吉田蓑助と山川静夫の、脳卒中・闘病・リハビリと言った予期せぬ人生の挫折を克服して、花舞台へ帰ってきた復帰の記録で、吉田蓑助と山川静夫 花舞台へ帰ってきた。―脳卒中・闘病・リハビリ・復帰の記録で、非常に興味深い。
簑助は、65歳まで運動とは全く無縁であったのだが、リハビリを始めてから、毎日一日も欠かさず運動を続けている。
リハビリのために入院した有馬温泉病院では、理学・作業・言語療法の三本立てで、一番辛かったのは、「言語訓練」で、失語障害は、話す機能だけではなく、読む、書く、聞く機能も落ちるので、文字を見るのさえ苦痛で、「ヨ・シ・ダ・ミ・ノ・ス・ケ」と言えた時には、思わず涙をこぼしたと言う。
2003年、一番弟子簑太郎の勘十郎襲名披露の時に、「三代目・桐竹勘十郎をよろしくお願いいたします」とだけ、不自由な声で言ったのを聞いた時には、私自身も感激し、聴衆は拍手万来で応えたのを覚えている。
毎日、マシンやダンベルを使っての筋トレとストレッチ、水中歩行などの3時間、それに、家の裏山を歩くこと2時間、その姿の写真が掲載されていて、病床で、勘十郎から渡され握りしめろとアドバイスされたソフトボールに、「足遣いからでもいいから、もう一度舞台に復帰したい」と言う一念で書いた、たどたどしい足と言う字の滲んだぼこぼこになったボールを今も大切に持っているようだが、このボールの写真が苦闘のすべてを物語っている。
幸い、簑助復帰後、暫く、先代玉男が健在であったので、玉男・簑助黄金コンビの至芸を楽しむことが出来て幸せだと思った。
玉男が逝った後、簑助が、仮名手本忠臣蔵の舞台で、大星由良助を遣った時には、大きな時代の流れを感じて、簑助健在の喜びを感じた。
この本では、第2章の「リハビリ交信」で、二人の闘病時期の往復書簡が掲載されていて興味深い。
私に興味深かったのは、第3章の「わが師わが友」。
簑助は、文五郎に入門して部屋子として同居していたが、文楽の人形遣いには、主遣い、左遣い、足遣いと三人の分業で完結していて、独立した役柄の修行など成立せず、三人の「呼吸」が要求され、自分で沢山の経験を積むしか道がなく師匠は何も教えてくれない。
ところが、師匠のおかみさんがやっていた「文の家」と言うお茶屋の二階に住んで居たので、頻繁に出入りする芸鼓たちの煙管に煙草の葉を詰める仕草など、女性たちの立ち居振る舞いが、その後の芸の手本になって大いに役に立ち、弟子たちに「芸は見て覚えろ」と口を酸っぱくして言っているのだと言う。
「新口村」の舞台で、紋十郎の足遣いしていた自分が、忠兵衛を遣うことになって、紋十郎の梅川を、位負けして、しっかり抱き寄せられなくて、「抱くのや、抱かんか!」と怒鳴られたと言う話も、簑助でさえそうかと思わせて面白い。
このパートで興味深いのは、文楽人形制作者の大江巳之助との交友録と、人形の首への思い入れとその秘密の開陳。
それまで、天狗弁や天狗久の作った名作と言う首があるが、その首では、昭和、平成の文楽には合わず、文楽と言う伝統芸能は、時代の流れに沿って、観客と舞台の三業と共に流れていて、今の時代の観客や、太夫の声、人形遣いの演技には、大江巳之助の首しか合わないのだと言う。
これは、世阿弥の頃の面もあると言う、歴史と伝統のある名作の古面を珍重する能狂言とは違った、文楽の古典芸の特質を語っているようで非常に興味深い。
人形遣いは、自分の人形には熟知しているが、自分では遣っている人形の顔は見えない。自分の遣った人形の首を撮った写真を見て、演じていた以上に哀れさなどを表現していて、自分ながらビックリする。これは、大江巳之助の首のなせる業だと言う。
平成9年に巳之助は逝った。
「大江の前に大江なく、大江の後に大江なし」と結んでいる。
簑助の話だけで、レビューが終わったしまったが、この本は、山川静夫が主体で構成したようで、山川静夫についても、勿論、非常に興味深い話が綴られている。
観客の一人として、山川静夫と同じような視点で、見ているような気もしたので、簑助だけの印象記にとどめた。
簑助は、65歳まで運動とは全く無縁であったのだが、リハビリを始めてから、毎日一日も欠かさず運動を続けている。
リハビリのために入院した有馬温泉病院では、理学・作業・言語療法の三本立てで、一番辛かったのは、「言語訓練」で、失語障害は、話す機能だけではなく、読む、書く、聞く機能も落ちるので、文字を見るのさえ苦痛で、「ヨ・シ・ダ・ミ・ノ・ス・ケ」と言えた時には、思わず涙をこぼしたと言う。
2003年、一番弟子簑太郎の勘十郎襲名披露の時に、「三代目・桐竹勘十郎をよろしくお願いいたします」とだけ、不自由な声で言ったのを聞いた時には、私自身も感激し、聴衆は拍手万来で応えたのを覚えている。
毎日、マシンやダンベルを使っての筋トレとストレッチ、水中歩行などの3時間、それに、家の裏山を歩くこと2時間、その姿の写真が掲載されていて、病床で、勘十郎から渡され握りしめろとアドバイスされたソフトボールに、「足遣いからでもいいから、もう一度舞台に復帰したい」と言う一念で書いた、たどたどしい足と言う字の滲んだぼこぼこになったボールを今も大切に持っているようだが、このボールの写真が苦闘のすべてを物語っている。
幸い、簑助復帰後、暫く、先代玉男が健在であったので、玉男・簑助黄金コンビの至芸を楽しむことが出来て幸せだと思った。
玉男が逝った後、簑助が、仮名手本忠臣蔵の舞台で、大星由良助を遣った時には、大きな時代の流れを感じて、簑助健在の喜びを感じた。
この本では、第2章の「リハビリ交信」で、二人の闘病時期の往復書簡が掲載されていて興味深い。
私に興味深かったのは、第3章の「わが師わが友」。
簑助は、文五郎に入門して部屋子として同居していたが、文楽の人形遣いには、主遣い、左遣い、足遣いと三人の分業で完結していて、独立した役柄の修行など成立せず、三人の「呼吸」が要求され、自分で沢山の経験を積むしか道がなく師匠は何も教えてくれない。
ところが、師匠のおかみさんがやっていた「文の家」と言うお茶屋の二階に住んで居たので、頻繁に出入りする芸鼓たちの煙管に煙草の葉を詰める仕草など、女性たちの立ち居振る舞いが、その後の芸の手本になって大いに役に立ち、弟子たちに「芸は見て覚えろ」と口を酸っぱくして言っているのだと言う。
「新口村」の舞台で、紋十郎の足遣いしていた自分が、忠兵衛を遣うことになって、紋十郎の梅川を、位負けして、しっかり抱き寄せられなくて、「抱くのや、抱かんか!」と怒鳴られたと言う話も、簑助でさえそうかと思わせて面白い。
このパートで興味深いのは、文楽人形制作者の大江巳之助との交友録と、人形の首への思い入れとその秘密の開陳。
それまで、天狗弁や天狗久の作った名作と言う首があるが、その首では、昭和、平成の文楽には合わず、文楽と言う伝統芸能は、時代の流れに沿って、観客と舞台の三業と共に流れていて、今の時代の観客や、太夫の声、人形遣いの演技には、大江巳之助の首しか合わないのだと言う。
これは、世阿弥の頃の面もあると言う、歴史と伝統のある名作の古面を珍重する能狂言とは違った、文楽の古典芸の特質を語っているようで非常に興味深い。
人形遣いは、自分の人形には熟知しているが、自分では遣っている人形の顔は見えない。自分の遣った人形の首を撮った写真を見て、演じていた以上に哀れさなどを表現していて、自分ながらビックリする。これは、大江巳之助の首のなせる業だと言う。
平成9年に巳之助は逝った。
「大江の前に大江なく、大江の後に大江なし」と結んでいる。
簑助の話だけで、レビューが終わったしまったが、この本は、山川静夫が主体で構成したようで、山川静夫についても、勿論、非常に興味深い話が綴られている。
観客の一人として、山川静夫と同じような視点で、見ているような気もしたので、簑助だけの印象記にとどめた。