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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場・文楽・・・伊賀越道中双六~沼津の段

2009年09月22日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「伊賀越道中双六」は、荒木又右衛門の伊賀上野鍵屋の辻での仇討ちを題材にした浄瑠璃だが、東から西へ東海道を上りながらの舞台展開で、「東路に、ここも名高き、沼津の里。」で始まる「沼津の段」が、今回の演目。
   非常に地味なお話がテーマだが、昔から名作の呼び声高く、今回も、人間国宝の住大夫と綱大夫が語り、簔助が、呉服屋十兵衛を遣うと言うので、連日満員御礼、とにかく、話題の「テンペスト」人気も霞む勢いである。

   二十年ぶりに再会した親子が、親兄妹と分かり、仇討ちのための義理人情の柵に、父親の死出の別れで幕を閉じるという悲痛な舞台だが、仇討ち側に立つ親の平作を勘十郎が、その娘(十兵衛の妹)お米を紋寿が遣い、非常に密度の高い舞台を見せてくれて感動的である。
   あまりにも偶然が重なり過ぎて、出来すぎたと思えるような近松半二の最後の芝居だが、話術の上手さと畳み掛けるような話の展開が巧みで、それ程気にならないのが不思議である。

   街道を通りがかった商人十兵衛が、荷物担ぎの老人平作から、今日は一銭の稼ぎもないのでと呼び止めて荷物を担がせるのだが、よろよろして倒れて足を怪我する。妙薬を塗って治療し、老人の家に一緒に行く。鄙にも稀な色気のある魅力的な娘(そうであろう、元は人気絶頂の江戸の遊女で、仇討ちをしようとする志津馬の実質的な妻である)を見て、一夜の宿りを決める。
   十兵衛は、老人の述懐で親子であることを悟る。逗留中の志津馬の傷を治したい一心で、お米が、寝ている十兵衛の妙薬の入った印籠を盗もうとしてばれる。妹の苦衷を察して、貧しい生活を助けるために、石塔寄進に事寄せて金包みと、それとなく、印籠を残して、十兵衛は、旅に立つ。
   印籠が敵沢井股五郎のものであること、そして、紙包みに、我が子に残した書付が入っているのを見て、二人は、十兵衛が、敵側にいる我が子であることを知る。
   敵股五郎の行方を聞き出すため平作は後を追い千本松原で追い着く。十兵衛は口を割らない割れないので、切羽詰った平作は、十兵衛の脇差を抜いて切腹する。
   意を決した十兵衛は、虫の息の平作を抱きしめて親子の名乗りを遂げ、死んで行くこなた様への餞別、今際の耳によう聞かつしゃれやと、そばに潜んで聞き耳を立てているお米に聞こえるように、「股五郎の落ち行く先は九州相良、九州相良。道中筋は参州の吉田で逢ふた、と人の噂」と叫ぶ。

   仇討ちそのものが、家族の絆、親子の切っても切れない縁が生み出す人間の掟であり柵であり、それに纏わる主従縁者たち関係者が義理と人情で巻き込まれる人間模様なのだが、この「沼津の段」には、その最も重要な親子の悲劇がテーマとなっており、実際の仇討ちの当事者ではないだけに、人生の無常、悲劇を浮き彫りにしている。
   十兵衛にしてみれば、信義が財産である江戸の一流の商人であり、恩義あるクライアントに対する守秘義務は当然であるのだが、死を賭けて訴える老いた父親の娘を思う愛情と迸り出る親子の絆に動かされて涙を呑む。
   親父であることを悟った平作も、お米が十兵衛を追っかけて敵の在処を聞き出すと意気込むのを、押し止めて、「われではいかぬわい。年寄ったれどもこの平作。理を非に曲げても云わせてみせう。」と代わりに後を追うのだが、血を分けた親子の切っても切れない情愛と絆の深さを知り抜いての心情吐露。死を賭しての親子の絆を確かめながら昇華する激情を幕切れとする半二の芸の冴も流石である。

   この舞台で、一服の清涼剤は、お米の登場。
   最初は、お米のいい女ぶりに十兵衛は一寸惹かれるのだが、実の妹と知って、よくここまで育ってくれたと言う思いと、その女ぶりに安著を覚えて愛しさが増す。
   このあたりの、簔助の水も滴るいい男ぶりの十兵衛の心の綾や揺らぎを実に上手く表現しており、それに、応えて、紋寿のお米が、田舎娘と元遊女の色気と女らしさを匂わせて爽やかな舞台を演出していて感動的である。

   簔助の立ち役は、玉男とは大分ニュアンスが違うが、オーソドックスながら微妙な心の綾とニュアンスを鏤めた、考え抜かれた人形の動きと表情が気に入っており、何時も楽しみにしている。
   紋寿は、「文楽・女形ひとすじ」を読んでから、益々、ファンになったのだが、正に燻銀のような職人芸の極地と言ったような女形の人形表現に感激している。今回、鬢の白さに年季を感じて見ていた。
   主人公の平作の勘十郎だが、冒頭の老いた担ぎ屋人夫の表情から芸の細かさは秀逸で、人形だから出せるしみじみとした老いの哀感を上手く表現していて心憎い程で、大詰めの死に行く結末まで、両先輩の至芸に伍して素晴らしい平作像を創り出している。

   ところで、やはり、感動的なのは、人間国宝の語る浄瑠璃と三味線・胡弓の素晴らしさ。このような人間の奥底に脈打つ心の襞を感動的に語るためには、積み重ねた人生の年輪が、異彩を放つのであろう。
   この沼津は、住大夫が、「こんな結構な浄瑠璃をやらせてもろうて、大夫冥利につきます。」と云う位の舞台で、謂わば、18番中の18番と言うのだから、その熱演は、正に、至芸の極地。
   冒頭の街道筋の軽妙なタッチの綱大夫の語りから感動もので、私など、大夫の浄瑠璃を、心して聴こう聴こうとしていたのだが、いつの間にか、忘れてしまって人形を追っかけている状態であった。
   それ程、浄瑠璃語りと音曲が、自分の体と共鳴して一体となってしまって忘れるほど聞き込んでしまうのも珍しいが、恐らく、今現在、最高峰の文楽の舞台だと思う。
 
   学生時代に、芭蕉の故郷を訪ねて伊賀上野を何度か訪れた。
   町外れに、荒木又右衛門の仇討ちの場・鍵屋の辻の故地があり、しばらく、涼風に吹かれて佇んでいた。懐かしい青春時代の思い出である。
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