楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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新越谷から春日部へ(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 22)

2013年11月24日 10時00分13秒 | ひとり歩き旅
(新越谷駅)


(越谷宿)
新越谷駅は、武蔵野線南越谷駅が出来てから、
これと連絡できるように出来た新駅のように思える。

駅を出て、日光街道へ向う。
街道に出ると、左に武蔵野線のガードがあり、潜って進む。
しばらくは、何の変哲も無い町の中を進んでいくと、
道路はY字路になり、左へ行くと道路が細くなる。
旧街道はこの細い方へ進むのであるが、この手前に歩道橋があり、
その右に照蓮院駐車場の看板が見える。

(武蔵野線のガード)

(道路はY字路となり、左が旧日光街道)

(照蓮院の看板)

(山門)

駐車場の先を右折すると山門があり、
門前に「真言宗 照蓮院」の石柱が建っている。
この寺院は、信玄の子 武田勝頼の遺児
 千徳丸の供養塔があることで知られる。

門を入り本堂に向うと、千徳丸供養塔の案内がある。
(瓦曽根(地名)秋山家の祖は、甲斐の国武田氏の家臣秋山信勝であり、
その子長慶は、天正十年(1582)三月、武田氏滅亡の際、
勝頼の遺児千徳丸を伴って、この地瓦曽根村に潜居した。
千徳丸は早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となって、
その菩提を弔ったと伝える。
寛永十四年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と
刻まれた五輪供養塔が建立された。――後略)(越谷市教育委員会)
なお、照蓮院のご本尊は越谷市の文化財「木造地蔵菩薩立像」であるという。

(照蓮院の本堂)

(本堂左手の秋山家墓所)

(湯殿山千徳丸の五輪の塔真ん中の小さい墓石)


照連院を出て、Y字路を左へ進む。
ここからが越谷宿で古い建物を見ることができる。
元名主であったのか、黒塀に冠木門の大きな家、
蔵が横にある宿場の風情を残す家(塗師屋)、
その隣の鍛冶忠(以前は鍛冶屋だったのか)、
蓮子格子の家、などなど。

(黒板塀に冠木門の家)

(塗師屋の建物)

(元鍛冶屋?の鍛冶忠)
(蓮子格子の家)


その先で元荒川に架かる大橋にでて、越谷宿はここで終わる。
下流を見るともう一つの橋があり、これは49号線に架かっている。
この橋、元荒川橋の右横に道路があり、
その奥に越谷御殿跡の碑があるというので、
寄り道であるが進む。

徳川家康が日光街道を制定し、越ヶ谷宿に御茶屋御殿を造り、
鷹狩の拠点としていたが、明暦三年(1657)の江戸の大火で、
江戸城も被災したため、このお屋敷を江戸に運び、江戸城を再建した。
その後も家康・秀忠の別荘があったところとして、
「御殿」として今に至っている、と言う。

(元荒川の大橋)

(川下の49号線上に架かる元荒川橋)

(元荒川橋の橋脚)

(元荒川橋の右横の道路へ入る)

(越ヶ谷御殿跡の碑)

(越ヶ谷御殿跡の碑、左横に板碑の案内がある)

(左横に板碑の案内)

この御殿跡の碑の先50mの所に、建長元年の板碑があるというので、
寄り道ついでに、見て回ることにする。
板碑そのものは、建長年間によく造られたもののようで、
我が家の近くの龍福寺にもある。
秩父産の緑泥片岩で出来ている塔婆と言われている。
表面には梵字で阿弥陀三尊が刻まれているのが多いのですが、
ここの板碑はどうも線で描かれた阿弥陀像のようである。

(板碑のある場所)

(板碑にある線描画が仏を表している様)


元に戻って元荒川の「大橋」を渡り、街道を進むと、
左の奥に東武線元越谷駅が見える。
さらに進むと、東武線の高架と平行するが道なりに進むと、
道路は高架下へと左折する。

左折した道路は元荒川の土手にぶつかり、
右へ曲がっていく先に三体の石造物がある。
近寄ると、一番奥の碑の正面に青面金剛と刻まれ、
文字の下に三猿が刻まれている庚申塔である。
左横には難しい文字で「左 じおんじ道 乃じま道」と彫られていて、
道標にもなっている。
埼玉県には有名な慈恩寺(*)がさいたま市岩槻区にあるが、
ここまでの道しるべであろうか。

(大橋を渡る)

(東武線元越谷駅)

(東武線高架と並行する)

(高架を左折する)

(左折して出たところ元荒川の土手が見える)

(土手にある三体の石造物)

(青面金剛の文字と下部に三猿が刻まれている)

(道標左じおんじ道の文字)

(*)埼玉の慈恩寺は、天台宗の寺院。山号は華林山。院号は最上院。
本尊は千住観世音菩薩であり、この寺は坂東三十三箇所の第12番札所である。
戦争中、日本軍が南京で発見した、孫悟空が出てくる西遊記で有名な、
玄奘三蔵法師の頭骨を持ち帰り、
この寺に納められていると言う。

先に進むと、左手に「宮内庁埼玉鴨場」の入り口が見える。
冠木門で宮内庁が管理しているらしく、門は閉ざされている。
鴨の狩猟期間は11月~2月と言うが、
天皇のお客様接待の場として使用されるというが、
今までに使用されたと、ニュースでも聞いたことが無い。
この鴨場、埼玉鴨場というから、他にも鴨場はあるかと、
調べた所、千葉県市川市にもあるという。
(宮内庁埼玉鴨場入り口)

(閉鎖されている埼玉鴨場の冠木門)


街道を進むと東武線の踏み切りに出て、これを越えてしばらくすると、
国道四号線と交差する。四号線はこの先で左折するから、
今歩いて居る旧街道と平行して進み、この先で合流する。

合流して直ぐ東武伊勢崎線「せんげん台」駅左への案内看板が見える。
時間も16時を回ったところでもあり、
早くも日が落ちて、まもなく暗くなりそうで、
「せんげん台駅」から帰宅することにした。

(東武線の踏み切り)

(国道四号線と交差する)

(四号線は直ぐ左折する)

(せんげん台駅入り口)

(東武線せんげん台駅)

コメント (8)
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