熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・普及公演:能「隅田川」ほか

2017年12月09日 | 能・狂言
   今日は、まず、国立能楽堂に行き、その後、「国立劇場」に出かけて文楽を鑑賞した。
   国立能楽堂は、
   《特集・夏目漱石と能―生誕150年記念―》と銘打った普及公演、プログラムは、
   解説・能楽あんない  隅田川と‟あづま”の風流  林 望(作家) 
   狂言 文荷(ふみにない)  茂山 忠三郎(大蔵流)
   能 隅田川(すみだがわ)  観世 銕之丞(観世流)

   冒頭、林望氏が、漱石と能、そして、能「隅田川」について興味深い解説をした。
   参考になったのは、物狂いについてで、隅田川に登場する梅若丸(子方/谷本康介)の母(シテ/観世銕之丞)は、狂女を意味するのではなくて、狂うと称してササを持って登場するのは、何か芸をする芸人を意味していたのだと言う指摘であった。
   そう考えれば、当時、女人独りで、辺境の地であった東下りをしてきたのも、なるほどと頷けて、船頭(ワキ/宝生欣哉)が、何故、何か芸を見せれば乗船させると言う意味も、そして、必ずしも狂女として振舞っていないのもよく分かる。
   四番目物 狂女物と言う先入観を持ってみると鑑賞眼が狂うと言う指摘でもある。

   この「隅田川」で興味深いのは、銕仙会HPの「浮かれ、絶望、そして宗教的エクスタシーを経て、再びの絶望へ。」と言う指摘。
   前場で、シテが、ワキの船頭に、伊勢物語の九段の在原業平のストーリーを前提して、船頭が、都人で狂人なら舞わないと乗せないと言ったことに対して、「隅田の渡し守ならば、日も暮れぬ、舟に乗れとこそ・・・」と言う筈だと言い、業平もこの渡りにて「名にし負わば、いざ言問はん都鳥・・・」と歌ったと述べた後で、あの白い鳥は何と申すのだと聞くと鷗だと答えたる、この船頭の風流のなさを表出するあたり、気分はすっかり業平になって浮かれ遊ぶと言う中野顕正氏の指摘が、浮かれと言うのであろうか。林望氏の話が生きてきて、一寸鑑賞眼が上がったような気がした。
   芸能者としての梅若丸の母の束の間の業平を思っての旅心歌心がふっとよぎった瞬間で、「子を慕って遙々下ってきた狂女に突きつけられたのは、あまりにも残酷な現実であった。うららかな春の隅田川で起こる、絶望と祈りの物語。」を浮き彫りにしていて、業平の旅情と共に二重に楽しめるたような気がしたのである。

   
   この「隅田川」は、世阿弥が、子方の梅若丸を登場させない方が良いとしたのに対して、元雅は、子供役者を出さなければこの作品は演劇として成立しないと考えてその提案を拒否し、以後、子供の幽霊が実際に舞台に登場する演出が続けられていると言うことで、この舞台でも、人々の念仏の大合唱の中から、死んだわが子の甲高い綺麗な声が聞こえてきて感動的であった。
   この子は母の幻覚によって見えているだけなのだと言うことで、子方の登場しない演出も試みられているようだが、そうなれば、もっと抽象的象徴的となって、私などには理解し難くなる。

   この子方については、世阿弥は、この曲の演技のグレードを上げることが出来ると考えており、元雅は、子供は破壊者と言うか、この曲の流れを一端、全部ぶち壊す役目をイメージしていたのでどうしても出そうと考えたと、銕之丞氏は述べており、しかし、母親が泣こうが子供が死のうと、・・・隅田川は滔々と流れている。そういうドラマだ。と言っているのが興味深い。
   また、僕も研究して、子方なしで一度演じてみたいとは思っている。とも述べている。

   先代の観世銕之丞の著書「ようこそ 能の世界へ」と、当代の銕之丞師の「能のちから―生と死を見つめる祈りの芸能」を読んで、銕之丞師の舞台には、大変関心を持って、鑑賞させて貰っており、今日の「隅田川」も、感激のひと時であった。
コメント
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