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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

九月大歌舞伎・・幸四郎と吉右衛門の「勧進帳」雑感

2009年09月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月は、本来なら初代吉右衛門を偲ぶ秀山祭なので、吉右衛門が大車輪の活躍で、夜の部は、「勧進帳」の富樫と、「松竹梅湯島掛額」の紅屋長兵衛で、渋い役とコミカルな役を同時にこなしていて興味深い。
   勧進帳なら、豪快で勇壮な弁慶なのであろうが、ここは兄貴の幸四郎に弁慶を譲っているので、期せずして、吉右衛門の富樫を鑑賞出来るとと言う、ファンとしては願ったりの舞台でもある。

   ところで、この勧進帳だが、何度も観ているので同じ役者が重なっており、私としては、この幸四郎と吉右衛門の他に、團十郎、仁左衛門の弁慶を観ているのだが、夫々、東西一の名優揃いで、いずれも素晴らしい舞台であった。
   團十郎にとっては、お家の18番の芸であるから決定版と言うことであるし、幸四郎も吉右衛門も、77歳まで1600回も演じ続けたと言う7代目幸四郎の芸の継承であるから、押しも押されもしない理想的な弁慶像であろうが、私にとって印象深かったのは、仁左衛門の舞台で、勘三郎の富樫、玉三郎の義経たちが繰り広げる非常に華麗で新鮮な舞台である。

   不思議なもので、名優の18番で何百回と連続公演している名物舞台については、その決定版を何度も観たいと思う反面、別な役者の新しい舞台も観て見たいと言う複雑な思いもある。
   この勧進帳については、複数の名優が素晴らしい舞台を展開しているので、私には、どの役者の弁慶を観たいと言うほどの拘りはなく、富樫や義経を演じる役者も夫々変わって組み合わせの妙と言うか変化に富んだ、サプライズの舞台を楽しみたいと言う気持ちの方が強い。
   その意味では、今回の幸四郎の弁慶に、弁慶役者の吉右衛門が、富樫に回り、それに、夫々の息子であり甥である若手のホープである染五郎の義経と言う組み合わせは、非常にファンとしてはワクワクとする組み合わせである。

   幸四郎の弁慶は、先に東大寺奉納舞台で1000回目を演じているので、正に伝説的と言っても良い舞台であろうが、弁慶を知り尽くした吉右衛門が、非常に感動的な富樫像を作り上げていて感激して観ていた。
   今まで、弁慶も演じたと言う富十郎(映画「写楽」で、團十郎役で弁慶を演じている)以外は、弁慶イメージの全くない格好良い菊五郎や勘三郎や梅玉と言った役者の富樫を観てきたのだが、私自身は、この勧進帳は、富樫の命を賭けた義経詮議と死を覚悟しての義経一行見逃しが眼目だと思っているので、本当は、弁慶像の決定版を作り上げた弁慶役者が演じてこそ、迫真の富樫像が浮かび上がってくるのだと言うことが、今回の吉右衛門の舞台を観ていて良く分かった気がしている。
   吉右衛門は、頭の中で、両者による綿密なシュミレーションを行って計算し尽した上で富樫像を創りあげた筈である。

   吉右衛門が、「中村吉右衛門の歌舞伎ワールド」で、この武蔵坊弁慶を解説していて、非常に興味深いことを述べている。
   ”白紙の巻物を手に、難解な勧進文を堂々と暗誦してピンチを脱すると言う、ここにこそ弁慶と言う男の真骨頂がある。無から有を生み、不可能を可能にする。それを実現せしめたのは、主君・義経を何としてしても守り抜く気迫と信念でしょう。”

   このことを考えれば、富樫は、当初から義経一行を見破っており、従って、偽勧進帳が如何なる物かと言うのが富樫の最大の関心事であり、白紙巻物を読む弁慶の手元を覗き込む富樫の視線をとっさに隠す「天地の見得」の段階では、白紙だと分かってしまったと解釈した方が、素直であり、その後の、富樫の詮議が熾烈を極めれば窮めるほど、逆に、富樫の弁慶への心の傾斜が理解出来る。
   事実、幸四郎弁慶も、巻物を巻きながら読む仕種など全くしていない。
   それに、僧として修行を積んだ荒法師の弁慶には、山伏問答など、素人の富樫とは格段の知識の差があり、最初から勝負が着いている。

   言うならば、番卒に疑いをかけられた義経を杖で打つシーンなどは、最後の駄目押し補足であり、富樫は、その前に、自分の命と引き合えに義経一行を見逃す心の覚悟をしてしまっているので、弁慶の義経への仕打ちを止めさせて一行を行かせる。
   山伏問答までは、弁慶に対して非常に気迫の篭った対応をするが、番卒の耳打ちにはそれなりのきりっとした対応を示すものの、その後の富樫の心は非常に澄み切っており、吉右衛門は、泰然自若とした姿で殆ど無表情で押し通して、本当の主従の強い絆を眼前にして感動さえ覚えながら富樫の運命を噛み締めている風情であった。
   義経一行を送り出す富樫こそが、この世との別れを噛み締めており、義経たちの悲壮感との対極にある。

   文楽では、義経が退場するとすぐに富樫も座を立つのだが、歌舞伎は弁慶を見送ると言う設定になっており、歌舞伎では、随所に弁慶を引き立てるシーンが目白押しだが、当時の、看板役者團十郎が始めた舞台であるからであろうか。
   富樫の心境を考えれば、「延年の舞」の途中で、弁慶が、義経一行の退場を促すシーンなどは、私は蛇足だと思っている。

   ところで、根を詰めて大変な舞台を勤め続けてきた幸四郎が、花道に立って、義経たちの無事出立を確認して富樫に別れを告げ、「飛六方」で花道を入る豪快な見せ場を演じるのだが、客席をしっかと睨み付けて、呼吸を整えるために、一呼吸も二呼吸も置いて間を取っていたのが印象に残っている。
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