熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

五月花形歌舞伎・・・染五郎の「熊谷陣屋」と海老蔵の「助六由縁江戸桜」

2010年05月11日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   歌舞伎座が閉鎖されて、松竹の歌舞伎公演が新橋演舞場に移ったのだが、櫓は勿論、垂れ幕や看板や提灯などの外部装飾が外されて、古い歌舞伎座の建物が丸裸となって眼前に晒されてみると、夢の跡と言う感じがする。
   それに、見慣れている筈の新橋演舞場の舞台も、幕開けが、若手主体の花形歌舞伎となると、何故か、一気に歌舞伎座の舞台との落差が大きくて、歌舞伎座の歌舞伎は、やはり、終わってしまったのだと言う戸惑いを感じたと言うのが正直な感想である。

   実際にも、熊谷陣屋や助六由縁江戸桜と言った先月の最後の歌舞伎座公演で人気を博した名舞台が展開されたのだが、演じた役者が、一挙に一世代若返った所為もあってか、それなりのエネルギーと迫力は感じたのだが、歴史と伝統に培われた歌舞伎の醍醐味と言うか奥深さを味わう喜びにはやや欠けていたような気がする。
   特に、連続して観ている「助六由縁江戸桜」においては、歌舞伎役者の芸の蓄積・経験が、如何に役者を育み、芸の深化と舞台の豊かさ素晴らしさを生み出す源泉になっているかが良く分かった。
   例えば、海老蔵の助六は、恐らく、実際と思しき助六のイメージにより近いと思うし、はちきれそうな艶のある色男の魅力は抜群なのだが、しかし、同じ粋さ加減でも、助六の男伊達としての美学なり人間的な表現の広がりと奥深さと言うか、その滲み出てくるような男の魅力においては、團十郎の方がはるかに勝っており、これは、正に、芸の差、年論の差であろうと思う。
   このことは、白酒売新兵衛の染五郎に対しても言えることで、上手く演じているのだが、菊五郎や梅玉と比べると芸の奥行きと言うかその差の大きさは如何ともしようがないような気がする。

   この助六で興味深かったのは、三浦屋格子先だけではなく、水入りまでの舞台が演じられ、久しぶりに、助六が、意休を切り倒して名刀友切丸を取り戻し、追っ手からの逃げ場に困って、天水桶の水の中に隠れると言う派手な幕切れを観たことである。
   このあたりの海老蔵は、やはり、水も滴る良い男である。
   この助六の舞台で、若い俊英役者を支えて好演していたのが、揚巻の福助、意休の歌六のベテラン役者で、特に、母親の曽我満江を演じた秀太郎の格調のある名演が光っていた。
   
   一方、「熊谷陣屋」の方だが、こちらの舞台は、染五郎の骨太な役者ぶりを始めて観たような感じがして、その心境の著しさに、やや、感動しながら楽しませて貰った。
   初代中村吉右衛門の熊谷を、先代幸四郎、父親の当代幸四郎、叔父の吉右衛門と言う系譜で芸の伝統を継承して来た結果の染五郎の熊谷であるから、正に、注目に値するのだが、幸四郎とも吉右衛門ともやや違った不思議な魅力を感じさせる熊谷で、まだ若くて洗練さには欠けるが、何か一風変わった新鮮な熊谷像を観た感じがしたのである。
   本人にしてみれば、まだ、高麗屋の熊谷をなぞっただけの演技であろうし、幸四郎や吉右衛門が築き上げた熊谷像の高みまでには、二人からまだまだ血の滲むような薫陶を受けなければならないのであろうが、今回の熊谷で、染五郎の目にも、弁慶や由良之助や松王丸が見えて来たということでもあろうと思う。

   綺麗な女形も、近松のがしんたれの優男も、龍馬も、アマデゥスも、兎に角、古典から新作まで歌舞伎の分野を殆どカバーし、西洋演劇等々幅広い芸域を器用にこなすスーパースターと言うべき染五郎に、新境地が加わったと言う感じがして、次への飛躍が楽しみでもある。

   この舞台の義経を演じた海老蔵は、実に颯爽としていて、これまで見たどの役者の義経よりも匂うような品格と優雅さが滲み出ていて美しく魅力的であった。
   しかし、その凛々しさと格調の高さだけが目立ち過ぎて、義経の指示で、自分の一子小太郎を敦盛の身代わりとして殺害せざるを得なかった熊谷の苦衷と出家と言う深刻さに対する思いやりの姿勢に欠けていたと言うのは酷であろうか。

   さて、この歌舞伎「一谷嫩軍記」だが、前の「組打」では、平家物語の「敦盛の最後」のとおりに敦盛の討ち死が演じられるのだが、この「熊谷陣屋」で、作者の創作が入って、実は、敦盛は後白河法皇のご落胤で、義経の命で敦盛を討てと言う命令と同時に命を助けよと言う命令も出ていて、結局、熊谷は、自分の子供小次郎を身代わりに殺すと言うことになっており、その確認に義経が首実検をすると言う残酷なストーリーになっているのだが、熊谷の出家への動機がより明確になるものの、一寸やりすぎだと思っている。

   私は、京都での大学生の頃から平家物語(古文)を愛読して故地を歩いてきたのだが、この第八十九句の「一の谷」のところに来ると、特に、平家一門の末路の中でも、感慨深くて、剛直な関東武者と文化人としての平家の武将との対比を描きながら、諸行無常を語る琵琶法師の切々とした語りが聞こえてくるようで胸に詰まりながら読んだものである。
   冒頭、箙に一首を結びつけて討ち死にした平家随一の文化人で文武両道の達人であった薩摩守忠度の最後が描かれていて感動を呼ぶ。
   後半に入ってから、熊谷と敦盛の組打が描かれているのだが、組み伏せた若武者が、薄化粧をしてお歯黒をつけた美少年であることを知った熊谷が、年端も同じ手負い傷を負って瀕死の状態であった実子小次郎のことを思い出して、助けてやろうとするが敦盛がそれを許さず味方の勢50騎が駆け込んできたので仕方なく首をかく模様が描かれている。これが、熊谷が、母親の藤の方(松也)に敦盛の最後として語り聞かせる物語である。

   ”御首をつつまんとて、鎧直垂をといて見れば、錦の袋に入れたる笛を、引き合わせ差されたり。”この笛が「小枝」で、「陣門」の冒頭のシーンで、平家の城より聞こえてきた管弦の主が敦盛だと分かる。
   ”東国の武者幾千万かあるらめども、合戦の場に笛持たる人、よもあらじ。何としても、上臈は優にやさしかりけるものを”と、義経に見せて語ると、皆涙を流したと言うことで、これが機縁となって熊谷の出家の志が強くなったと、平家物語は語っている。
   
   更に、平家物語では、熊谷は、夜もすがら敦盛のことを嘆き悲しみ、親の嘆きを思って、敦盛の首と、最後の時に着ていた衣装や鎧など一切を笛も残さず取り揃えて書状を書き添えて、修理大夫に送り届けており、大夫からも丁寧な礼状が返ってきたのを語っていて、その心の交流に涙を誘う。
   私の言いたかったのは、この歌舞伎のように、敦盛を後白河法皇の落胤にして義理人情に雁字搦めにしてどんでん返しの物語にしなくても、平家物語をそのまま舞台に乗せた方が良かろうと言うことである。
   尤も、これは上方発の浄瑠璃からの義太夫狂言だから、仕方ないのかも知れないのだが、歌舞伎には、実は、と言うどんでん返しが多いのだが、外国の戯曲はどうであろうか。

   
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芸の心を感じられるようになって (自由美)
2010-05-21 14:41:32
 初めまして。 最近歌舞伎の魅力に目覚めた自由美と言います。
投稿を興味深く拝見し、我が意を得たりと思い、コメントさせていただきました。

 もともと歴史物語が好きな私ですが、昔初めて歌舞伎を観たときに感じたのは、まさに

> 敦盛を後白河法皇の落胤にして義理人情に雁字搦めにしてどんでん返しの物語にしなくても、平家物語をそのまま舞台に乗せた方が良かろう

でした。 熊谷が息子の小次郎を敦盛の身代わりにした? 忠信が狐? 等、歌舞伎は史実や物語からあまりにもかけ離れているため、どうしても好きになれなかったのです。

 しかし、様々な演劇に触れて観劇経験を重ねていくうちに、先の「実録先代萩」の投稿にありましたように、

> いくら、役者が最高の芸と心を見せてくれていても、観る方に、それを理解し感じる心がなければ駄目で、観客も役者と同じように、努力に努力を重ねて、感受性豊かに受け止めることで、それに感じて感動すれば良いのだ

という観客としての心得を培ったせいか、以来、俄然と歌舞伎を面白く思うようになってしまったのです。 不肖ながら、「
芸の心を感じる」ことができるようになった、ということでしょうか? 
以前に比べて物の見方、考え方は厳しくなっているはずなのですけれど、そんな自分をも魅了して止まない歌舞伎の魅力は本当に素晴らしいと思います。

 まだまだ未熟者な歌舞伎ファンですが、またこちらのサイトにお邪魔して勉強させていただきますね。
ありがとうございました。
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