢のような人生を歩ませていただいた。産まれてよかった。
母は、自分の子ども達を「さん付け」で呼んでいました。
そのためか、ガキの頃から私は友達に「さん付け」で呼ばれていました。
私も、再婚を機に息子や娘を「さん付け」で呼ぶことにしました。
何年かして、子ども達は私に尊敬の言葉をかけてくれるようになりました。
ねぎらいのような、感謝の言葉も聞くようになりました。
時には、師弟関係のような、同志のような雰囲気です。
昔勤めていたエンジニアリング会社では、社長も部長も上司は全員「さん付け」で呼んでいました。
半分以上の社員が、肩書だけは「担当課長」や「担当部長」でした。
本当の課長が、部下より年下と言うこともあったのでしょう。
風通しが良かった。なんでも言えた。
転職した外資系の機械メーカーでは、上司をファーストネームで呼んだ。
さすがに、日本支社では「さん付け」であった。
だから、外国から日本へ出張してきた外国人も倣って「さん付け」で呼び合った。
外国へ出張した時は、私も名前の前半二文字で呼ばれることになった。
呼ばれた時は、くすぐったかったが、直に慣れた。
夫婦間で呼び合うのは、いつしか「おとうさん」、「おかあさん」である。
そして、「じいさん」、「ばあさん」と呼び合うようになる。
家族の多く(特に、子や孫)が使う呼び名に変わっていくのである。
私達は再婚故、ファーストネームで互いを呼び合っています。
時に、友人に真似されて、からかわれます。
仲のいいこと。そうなんです。
さらに相手を好きになるから、皆さんもファーストネームで呼び合うことを勧めます。
自分の子供を「さん付け」で呼ぶようになってから、世代交代を意識するようになった。
自分の家の戸主は息子になった。
子供たちを一人の成人と見るようになった。
さん付けを使い始めの頃は、「何か魂胆があるの」と子供たちに疑われた。
両親のことを、「父ちゃん」、「母ちゃん」と呼んでいた。
高校生の頃は、呼び名は伏せて「あの」、「その」と呼びかけていた。
大学生になり、両親の元を離れてからは、堂々と「親父」、「お袋」にした。
呼び名は、人間関係の縮図です。
私は、年齢を負うごとに子供たちや仲間の呼び名を変えている。
それでいいのかな。
雪つもり 木の穴に棲む 目玉増え
2021年3月10日

この地に来て、初めて打った10割蕎麦です。
ぶつぎりで、美味しくなかった。
水回しに3年はかかる。粉に水を落としながら回す。
だまになり、最後の水を足し粘土状になるのが一瞬のことです。
できるだけ四角に伸ばした麺体を、包丁を斜めに倒しながら、均等の太さに切っていく。
水ではなく湯だと10割でもうまく打てるそうですが、見るだけでやれたことはありません。
ここで初めて食べた10割蕎麦は香りが良くて、腹いっぱいでもおかわりができました。
今日のタイトルは、「麺類」です。
故郷広島では、小麦を粉屋に持っていき、うどん(乾麺)と交換してもらいました。
同じく、大豆を持っていき、豆腐や揚げと交換してもらいました。
60年以上も前の話です。
家族が多かったので、乾麺を釜で茹で上げ、夏は酢醤油、冬は煮干しつゆでいただきました。
母は、出汁に使った煮干しをうどんの上に載せて出してくれました。煮干しをよけながら食べました。
来る日も来る日もうどんで、今でもうどんは苦手です。
高校は広島に通いました。小遣いもなく、年に2度、県病院電停前の「頼々亭」で中華そばを食べました。
先代は、こってりした豚骨スープを3日間煮込んでいました。
細めの中華麺、トッピングはこれでもかと錦糸卵を載せてくれました。
もう終わりかと、腹空かしの私はスープを飲み干しました。
35年ぶりに訪ねて食べました。スープは健康のため少しあっさりしたものになっていました。
麺は昔のままでした。帰郷の際は、必ず寄ります。
会社員になって、御徒町辺りの安い飲み屋さんに通いました。
帰りがけに、駅前で讃岐うどんを食べることがありました。
うどんが嫌いなはずでしたが、ゆずの香りに誘われて、熱いのをすすりこみました。
時は経ち、50歳を越えてから営業職をやるようになり、九州に通いました。
お客さんと会食を終え、同僚の外人の方と小倉の屋台でラーメンを食べました。
あっさり味の豚骨スープに、細麺が良く合いました。二人で、夜の街に繰り出しました。
40代でプロジェクトエンジニアーをやっていました。
コンビニエンスストアー専用の麺工場を造りました。
麺体を5段ローラーで順繰りに細くし、麺きり機械で所定の長さ、太さに切ってそのまま釜に投じる。
釜の中を、かごが通過する間に茹で上がり、4℃の冷水でしめる。
試運転の最初に出てきたそーめんを、めんつゆでいただきました。そりゃ美味かった。
後にパン工場も造りましたが、揚げたてのカレーパンも同様に美味しかった。
今回の旅行で、ラーメンを食べたい。
醤油味の中華そばが好きです。朝ラーメンもやってるとのこと。
大根葉を塩締めして混ぜたおにぎりは、昼ごはんになりそうです。
さあ、出かけましょうか。
ゆずの香に 錦糸卵か 金木犀
2020年10月11日

絵のタイトルは、「あったかくて」です。
文化の日、野外で仲間と一緒にチュニジアダンスを披露しました。
そのあとのコーヒーがあったかくて、この表情です。
今日のタイトルは、「あったかくて」です。
体温が感じられる記事を書きたいと挑戦します。
母の胸に顔をうずめ、幼子が無心で喉を潤している。
満足し、母のパジャマのひらひらで、自分の顔をすりすりしながら眠りについた。
幼子は、母の胸にむしゃぶりつくことはなくなった。ひらひらがあれば、どこでもいつでも眠られる。
高校一年生の夏、室積海岸で遠泳をした。
太鼓の音を聞きながら、仲間とゆっくりと泳いだ。
二時間後、唇が青いまま砂浜をあがった。
女の先生と同級生の女子が、甘酒をふるまってくれた。
2週間山歩きをした。
高尾山を出てから、やっと天龍迄辿り着いた。
自分の実力からは、ここが限界と京都までの挑戦をやめた。
「先にお風呂に入ってくれる」古刹の寺の奥様の一言。
私にも同じことをするの。
過去別れた女性と、もう会わないための自分の覚悟の行動を話した。
女の眼から涙がこぼれた。胸が締め付けられた。
居酒屋で飲む金がない。
一本の缶ビールを友と交互に飲んだ。
一口飲んでは、全力で走った。酔いは回らない。
また飲んで、走った。交互に相手の顔を殴った。
唇から血がほとばしった。
15mの梁を猿のように昇った。
現場は昼休みで、同僚の者たちが下で見守る。
450mmのH鋼に両足をかけ、両手で吊元に使ったワイヤーを外しにかかった。
務所上りが、残したワイヤーである。吹き出る汗が後悔を物語っていた。
1mのワイヤーが乾いた音を立て、コンクリートの床ではねた。
水平に10m、垂直に15m四肢の筋肉だけを信じて、無事に床を踏んだ。
こんな風景じゃない。
篠竹の林に入り込んで一カ月が経った。伐った篠竹は1600本。妻は、気が振れたと心配した。
山際から耕作放棄地を抜け、駐車場らしき場所を抜けやっと村道まで切り開いた頃、
近所のおばさんが、「私も気になっとった。ありがとう」と言われた。
カフェの周りと隣接する空き家を覆う木を伐ろうと、闘志が湧いた。
女の柔肌を思い出そうにも、記憶が蘇ってこない。
申し訳ないと、寒々とした想いしかない。
「あったかくて」は、瞬時の想いです。
あとから思い出せる、温度の記憶は乏しいことが分かった。
私の名前を忘れた母の手は、がさがさで温かった。
私の中にも、母からもらった温かい血が流れている。
温度の記憶は、哀しい。
もう、感じることができないからだろうか。
できるうち ありがとう書く 妻の手に
2020年10月7日

絵のタイトルは、「大崩海岸」です。
泊ったホテルからのぞいた海岸に岩がありました。
片時も休まず、波に洗われていました。
時には丸くなり、崩れてまたごつごつと剥きだしでした。
存在感が素晴らしくて絵にしました。
2017年8月15日投稿記事「結婚」では、
「万人が思います。
無邪気な子どもの仕草はとても可愛い。
笑顔がなんと素晴らしいことか。
疲れも辛いことも吹き飛ぶ瞬間です。
結婚とは、こんなことだった。
今でも後からでも揺るがない気持ちです。
数多ある中から選んでした結婚です。
しかし、生まれた子供は親を選べない。
死ぬまで頑張るしかないでしょう。
ひなげしと 一緒になって うばざくら」
(記事より抜粋)
保険の満期通知書が来た。
継続するとなると、同じ保障内容でも、この歳になると払う金額は倍以上になる。
年金の中から捻出するのは、少し大変です。
子供に相談した。これまでより超過する金額を僕たちが払うことも検討するよ。
私は、子ども達のために貯金する方を選ぶだろう。
死んだときに使ってと、口約束でよいではないか。
長生きできれば、「おまけ」が増えるだけです。
今日のテーマは、「結婚(Part2)」です。
互いに疲れた時は、喧嘩をしない方がよい。
売り言葉に買い言葉で、泥沼化します。
元気があれば、対処方法も見つかると言うもの。
結婚は、男と女が一つ屋根の下で暮らすことが一般的です。
漁師のかみさんのように、一年のうち11か月も夫が留守の家庭もあるでしょう。
若いうちは、24時間一緒にいたい。歳をとったら、否応なく24時間一緒の生活です。
3時間は生活リズムをずらすこと(嫁は宵っ張り、夫は早起きなど)を勧めます。
そうでなければ、空間的(家庭内別居)にそうするしかないでしょう。
しゃべっているのは、テレビだけと言う生活になります。
飼っている犬や猫が、夫婦の絆をつなぎとめる。それもありです。
子供たちもみんな独立して家庭を持っています。
定年前にかみさんを亡くし、寂しいながらこのまま余生を送ることを考えていました。
60歳を過ぎて再婚という冒険に入りました。
履歴書のような手紙のやりとりでした。
いつ捨てられるか、スリルを味わっています。去る者は追わず、来るものを拒まず。
来るもの(物好き)なんて、いないと知っています。
この歳の結婚は、互いのかびをなめ合うような生活です。
良い具合に発酵してくれることを祈っています。
但し、子ども達と一緒に暮らせない道を選択することになります。
頼るものはいない。二人しかいない。
喧嘩をしている暇がない。
子供はできないが、若い時のように一生懸命です。
起業(カフェ開店)をし、カフェで使う「お任せ料理」の材料を作ろうと、農業をやっています。
毎日が、待ったなしで、同じ日はない。休日が待ち遠しい。
男と女ではなく、人間として付き合うようになりました。
60歳までに築き上げた個性で、ぶつかります。
すべてがご和算のような生活になりました。
新たなページを紡いでいます。
若い時は、子供の成長や会社での役割などそれなりに変化がありました。
気持ちの上では、同じ繰り返しです。
ルーチンワークの積み重ねです。
農業は上手になりました。
愛情的に、発展はない。
互いの健康が気になります。耳が遠くなり、ののしり合うような会話となることでしょう。
補い合って生きる。これしかない。
若い時のように、保障が大きい保険に入るより、只々健康に日々送ることが貯金となりました。
「一度は結婚することを勧めます。
もう送って行かなくても済むのが、結婚です。
一緒に暮らし始めて、目を見張るばかりの勘違いに気づくのも結婚です。
嬉しい嬉しい出産です。
男が張り切るのも無理が無い。
やる気が、沸々と湧いてきます。
家族のために、どこまでも頑張れる。
植え付けられた遺伝子がそうさせるのです。」
(記事より抜粋)
もう、出産はありません。
家族以外の人(大きな子供)と出会えたことを喜んでいます。
うばざくら 元を質せば ピンク色
2020年7月25日