熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

何故オランダがかって世界帝国になったのか

2012年01月29日 | 政治・経済・社会
   ヨーロッパの小国オランダは、その絶頂期は、1625年から1675年までの短い期間だったが、世界の海上覇権、商業覇権を揺るぎないものとした正に世界帝国であった。
   勿論、オランダは、小国であったので、大陸ヨーロッパを征服しようとしたことは一度もなかったし、スペイン、フランス、イギリスなどの大国を海戦で勝利して跳ね返す程度ではあったが、重要なことは、中世期のベネチアのように、領土ではなく通商権益の拡張と確保に貧欲だったと言うことである。
   当時、全世界の貿易船の総数が2万あったのに対して、オランダ船は1万5千以上あり、海軍力もイギリスとフランスの海軍力の合計に匹敵していたと言うから、完全に制海権は握っていたのである。

   それでは、どうして、オランダが短期間に世界一の最強国に躍り出たのか、その秘密は何であったのであろうか。
   それまでは、どの世界帝国も、文化文明的にも最先端を行っていて、近隣諸国を征服して、その地位を確立していたのだが、オランダは、これとは全く違った手法、寛容戦略によって、世界覇権を実現したのだと、エイミー・チェアは、「最強国の条件 DAY OF EPPIRE」で、その詳細を論じている。
   この本は、歴史上の最強国を論じて、その世界支配への道程に置いて、寛容さが決定的に重要であったと説いているのだが、オランダの場合には、その典型的な例であり、私自身、3年間在住して、オランダを多少なりとも知っているので、ブックレビューは後日に譲るとして、このオランダのケースについて論じて、日本の今後のブレイクスルーには、この世界へ向かっての寛容戦略の実施以外にないことを考えてみたいと思っている。

   まず、念頭に置くべきは、当時のスペインの凄まじい異端審問と異教徒追放で、1492年に、フェルナンド王とイサベラ女王は、国内のユダヤ教徒に対して、改宗するか4か月以内に国外退去するかの選択を迫り、1502年にイスラム教徒へも改宗か国外退去化を迫ったので、20万人と言うユダヤ教徒を筆頭に多くの豊かな市民や有能な人材がスペインを離れたことである。
   1492年のコロンブスのアメリカ遠征も、ユダヤ人金融業者のサポートあっての偉業であったにも拘わらずである。16世紀以降、南北両アメリカ大陸で領土を拡大したが、艦隊派遣や戦争で膨大な資金を要して借財したので、新大陸で得た金銀は殆ど抵当に取り上げられてしまっていて、1557年にスペイン王室が破産して、再びユダヤ金融に頼らざるを得なくなった。
   しかし、この金融で得た莫大な資金を、ユダヤ人たちは、スペインやポルトガルが支配していたブラジルの砂糖、アジアの香辛料、アフリカの奴隷貿易に再投資して巨富を築いていたのだが、スペインは、1590年に、再び、休眠中だった異端審問所を再開し、弾圧と拷問、死刑の大波を展開し、カトリック教の防衛を至上命令として独仏蘭でも新教徒を相手とする大戦争を仕掛けるなどして異教徒弾圧を行って、凋落への道を突っ走って行ったのである。
   スペイン衰退の真犯人は、技術的な後進性、封建的な伝統の根強さ、巨額の対外債務、人口減少、国家機構の弱体、産業部門や企業家層の欠落、慢性的な財政危機などと言われているが、しかし、それもこれも、1480年代にはじまったスペイン王室の狂信的な宗教浄化政策のなせる業だったのである。

   17世紀のヨーロッパでは、宗教戦争、異教徒の迫害、そして狂信の嵐が吹き荒れていたのだが、1579年に建国したオランダには、元々、国の教会もなければ、ユトレヒト同盟で、信仰は自由であり、その信ずる宗教によって捜査や弾圧の対象にもなければ、改革派教会への改宗の強制も、非改宗者への罰金もないと規定されており、この例外とも言うべき宗教的寛容政策のお蔭で、ヨーロッパ中から、多くの有能な起業家精神あふれるユダヤ人など被差別民が、大挙して流入して来た。
   フランスからユグノー、ドイツからルター派、南欧や東欧からはユダヤ教徒、イギリスからはクエカーやピュリタンなどがやって来たが、特に、豊かなイベリア半島からのユダヤ人は、世界で最も裕福で、優雅で博識、洗練された商人や金融業者であったので、膨大な資金を新国家に注ぎ込み、一挙に、オランダを経済大国にのし上げた。
   世界最初のバブル経済事件として有名なチューリップ・バブルは、このオランダで1637年に起こったのだが、証券取引所も設立されるなど、当時のオランダの経済が如何に先進的であったかを垣間見るのに格好のケースであろう。
   アムステルダムが、ダイヤモンドの取引および研磨の中心となり金融や貿易の核となり、オランダは、砂糖精製から武器製造、化学工業、繊維工業など、ありとあらゆる産業においてヨーロッパ一の地位に上り詰めたのである。

   元々、オランダのビジネス・モデルは、オランダの船を世界の隅々まで派遣して、東インドの胡椒や香辛料、ブラジルとサントメ島の砂糖、トルコのモヘア生地、カステリアの羊毛、インドの綿とダイヤの原石と言った高価な商品を持ち帰り、豪華な製品に仕上げて転売・再輸出すると言う貿易立国であったから、ヨーロッパの贅沢品市場を完全に抑えてしまったのである。
   これらの多くの利権や政治経済の中心は、その後、そっくりとイギリスに移ってはしまうが、宗教的寛容政策と自由な市民社会が、一時期とは言え、車でならどこからでも1時間以内に国境を越えてしまうほんの人口数百万人の小国オランダが、いわば、経済的なメディチ・エフェクトを現出して、文化文明の華を大きく開花させたと言う厳粛なる歴史的事実は重い。
   
   結局、このオランダの場合も、或いは、メディチ・エフェクトを現出してルネサンスの華を開花させたフィレンツェも、或いは、今様の産業ユートピアとも言うべきシリコンバレーも、有能でかつ最もイノベイティブな活力漲った起業家や芸術家や技術者を引き付け糾合するためには、門戸を開放するのみならず、魅力的な、そこに行けば、あらゆる可能性に挑戦出来て、チャレンジ&レスポンスで、どんなことへでも活路を開けると言う夢がなければならないと言うことであろう。
   本日、インドネシア人とフィリピン人の外国人介護福祉士候補者95人が、介護福祉士の国家試験を初めて受験したと報道されていたが、折角、本国でも極めて有能な看護師や介護福祉士が、日本に来て3年間も研修と実務を行っていながらも、漢字の問題(?)で、追い返すと言うような日本の現状では、お先真っ暗であろうと思っている。
   学位や資格の相互乗り入れなど、いくらでも方法があると思うのだが、有能な素晴らしい外国人を沢山糾合できるような日本に変えない限り、日本の発展はないと言っても過言ではなかろう。

   オランダの話から、飛躍してしまったのだが、国粋主義と言うか、言い換えれば、対外コンプレックスの強い、外国嫌いで内向き志向の日本の国民性を、今こそ変えるべき時期に来ていると思っている。
   ヨーロッパに行けば分かるが、どこへ行っても、殆ど、元からの、あるいは、長く住んでいる本国人など極少ないのが普通で、日本人ばかりいる日本の方が異常なのかも知れないと思うことがある。
   大国アメリカやブラジルなど、原住民など、0.0…%であり、皆、他所からの流れものなのである。
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