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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

幻のピアニスト・スヴャトスラフ・リヒテル・・・バシュメットが語る

2006年01月24日 | クラシック音楽・オペラ
   世界最高のビオラ奏者ユーリー・バシュメットが著した「バシュメット/夢の駅」と言う本を読んだ。
   ロシアの偉大な音楽家の生活などの逸話を鏤めた随想録的な自伝であるが、鉄のカーテン前後のロシアの音楽事情が具に語られていて面白い。

   何回か機会があったが、残念ながら、まだ、彼の演奏会に出かけたことがないのだが、語られているオイストラッフ、リヒテル、ロストロポーヴィッチ、ギレリス、コーガン、クレーメル、ギルギエフ等の演奏会には出かけていて、実際のその音楽を聴いているので大変興味深く読ませてもらった。

   知らなかったがバシュメットは、スビャトスラフ・リヒテル夫妻と極めて親しく交際していて、その20世紀最高のピアニスト・リヒテルについて多くを語っていて、それが実に興味深い。

   リヒテルの名声は世界に知れ渡っていたが、ソ連政府の政策によって許されず、初めて西の世界にお目見えしたのは、1960年、それも、隣のフィンランドだけで、既に45歳になっていて、正に、幻のピアニストであった。
   その年の晩秋にニューヨークに現れ、ニューヨークタイムズが、「来た、見た、勝った」と「世界で最も偉大なピアニスト」と報じた。

   日本には、10年遅れて1970年に来日した。
   確か、東京文化会館だったと思うが、リサイタルを聴きに行った。
   最後に、リヒテルを聴いたのは、1992年か3年で、ロンドンのサウスバンクであった。一度キャンセルされて、2度目に実現したのである。
   舞台は真っ暗で、リヒテルの前のピアノの鍵盤と楽譜だけにスポットライトがあたっていて、最初に東京で見た豪快なタッチの演奏とは違った、何か枯れたしみじみとした音色になっていたような気がする。
   1997年に、モスクワで亡くなっていて、ウクライナ生まれで実際はドイツ人でありながら最後まで亡命しなかった偉大なソ連のピアニストであった。

   バシュメットが、リヒテルから声をかけられたのは、学生オーケストラとのバッハの協奏曲を練習中に2回も、一緒にショスタコーヴィッチのソナタを演奏しないかと誘われた時だと言う。
   楽譜を持って来いと言われて、リヒテル家で練習が始まるのだが、リヒテルのテンポが遅すぎた。ショスタコーヴィッチのメトロノームは壊れていたのだが、楽譜どおりに弾くのかとリヒテルに聞かれたとか、しかし、リヒテルは、何度も演奏しているバシュメットの提案を聞いて素晴しい音楽を作り上げたと言う。
   リヒテルは、何時も、決して手抜きせず全力投球だったと言う。

   スイスで、世界最高のヴァイオリニストと信じているオイストラッフとベートヴェンのヴァイオリン・ソナタの演奏会があった時、スイスの反ソ感情のためオイストラッフのヴィザが下りないかったのでリヒテルはリサイタルも拒否したと言う。
   また、カメラ嫌いで有名で、カメラマンが入っていたので、パリの演奏会場から帰ってしまった。女性エージェントが水溜りに跪いて懇願したので会場に帰って演奏した。演奏後、カメラマンが観客に袋叩きになっているのを知り、リヒテルが助けた、そんな逸話もある。

   バシュメットを、カラヤンがベルリン・フィルの主席ビオラ奏者に迎えたい旨の申し出をソ連文化省に出したが、友好国でないので怒って、フランスで予定されているリヒテルとの演奏会で出国しなければならないのにをパスポートを取り上てしまった。
   リヒテルは、ソ連政府に、バシュメットの出国を拒否するのなら、この先2年間はモスクワで演奏しない、と抗議したので事なきを得たと言う。

   弘法ではないが、ヤマハ・ピアノを愛したリヒテルだが、ピアノはどんなものでも良く、自身をピアノに合わせるので、本番前のサウンドチェックも必要なかったと言う。
   ギドン・クレーメルも、グアルネリからストラディバリュースに変えたときも、いずれ、同じ音色になると言っていたが、超人とはそんなものであろう。

   一日の練習時間は平均5時間で、その日に消化できなければ次にその分プラスして練習する。ピアノの練習かパーティか仮想行列かゲームか悪ふざけなども好きでとにかく休むことがなかった。神々しいまでに美しいショパンのエチュードと言って変ホ短調練習曲を涙を流しながら弾いた。
   リヒテルに君言葉で話そうと言われたが、決してリヒテルに君と言えなかったバシュメットも素晴しい。

    死の直前、バシュメットは、リヒテルの希望で、奥方と3人で30キロ以下の速度で車を走らせながら、村の教会を2時間以上も回ってドライブしたと言う。
   別れ際、玄関口で、リヒテルは、バシュメットに別れの挨拶をするために、中々家の中に入らなかったので、もう一度戻って抱き合ったが、それが永久の別れになったと言う。
   
   とにかく、まだまだ、胸を打つ話が続くが、外国での演奏旅行中演奏会後にバシュメットに先約があって夕食を一緒に出来なかった時、ホテルに帰ったら部屋に行くと言って出て、朝の4時半に帰ったので起こすのは悪いと思って翌朝行ったら、リヒテルは6時まで寝ずに待っていたのだと言う話もあった。

   ところで、この偉大なリヒテルは、後に、ゲーンリフ・ネイガウスに師事するが、実際は、独学でピアニストとして大をなしたのである。作曲も、指揮も、そして、絵を描くこともすべて独学で、もし、これ等のどれかに専念していたら、ピアニストと同様の名声を博していたと言う程の実力があったのである。
   しかし、バシュメットに、何故、指揮をしないのかと聞かれて、ピアニストとしてもっと勉強しなければならないので時間がないと言ったと言う。

   私が思っていたように、リヒテルもオイストラッフもロストロポービッチもソ連でも大変偉大な音楽家であり、そのように遇されながらも、バカな政治に翻弄されながら数奇な人生を送っていたことを改めて知った。

   私の手元には、リヒテル等3人のレコードやCDが結構沢山ある。
   カラヤン指揮ベルリン・フィルでこれ等の3人が独奏するベートーヴェンの三重協奏曲があり、これを私は一番良く聴いたが、素晴しい遺産を残してくれたと思っている。

(追記)音楽関係の素晴しい本を出している「アルファベータ社」のこの本、小賀明子さんの訳も素晴しい良い本である。 2400円+税
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