
五月の国立劇場の文楽は、二代目吉田玉男襲名披露公演で、口上のある第一部は、即刻完売であったが、第二部の公演には、かなりの空席が目立つ。
私などは、第二部の方が、充実した素晴らしい文楽を楽しめると思うのだが、やはり、襲名披露としての話題性に欠けるのであろうか。
まず、劇場のビラの口絵写真は、「祇園祭礼信仰記」の「爪先鼠の段」の雪姫だが、
松永大膳を切りつけようとして、逆に、庭の桜の木に縛り付けられて苦悶するうちに、庭一面に敷き詰められた桜の花びらを使って、爪先で鼠の絵を描くと、その鼠が動き出して縄を食い切り、雪姫は、夫を助けに行くと言うシーンである。
雪舟の涙鼠の逸話、すなわち、幼い雪舟が、経を読まずに絵ばかり描いているので、怒った寺僧が雪舟を仏堂の柱にしばりつけたが、床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描き、僧はその見事さに感服して、絵を描くことを許した。と言う話がある。
面白いことに、この浄瑠璃では、雪舟が雪姫の祖父だと言う設定となっていて、雪姫が、その話を思い出して、鼠を桜の花びらで描くと言うカラフルで綺麗な芝居になっている。
女形のトップ人形遣いの一人清十郎の至芸が、如何なく発揮された素晴らしい舞台で、縛り付けられて、縄目にかかって死出の旅に立とうとする夫を見送り、
身をあせる程縄が食い込んで、煩悩の大我と我が身を苦しめ憂き思いに、踊り上がり飛び上がり、天に呼ばわり地に伏して正体涙に暮れながら、断腸の思いで右往左往する雪姫を遣う。
縛られているので、両手が後ろ手となっているので、左遣いが人形から離れて、主遣いの清十郎と足遣いとの演技となって、清十郎の後振りの美しさが垣間見えて感動的である。
単なる苦悶の舞台ではなく、赤姫としての優雅さ美しさ、それに、品格のある色気さえ見え隠れして、正に、魅せて見せるシーンの連続で、これを見るだけでも、この舞台の値打ち十分である。
さて、「桂川連理柵」だが、私は、2008年に大坂で、2010年に東京で見ており、今度で3度目である。
これまでは、帯屋長右衛門は勘十郎、お半は簑助であったのだが、それ以前は、初代玉男が長右衛門を遣っていたので、今回は、長右衛門を二代目玉男、お半を勘十郎が遣っているので、昔の玉男簑助コンビが、玉男勘十郎コンビとなって代替わりした言うことであろう。
14歳の少女と38歳の中年男性の心中もので、旅先の宿屋でやむなく同衾したばかりに、過ちを犯して、子供を宿した幼ない乙女にひかれて桂川で心中すると言う実に切ない物語である。
文楽の舞台でも、「道行朧の桂川」では、長右衛門がお半をおぶって登場すると言う幼気なさ。
この浄瑠璃は、袖を繋ぎ合わせた中年男と乙女の死体が桂川から上がったと言う実話が題材になっているのだが、あの嵐山の渡月橋から三川が合流して淀川となるあたりまでが桂川で、大学時代に阪急で通っていたので、何となく、雰囲気は分かる。
この浄瑠璃で、やはり、涙を誘うのは、最後の桂川への道行のシーンで、連綿とした哀切極まりない大夫の語りと三味線に乗って繰り広げられる絵のような舞台である。
近松門左衛門の「曽根崎心中」や「心中天の網島」のように、切羽詰って死に行く大人の心中への道行とは違う。
お半は,伊勢参りの旅宿で、丁稚の長吉に言い寄られて、同宿の長右衛門の部屋に逃げ込み蒲団を共にしている内につい過ちを犯して、身重となって幼気な体に腹帯を巻く・・・”ただならぬこの身、世間へ知れては私が恥は厭わねども、お前の名を出すが悲しく、お絹様への詫び言や、母様に叱られぬ内、桂川へ身を投げ候・・・”
しかし、道行で、大夫が、
小さい時に、祇園参りや北野さんへ、長右衛門に、手を引かれたり負われたり、物見見物後追うて、甘やかされ可愛がられた親よりも、”人が尋ねりゃ長様が、たんと愛しと言うた時、やがて女夫にならんしょと、乳母や丁稚になぶられて、恥ずかしかった下心。定まり事と諦めて、一緒に死んで下さんせ”と、お半の切ない心の内を切々と語る。
秘め事を知ってか知らずか、源氏と紫の上とはややニュアンスは違うが、お半は、長右衛門に恋焦がれて女になったのである。
一方、長右衛門は、お半との契りを知った長吉が、腹いせに、長右衛門が遠州の殿様から研ぎに出す為に預かってきた正宗の中身を差し替えて盗み出しているために、行くへ知れずで窮地に立っており、
最期に会いに来たお半が、死ぬ覚悟の書置きを残して去ったので、お半の妊娠と正宗の紛失で切羽詰った長右衛門は、桂川へとお半の後を追う。
簑助の時にも感じたのだが、
世間を全く知らないままに、不義の子を身ごもったと言う罪の意識だけで死に急ぐ幼い、そして、健気で一途に長右衛門を思い続ける幼妻を乙女の初々しさを残しながら死に行くお半を、勘十郎は、感動的に遣って、涙を誘う。
父と妻お絹の寛大で実に温かい許しを得ながら、腹を括った長右衛門の義理人情の柵を越えた死への旅路、・・・お半を背負った長右衛門の玉男の人形が、悲しく切ない。
・・・恋を立て抜く輪廻の絆、抱だきつく抱だきつく顔と顔・・・後振りに沈むお半を、しっかりと抱きしめる長右衛門の人形は、初代玉男の近松人形を彷彿とさせて、息をのむ崇高さ。
玉男と勘十郎の芸道は、これから、30年以上も、上り詰めて行くのであろうと思うと恐ろしくなるほどだが、今回の舞台は、正に、感動的な道行シーンの連続であった。
今回、簑助は、「帯屋の段」で、丁稚長吉を遣って、コミカルタッチの愉快な芝居を演じて華を添えている。
立女形が演じる女形を遣えば、初代玉男とは双璧であった簑助だが、前の由良の助は勿論、老け役やこのようなコミカルタッチの役にしても、流石に人間国宝で、何時も、一つ一つ、感激しながら鑑賞させて貰っている。
もう一つの素晴らしい人形は、和生の遣うお絹で、丁稚長吉を操っての長右衛門のアリバイ崩しや切々と思いを吐露して語りかける長右衛門への口説きなど、品があって良い。
勘壽の父親繁斎の風格、そして、全く腹が立つほど憎々しい文昇の母おとせと簑二郎の弟偽兵衛など、脇役陣の健闘が光っている。
最後になったが、「帯屋の段」での、嶋大夫と錦糸の義太夫語りと三味線の素晴らしさは、格別で、個性豊かな登場人物のユニークな掛け合いのみならず、儀兵衛と長吉の絡むハイテンポのリズム感とアクセルの利いたチャリバなどは秀逸で、また、ほろりとさせる人情味も豊かで感動的である。
最近は、ずっと、嶋大夫が語っていて、正に、独壇場の世界なのであろう。
後半のしんみりとした語りの英大夫と團七の名調子も、しみじみと心に響いて爽やかな余韻を残す。
私などは、第二部の方が、充実した素晴らしい文楽を楽しめると思うのだが、やはり、襲名披露としての話題性に欠けるのであろうか。
まず、劇場のビラの口絵写真は、「祇園祭礼信仰記」の「爪先鼠の段」の雪姫だが、
松永大膳を切りつけようとして、逆に、庭の桜の木に縛り付けられて苦悶するうちに、庭一面に敷き詰められた桜の花びらを使って、爪先で鼠の絵を描くと、その鼠が動き出して縄を食い切り、雪姫は、夫を助けに行くと言うシーンである。
雪舟の涙鼠の逸話、すなわち、幼い雪舟が、経を読まずに絵ばかり描いているので、怒った寺僧が雪舟を仏堂の柱にしばりつけたが、床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描き、僧はその見事さに感服して、絵を描くことを許した。と言う話がある。
面白いことに、この浄瑠璃では、雪舟が雪姫の祖父だと言う設定となっていて、雪姫が、その話を思い出して、鼠を桜の花びらで描くと言うカラフルで綺麗な芝居になっている。
女形のトップ人形遣いの一人清十郎の至芸が、如何なく発揮された素晴らしい舞台で、縛り付けられて、縄目にかかって死出の旅に立とうとする夫を見送り、
身をあせる程縄が食い込んで、煩悩の大我と我が身を苦しめ憂き思いに、踊り上がり飛び上がり、天に呼ばわり地に伏して正体涙に暮れながら、断腸の思いで右往左往する雪姫を遣う。
縛られているので、両手が後ろ手となっているので、左遣いが人形から離れて、主遣いの清十郎と足遣いとの演技となって、清十郎の後振りの美しさが垣間見えて感動的である。
単なる苦悶の舞台ではなく、赤姫としての優雅さ美しさ、それに、品格のある色気さえ見え隠れして、正に、魅せて見せるシーンの連続で、これを見るだけでも、この舞台の値打ち十分である。
さて、「桂川連理柵」だが、私は、2008年に大坂で、2010年に東京で見ており、今度で3度目である。
これまでは、帯屋長右衛門は勘十郎、お半は簑助であったのだが、それ以前は、初代玉男が長右衛門を遣っていたので、今回は、長右衛門を二代目玉男、お半を勘十郎が遣っているので、昔の玉男簑助コンビが、玉男勘十郎コンビとなって代替わりした言うことであろう。
14歳の少女と38歳の中年男性の心中もので、旅先の宿屋でやむなく同衾したばかりに、過ちを犯して、子供を宿した幼ない乙女にひかれて桂川で心中すると言う実に切ない物語である。
文楽の舞台でも、「道行朧の桂川」では、長右衛門がお半をおぶって登場すると言う幼気なさ。
この浄瑠璃は、袖を繋ぎ合わせた中年男と乙女の死体が桂川から上がったと言う実話が題材になっているのだが、あの嵐山の渡月橋から三川が合流して淀川となるあたりまでが桂川で、大学時代に阪急で通っていたので、何となく、雰囲気は分かる。
この浄瑠璃で、やはり、涙を誘うのは、最後の桂川への道行のシーンで、連綿とした哀切極まりない大夫の語りと三味線に乗って繰り広げられる絵のような舞台である。
近松門左衛門の「曽根崎心中」や「心中天の網島」のように、切羽詰って死に行く大人の心中への道行とは違う。
お半は,伊勢参りの旅宿で、丁稚の長吉に言い寄られて、同宿の長右衛門の部屋に逃げ込み蒲団を共にしている内につい過ちを犯して、身重となって幼気な体に腹帯を巻く・・・”ただならぬこの身、世間へ知れては私が恥は厭わねども、お前の名を出すが悲しく、お絹様への詫び言や、母様に叱られぬ内、桂川へ身を投げ候・・・”
しかし、道行で、大夫が、
小さい時に、祇園参りや北野さんへ、長右衛門に、手を引かれたり負われたり、物見見物後追うて、甘やかされ可愛がられた親よりも、”人が尋ねりゃ長様が、たんと愛しと言うた時、やがて女夫にならんしょと、乳母や丁稚になぶられて、恥ずかしかった下心。定まり事と諦めて、一緒に死んで下さんせ”と、お半の切ない心の内を切々と語る。
秘め事を知ってか知らずか、源氏と紫の上とはややニュアンスは違うが、お半は、長右衛門に恋焦がれて女になったのである。
一方、長右衛門は、お半との契りを知った長吉が、腹いせに、長右衛門が遠州の殿様から研ぎに出す為に預かってきた正宗の中身を差し替えて盗み出しているために、行くへ知れずで窮地に立っており、
最期に会いに来たお半が、死ぬ覚悟の書置きを残して去ったので、お半の妊娠と正宗の紛失で切羽詰った長右衛門は、桂川へとお半の後を追う。
簑助の時にも感じたのだが、
世間を全く知らないままに、不義の子を身ごもったと言う罪の意識だけで死に急ぐ幼い、そして、健気で一途に長右衛門を思い続ける幼妻を乙女の初々しさを残しながら死に行くお半を、勘十郎は、感動的に遣って、涙を誘う。
父と妻お絹の寛大で実に温かい許しを得ながら、腹を括った長右衛門の義理人情の柵を越えた死への旅路、・・・お半を背負った長右衛門の玉男の人形が、悲しく切ない。
・・・恋を立て抜く輪廻の絆、抱だきつく抱だきつく顔と顔・・・後振りに沈むお半を、しっかりと抱きしめる長右衛門の人形は、初代玉男の近松人形を彷彿とさせて、息をのむ崇高さ。
玉男と勘十郎の芸道は、これから、30年以上も、上り詰めて行くのであろうと思うと恐ろしくなるほどだが、今回の舞台は、正に、感動的な道行シーンの連続であった。
今回、簑助は、「帯屋の段」で、丁稚長吉を遣って、コミカルタッチの愉快な芝居を演じて華を添えている。
立女形が演じる女形を遣えば、初代玉男とは双璧であった簑助だが、前の由良の助は勿論、老け役やこのようなコミカルタッチの役にしても、流石に人間国宝で、何時も、一つ一つ、感激しながら鑑賞させて貰っている。
もう一つの素晴らしい人形は、和生の遣うお絹で、丁稚長吉を操っての長右衛門のアリバイ崩しや切々と思いを吐露して語りかける長右衛門への口説きなど、品があって良い。
勘壽の父親繁斎の風格、そして、全く腹が立つほど憎々しい文昇の母おとせと簑二郎の弟偽兵衛など、脇役陣の健闘が光っている。
最後になったが、「帯屋の段」での、嶋大夫と錦糸の義太夫語りと三味線の素晴らしさは、格別で、個性豊かな登場人物のユニークな掛け合いのみならず、儀兵衛と長吉の絡むハイテンポのリズム感とアクセルの利いたチャリバなどは秀逸で、また、ほろりとさせる人情味も豊かで感動的である。
最近は、ずっと、嶋大夫が語っていて、正に、独壇場の世界なのであろう。
後半のしんみりとした語りの英大夫と團七の名調子も、しみじみと心に響いて爽やかな余韻を残す。