今日は、朝から夜まで、文楽鑑賞で過ごした。
非常に意欲的なプログラムなので、初日のチケットを取り、一日中、国立小劇場で過ごしたのだが、連日殆ど満席だと言うことからも、言うまでもなく素晴らしい舞台の連続で、楽しませてもらった。
昼と夜とには分かれてはいるのだが、「生写朝顔話」「 玉藻前曦袂 」ともに、殆ど通し上演なので、歌舞伎などでも見てはいるが、ミドリ公演なので、迫力と物語としての奥深さといった感激は格段の差で、強烈な印象を残す。
第一部の「生写朝顔話」だが、宇治川の蛍狩りで、儒学修業中の若侍宮城阿曾次郎(玉男)に恋に落ちた家老秋月弓之助の娘深雪(一輔、後に、簑助、名前が朝顔に変わって、清十郎)の、運命の皮肉に翻弄されながらも必死に生き抜いて行く純愛がテーマである、悲しく切なくも珠玉のように美しい物語である。
常識的に考えれば、深雪の溢れんばかりの恋情を痛いほど知っていて自分も恋している阿曾次郎の方が、何らかの積極的なアクションを取れば、ハッピーエンドになる筈だが、そこは、雁字搦めに縛られた宮仕えの武士の悲しさで、歯車が狂って、どんどん、すれ違いの悲劇が続く。
縁談話が飛び出して、その相手が、名前を変えた阿曾次郎であることを知らずに拒絶して、阿曾次郎一途の思いを胸に抱いて家を出奔するのだが、艱難辛苦に目を泣きつぶして、三味線を弾いて街道筋を乞食同然の姿で旅する運命の皮肉が悲しい。
道成寺の「日高川」の舞台を思わせる狂乱状態の深雪の「大井川の段」のラストシーンでは、奇跡的に両眼が開くなどハッピーエンドを匂わせて終わるのが、せめてもの救いであろうか。
悲劇のヒロイン深雪、そして、朝顔を遣う一輔、簑助、清十郎の3人の人形遣いの素晴らしさが、物語の感動を増幅して素晴らしい。
その深雪に影となり日向となり付き添うのが健気な乳母浅香で、人間国宝となった和生が、師匠文雀譲りの格調高い風格のある人形を遣っていて、感動的である。
特に、この口絵写真で国立劇場のHPの写真を借用させてもらった「浜松小屋の段」での、盲目の辻芸人に落ちぶれた簑助の遣う深雪との再会場面で、呂勢太夫と清治の肺腑を抉るような悲哀と慟哭の義太夫に乗って演じた、哀切極まりない命の交感の発露とも言うべき舞台。
何故か、清治の三味線が、ふっと、琴の音色に変わったような一瞬を感じて、感動しきりであった。
簑助の人形は、正に至宝、一挙手一投足の動きに目を凝らして鑑賞しているのだが、この深雪と浅香の感動的な再会シーンは、この舞台での白眉ではないかと思っている。
女形の一方の旗頭清十郎の朝顔も、正に、感動もので、辻芸人に落ちぶれた朝顔が、座敷に呼ばれて芸を披露し過ぎ越し日々を述懐したので、武士の手前、深雪と知りながら名乗れない夫の優しい言葉が気になって引き返し、その後、真実を知って、駒沢を追って、大井川へこけつ転びつ突っ走るラストシーンまでだが、悲劇のヒロインの面目躍如である。
もう一つ、印象的な場面は、「嶋田宿笑い薬の段」で、悪徳医者萩の祐仙を遣った勘十郎の素晴らしい舞台で、この物語の筋には殆ど関係がないちゃりばなのだが、捧腹絶倒と言うか、それを、唯一のキリバ語りの咲太夫と三味線の燕三が醸し出す浄瑠璃の凄さも抜群で、正に、文楽の独壇場のシーンの連続である。
この萩の祐仙は、勘十郎の実父で先代の人間国宝勘十郎の得意芸だったと山川さんが語っているのだが、芸の継承と言うこともあろうが、勘十郎は、このようなちゃりばやズッコケた、あるいは、型破りの庶民など端役とも言うべきキャラクターをも、実に上手く感動的に遣う。
今回も、後の「 玉藻前曦袂 」の「七化け」で遣った座頭のひょうひょうとした姿も面白かったし、立役女形のタイトルロールは言うに及ばず、どんな人形でも、自由自在に遣う実力の冴えは、末恐ろしいものがある。
この笑い薬の段だが、駒沢次郎左衛門(宮城阿曾次郎と同一人物)を亡き者にしようとする岩代多喜太(玉志)が、萩の祐仙と語らって、しびれ薬を洩った茶を点てて毒殺しようとするのだが、それを立ち聞きした宿の主人戎屋徳右衛門(勘壽)が、しびれ薬を笑い薬に差し替えて起こる悲喜劇である。
人形だから演じ分けられる、舞台所狭しと七転八倒、笑い転げて必死に笑いを堪えようと悪戦苦闘する祐仙の人形も見ものだが、目を閉じて、アハハハ、ヒヒヒヒ、暫くお待ちくだされ、ホホホ、ヘイヘイ、アハハハ・・・と、到底真似のできないような口調で語り続ける咲太夫の表情も格別で、その間、三味線の燕三は音なしの構え。
この祐仙、神妙に茶を点てて仕上げを御覧じろとほくそ笑むも、密かに毒消しを飲んで、毒見試飲を引き受けたは良いが、何が何だか分からない拍子に、笑い魔に魅入られて正体なく醜態をさらすと言う落差の激しさが、観客を喜ばせて、爆笑の渦。
藪医者然とした剽軽で惚けた表情の大江已之助が彫った首「祐仙」が、素晴らしいので、益々、滑稽さを増す。
とにかく、お家騒動を隠し味にした、悲劇のラブロマンスながら、ちゃりばあり、現在にも十分通用する、実に、モダンな4時間弱の素晴らしい舞台で、楽しませて貰った。
更に、次の第二部は、勘十郎の狐が暴れまわって、宙乗りまでして中空に消えて行く「玉藻前曦袂」。
能の「殺生石」の文楽バージョンだが、物語性が豊かになって、更に、面白い。
この文楽、1日、どっぷりと観劇堪能しても、合計14000円。
歌舞伎座の夜昼を観劇すれば、席種にもよるが、その半分であるから、舞台の質は当然遜色なく、コストパーフォーマンスは極めて高い。
尤も、チケットは、ソールドアウト。
世界遺産である文楽の文化価値を評価できずに、補助金をぶった切った橋元元知事は、どう思うか、敵が恩人となったケースかも知れないと考えると面白い。
非常に意欲的なプログラムなので、初日のチケットを取り、一日中、国立小劇場で過ごしたのだが、連日殆ど満席だと言うことからも、言うまでもなく素晴らしい舞台の連続で、楽しませてもらった。
昼と夜とには分かれてはいるのだが、「生写朝顔話」「 玉藻前曦袂 」ともに、殆ど通し上演なので、歌舞伎などでも見てはいるが、ミドリ公演なので、迫力と物語としての奥深さといった感激は格段の差で、強烈な印象を残す。
第一部の「生写朝顔話」だが、宇治川の蛍狩りで、儒学修業中の若侍宮城阿曾次郎(玉男)に恋に落ちた家老秋月弓之助の娘深雪(一輔、後に、簑助、名前が朝顔に変わって、清十郎)の、運命の皮肉に翻弄されながらも必死に生き抜いて行く純愛がテーマである、悲しく切なくも珠玉のように美しい物語である。
常識的に考えれば、深雪の溢れんばかりの恋情を痛いほど知っていて自分も恋している阿曾次郎の方が、何らかの積極的なアクションを取れば、ハッピーエンドになる筈だが、そこは、雁字搦めに縛られた宮仕えの武士の悲しさで、歯車が狂って、どんどん、すれ違いの悲劇が続く。
縁談話が飛び出して、その相手が、名前を変えた阿曾次郎であることを知らずに拒絶して、阿曾次郎一途の思いを胸に抱いて家を出奔するのだが、艱難辛苦に目を泣きつぶして、三味線を弾いて街道筋を乞食同然の姿で旅する運命の皮肉が悲しい。
道成寺の「日高川」の舞台を思わせる狂乱状態の深雪の「大井川の段」のラストシーンでは、奇跡的に両眼が開くなどハッピーエンドを匂わせて終わるのが、せめてもの救いであろうか。
悲劇のヒロイン深雪、そして、朝顔を遣う一輔、簑助、清十郎の3人の人形遣いの素晴らしさが、物語の感動を増幅して素晴らしい。
その深雪に影となり日向となり付き添うのが健気な乳母浅香で、人間国宝となった和生が、師匠文雀譲りの格調高い風格のある人形を遣っていて、感動的である。
特に、この口絵写真で国立劇場のHPの写真を借用させてもらった「浜松小屋の段」での、盲目の辻芸人に落ちぶれた簑助の遣う深雪との再会場面で、呂勢太夫と清治の肺腑を抉るような悲哀と慟哭の義太夫に乗って演じた、哀切極まりない命の交感の発露とも言うべき舞台。
何故か、清治の三味線が、ふっと、琴の音色に変わったような一瞬を感じて、感動しきりであった。
簑助の人形は、正に至宝、一挙手一投足の動きに目を凝らして鑑賞しているのだが、この深雪と浅香の感動的な再会シーンは、この舞台での白眉ではないかと思っている。
女形の一方の旗頭清十郎の朝顔も、正に、感動もので、辻芸人に落ちぶれた朝顔が、座敷に呼ばれて芸を披露し過ぎ越し日々を述懐したので、武士の手前、深雪と知りながら名乗れない夫の優しい言葉が気になって引き返し、その後、真実を知って、駒沢を追って、大井川へこけつ転びつ突っ走るラストシーンまでだが、悲劇のヒロインの面目躍如である。
もう一つ、印象的な場面は、「嶋田宿笑い薬の段」で、悪徳医者萩の祐仙を遣った勘十郎の素晴らしい舞台で、この物語の筋には殆ど関係がないちゃりばなのだが、捧腹絶倒と言うか、それを、唯一のキリバ語りの咲太夫と三味線の燕三が醸し出す浄瑠璃の凄さも抜群で、正に、文楽の独壇場のシーンの連続である。
この萩の祐仙は、勘十郎の実父で先代の人間国宝勘十郎の得意芸だったと山川さんが語っているのだが、芸の継承と言うこともあろうが、勘十郎は、このようなちゃりばやズッコケた、あるいは、型破りの庶民など端役とも言うべきキャラクターをも、実に上手く感動的に遣う。
今回も、後の「 玉藻前曦袂 」の「七化け」で遣った座頭のひょうひょうとした姿も面白かったし、立役女形のタイトルロールは言うに及ばず、どんな人形でも、自由自在に遣う実力の冴えは、末恐ろしいものがある。
この笑い薬の段だが、駒沢次郎左衛門(宮城阿曾次郎と同一人物)を亡き者にしようとする岩代多喜太(玉志)が、萩の祐仙と語らって、しびれ薬を洩った茶を点てて毒殺しようとするのだが、それを立ち聞きした宿の主人戎屋徳右衛門(勘壽)が、しびれ薬を笑い薬に差し替えて起こる悲喜劇である。
人形だから演じ分けられる、舞台所狭しと七転八倒、笑い転げて必死に笑いを堪えようと悪戦苦闘する祐仙の人形も見ものだが、目を閉じて、アハハハ、ヒヒヒヒ、暫くお待ちくだされ、ホホホ、ヘイヘイ、アハハハ・・・と、到底真似のできないような口調で語り続ける咲太夫の表情も格別で、その間、三味線の燕三は音なしの構え。
この祐仙、神妙に茶を点てて仕上げを御覧じろとほくそ笑むも、密かに毒消しを飲んで、毒見試飲を引き受けたは良いが、何が何だか分からない拍子に、笑い魔に魅入られて正体なく醜態をさらすと言う落差の激しさが、観客を喜ばせて、爆笑の渦。
藪医者然とした剽軽で惚けた表情の大江已之助が彫った首「祐仙」が、素晴らしいので、益々、滑稽さを増す。
とにかく、お家騒動を隠し味にした、悲劇のラブロマンスながら、ちゃりばあり、現在にも十分通用する、実に、モダンな4時間弱の素晴らしい舞台で、楽しませて貰った。
更に、次の第二部は、勘十郎の狐が暴れまわって、宙乗りまでして中空に消えて行く「玉藻前曦袂」。
能の「殺生石」の文楽バージョンだが、物語性が豊かになって、更に、面白い。
この文楽、1日、どっぷりと観劇堪能しても、合計14000円。
歌舞伎座の夜昼を観劇すれば、席種にもよるが、その半分であるから、舞台の質は当然遜色なく、コストパーフォーマンスは極めて高い。
尤も、チケットは、ソールドアウト。
世界遺産である文楽の文化価値を評価できずに、補助金をぶった切った橋元元知事は、どう思うか、敵が恩人となったケースかも知れないと考えると面白い。