
大学を卒業してから、会社に入って、大阪万博が終わると同時に、東京本社へ転勤し、そのまま、関東に移り住みながら、海外生活14年を送って来たので、ずっと、昔に関西人を卒業している。
しかし、私の話す言葉は、今でも、関西訛りのようで、意識的にも関西人で、大阪に降り立ち、京都や奈良を歩くと、全くアットホーム感覚。
初旬に、高等学校の同年度の同窓会があると言うので、丁度、国立文楽劇場での菅原伝授手習鑑の鑑賞も兼ねて、出席することにした。
大阪を離れるまでは、高校の同窓会の役員も兼ねていたのだが、東京以降転々とした住所変更を学校に届けていなかったので、かなり最近まで、行方不明者扱いとなり、同窓会とは没交渉であった。
高校で、同窓会主催の観桜会が開かれていたので、同窓会前に訪れたのだが、殆ど半世紀ぶりの母校訪問で、微かに残る記憶や雰囲気を反芻しながら、咲き乱れる桜木の下で涼風を楽しみながら、懐かしい思い出に耽っていた。




同窓会は、伊丹市の中心街にあるホテルで開かれた。
卒業生450人くらいだったと思うのだが、出席者は、90人弱、元気な人で、出席できる人たちだけが来たのであろうが、既に、1割くらいの人が物故者となっていて寂しい。
出席者の殆どは、関西ないし近県の住人で、私のように、卒業後完全に故郷を離れて異郷で暮らしてきた人間にとっては、会う同窓生の殆どは、半世紀ぶりの再会であるから、微かに残っている面影や記憶の片鱗を結びつけながら、旧交を温めるのがやっとであった。
高校時代に親しかった友人たちとは、共通の接触空間があったので、当時の生活や思い出に花を咲かせて、どんどん、当時の様子が蘇って来る。
遠路鎌倉からやって来た、半世紀ぶりの再会だと言うこともあってか、席に座っていると次から次へと懐かしい顔を見せてくれて、話が随分弾んだ。
私もその一人かも知れないのだが、みんな、想像を絶するような経験を経ながら生きて来ており、年輪の重みをつくづく感じて感動的であった。
しかし、私にとって興味深かったのは、高校時代に、恐らく一度も話したことのない同窓生たちとの会話の新鮮さであった。
高校時代に、私自身は、生徒会長を務めるなど、かなり、活発な生活を送っていたので、殆どの同級生は、私のことを知っているのだが、私自身は、自分の同じクラスや生徒会、クラブ活動などで一緒した同窓生など極めて限られた人しか知らず、話題に大変困ったのだが、どのように自分が映っていたのか、温かく語ってくれていたのが有難かった。
そして、話題がどんどん膨らんで、私の知らないような高校生活が展開していたことを知って、益々、あの頃の生活が愛おしくなってきた。
時代ばかりでもなかろうが、私自身の性格もあって、当時、半数いた筈の女子の同窓生とは、親しくどころか、殆ど話をしたことがなかった。
ところが、歳がそうさせるのか、あるいは、人生の積み重ねの所為か、今回は、かなりフランクに話せて楽しかった。
もうかなりのお歳(?)である筈なのだが、若さは実年齢の8掛けくらいで考えろと言われているように、実に若々しくて、日頃とは違った異次元の会話で、話題に味と深みがあって、実に温かいのである。
チャーミングなレディが、席の傍に来て、懐かしい京都での話などを語ってくれていた。
感激しながらも、女性には苦手なので、勝手なことを話していたようで心苦しいのだが、このように、同級生の皆とは、実に感動的な会話を交わせた筈なのに、高校時代、私は一体何をしていたのか、反省しきりであった。
私には、5つの同窓会がある。
小学校、中学校、高校、大学、そして、アメリカの大学院。
中学校の同窓会は、まだ、知らないのだが、私自身が行方不明者のままなのか、これは、宝塚なので、是非、行きたいと思っている。
同窓会は、誰か、マメで熱心な有志がいなければ実現が難しい。
私など率先してやらねばならない筈だったが、残念ながら、すぐに故郷を離れてしまって、世界のあっちこっち、地球の反対側まで行って暮らしていたので、お役に立てなかったので偉そうなことは言えないが、多少の責任は感じてはいるものの、同窓会を開くには、継続して同窓生の動向をフォローしていなければ、難しいだろうと思っている。
しかし、私の話す言葉は、今でも、関西訛りのようで、意識的にも関西人で、大阪に降り立ち、京都や奈良を歩くと、全くアットホーム感覚。
初旬に、高等学校の同年度の同窓会があると言うので、丁度、国立文楽劇場での菅原伝授手習鑑の鑑賞も兼ねて、出席することにした。
大阪を離れるまでは、高校の同窓会の役員も兼ねていたのだが、東京以降転々とした住所変更を学校に届けていなかったので、かなり最近まで、行方不明者扱いとなり、同窓会とは没交渉であった。
高校で、同窓会主催の観桜会が開かれていたので、同窓会前に訪れたのだが、殆ど半世紀ぶりの母校訪問で、微かに残る記憶や雰囲気を反芻しながら、咲き乱れる桜木の下で涼風を楽しみながら、懐かしい思い出に耽っていた。




同窓会は、伊丹市の中心街にあるホテルで開かれた。
卒業生450人くらいだったと思うのだが、出席者は、90人弱、元気な人で、出席できる人たちだけが来たのであろうが、既に、1割くらいの人が物故者となっていて寂しい。
出席者の殆どは、関西ないし近県の住人で、私のように、卒業後完全に故郷を離れて異郷で暮らしてきた人間にとっては、会う同窓生の殆どは、半世紀ぶりの再会であるから、微かに残っている面影や記憶の片鱗を結びつけながら、旧交を温めるのがやっとであった。
高校時代に親しかった友人たちとは、共通の接触空間があったので、当時の生活や思い出に花を咲かせて、どんどん、当時の様子が蘇って来る。
遠路鎌倉からやって来た、半世紀ぶりの再会だと言うこともあってか、席に座っていると次から次へと懐かしい顔を見せてくれて、話が随分弾んだ。
私もその一人かも知れないのだが、みんな、想像を絶するような経験を経ながら生きて来ており、年輪の重みをつくづく感じて感動的であった。
しかし、私にとって興味深かったのは、高校時代に、恐らく一度も話したことのない同窓生たちとの会話の新鮮さであった。
高校時代に、私自身は、生徒会長を務めるなど、かなり、活発な生活を送っていたので、殆どの同級生は、私のことを知っているのだが、私自身は、自分の同じクラスや生徒会、クラブ活動などで一緒した同窓生など極めて限られた人しか知らず、話題に大変困ったのだが、どのように自分が映っていたのか、温かく語ってくれていたのが有難かった。
そして、話題がどんどん膨らんで、私の知らないような高校生活が展開していたことを知って、益々、あの頃の生活が愛おしくなってきた。
時代ばかりでもなかろうが、私自身の性格もあって、当時、半数いた筈の女子の同窓生とは、親しくどころか、殆ど話をしたことがなかった。
ところが、歳がそうさせるのか、あるいは、人生の積み重ねの所為か、今回は、かなりフランクに話せて楽しかった。
もうかなりのお歳(?)である筈なのだが、若さは実年齢の8掛けくらいで考えろと言われているように、実に若々しくて、日頃とは違った異次元の会話で、話題に味と深みがあって、実に温かいのである。
チャーミングなレディが、席の傍に来て、懐かしい京都での話などを語ってくれていた。
感激しながらも、女性には苦手なので、勝手なことを話していたようで心苦しいのだが、このように、同級生の皆とは、実に感動的な会話を交わせた筈なのに、高校時代、私は一体何をしていたのか、反省しきりであった。
私には、5つの同窓会がある。
小学校、中学校、高校、大学、そして、アメリカの大学院。
中学校の同窓会は、まだ、知らないのだが、私自身が行方不明者のままなのか、これは、宝塚なので、是非、行きたいと思っている。
同窓会は、誰か、マメで熱心な有志がいなければ実現が難しい。
私など率先してやらねばならない筈だったが、残念ながら、すぐに故郷を離れてしまって、世界のあっちこっち、地球の反対側まで行って暮らしていたので、お役に立てなかったので偉そうなことは言えないが、多少の責任は感じてはいるものの、同窓会を開くには、継続して同窓生の動向をフォローしていなければ、難しいだろうと思っている。
私は好んで「市立伊丹高校」に進学しました。教師からは、どちらも合格します。伊丹の中心にあるのは、母校である。実は神戸高校・受験したく。。。当時は大変でした、米穀通帳なるものを 移したり あきらめました。夫の仕事(大学教授)で、関東に住み いかに「関西弁」が嫌われているか?標準語に改めました。