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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」(4)共産主義は宗教なのか

2017年09月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「サピエンス全史」の下巻は、人類の統一の後半から、「科学革命」、そして、とうとう、神になった(?)サピエンスへの警鐘へと辿る後半で、極めて、身近な歴史なので興味深い。
   結論に行く前に、ハラリの宗教説について、面白いと思ったので、考えてみたい。  
   ハラリは、宗教的ではない東ヨーロッパ系のユダヤ人家庭で育ったと言うことだが、ユダヤ人としては、他宗に対して、非常に客観的と言うか一歩距離を置いて、宗教を語っており、偏見なく歴史を論じている感じを受けた。

   ソ連の共産主義も、ナチズムも、キリスト教などと、何ら変わらない宗教だったと意表を突くようなことを言う。

   イスラム教は、世界を支配している超人間的な秩序を、万能の創造主である神の命令とみなすのに対して、共産主義者は、神の存在を信じていなかったのだが、同じ宗教の仏教も、神々を軽視している。
   仏教徒と同様、共産主義者も、人間の行動を導くべきものとして、自然の普遍の法則と言う超人間的秩序を信じている。
   仏教徒は、その自然の法則が、釈迦によって発見されたと信じているのに対して、共産主義はその法則が、マルクスやエンゲルスやレーニンによって発見されたと信じている。
   共産主義にも、マルクスの「資本論」のような経典があり、革命記念日などの祝祭日があり、どの部隊にも従軍牧師がおり、共産主義にも、殉教者や聖戦、トロッキズムの様な異端説もある。
   ソ連の共産主義は、狂信的で宣教を行なう宗教だ。と言うのである。

   ハラリは、キリスト教やイスラム教やユダヤ教は、神あるいはそれ以外の超自然的存在に対する信仰に焦点を当てた宗教だが、仏教やジャイナ教や道教、ストア主義やキニク主義、エピクロス主義は、神への無関心を特徴とする全く新しい種類の宗教で、世界を支配している超人的秩序は神の意志や気まぐれではなく自然法則の産物であると区別している。
   信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくと言う神不在のイデオロギーに区分することが出来るが、そうすると、一貫性を保つためには、仏教や道教、ストア主義などいくつかの宗派は、宗教ではなくイデオロギーに「分類差ざるを得ない。と言うのである。

   その前に、ハラリは、
   近代には、自由主義や共産主義、資本主義、ナチズムと言った、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これは言葉の綾に過ぎない。もし、宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソ連の共産主義も、イスラム教と比べて、何ら遜色のない宗教だ。と言っている。
   ハラリは、交易と帝国と普遍的宗教のお陰で、すべての大陸の事実上すべてのサピエンスが、今日我々が暮らすグローバルな世界に到達したとして、その原動力であった宗教を論じているのだが、宗教とは、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系だと言う。

   そのような括り方をすれば、宗教とイデオロギーの境界が曖昧になるのみならず、我々が考えているキリスト教やイスラム教や仏教と言った高等宗教の意味合いが、一気に変わってきて混乱を来すのだが、この点は、私には埒外の議論なので、定義の差だと思っている。
   しかし、ハラリの問題意識は、宗教論議よりも、もっと本質的な問題、今日主流となっている自由主義の人間至上主義の信条と、生命科学の最新の成果との間に、巨大な溝が口を開けつつあり、無視し得なくなってしまったと言うことである。
   自由主義的な政治制度や司法制度は、誰もが不可分で変えることが出来ない神聖な内なる性質を持っているという信念に基づいており、その性質が世界に意味を与え、あらゆる倫理的権威や政治的権威の源泉になっていた、各個人の中に自由で永遠の魂が宿っていると言う伝統的なキリスト教の信念の生まれ変わり、過去200年間に、生命科学は、この信念を、徹底的に切り崩してしまった。と言うのである。

   生命科学と法科学や政治科学とを隔てる壁を、我々人類は、どれほど維持することが出来るのか、
   今や、科学を駆使して、神になりつつあるサピエンスの将来はどうなるのか、
   ハラリは、深刻な問題提起を、最終章で展開していて非常に興味深い。
   
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