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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

「世界一正直な街」はヘルシンキ? 財布を落として実験

2013年09月25日 | 海外生活と旅
   CNNが、世界各地の都市でわざと財布を落とし、拾い主が届けてくれるかどうかを試してみたら――。米誌リーダーズダイジェストがこんな実験で市民の「正直さ」を比較しランキングを発表した。と報じている。

   世界の16都市でそれぞれ12個ずつ、公園や歩道、ショッピングセンターの近くなどに財布を落としておき、拾った人がどうするかを見届けた。財布には50ドル分の現金と携帯電話の番号、名刺、クーポンと家族写真を入れた。
   計192個の財布のうち、返却されたのは90個。都市別ではフィンランドのヘルシンキがトップで、12個中11個が返ってきた。2位はムンバイの9個、3位にはハンガリー・ブダペストとニューヨークが8個で並んだ。
   最下位はポルトガル・リスボンで、1個しか返却されなかった。しかもその1個を拾ったのは地元住民ではなく、オランダからの旅行者だった。と言うのである。

   財布を返すかどうかを年齢や性別、外見上の貧富などから予測することは難しく、「どの都市にも正直な人とそうでない人がいる」という結論が出た。と言うことだが、因みに、16都市のランキングは次のとおりである。
   16都市のランキングと戻ってきた財布の数
   ◇
1.フィンランド・ヘルシンキ(11)
2.インド・ムンバイ(9)
3.ハンガリー・ブダペスト(8)
3.米ニューヨーク(8)
5.ロシア・モスクワ(7)
5.オランダ・アムステルダム(7)
7.ドイツ・ベルリン(6)
7.スロベニア・リュブリャナ(6)
9.英ロンドン(5)
9.ポーランド・ワルシャワ(5)
11.ルーマニア・ブカレスト(4)
11.ブラジル・リオデジャネイロ(4)
11.スイス・チューリヒ(4)
14.チェコ・プラハ(3)
15.スペイン・マドリード(2)
16.ポルトガル・リスボン(1)

   残念ながら、東京が調査の中に入っていないのだが、滝川クリステル嬢が、ブエノスアイレスの東京オリンピック招致演説で、落とした現金が必ず返って来る安心安全な都市だと言っていたように、ダントツの一位だってであろう。

   ところで、非常に恣意的で独断と偏見が強くなって書くべきではないとは思うのだが、私自身の正直な感想を綴ってみたいと思う。
   私自身が、一度も行ったことのない都市は、ムンバイ、モスクワ、リュブリャナ、ワルシャワ、ブカレストの5都市で、これらについては、本来、コメントすべきではないかも知れない。

   しかし、私が最初に注目したのは、ムンバイの2位で、インドと言う国に対する先入観が強すぎる所為もあってか、最貧層が最も多くて深刻な都市問題を抱えている筈のインドの大都市ムンバイが、これ程の好成績を挙げていると言うのは、意外であった。
   ヘルシンキの1位は、良く分かるし、半数以上が返って来たニューヨークやモスクワ、アムステルダムについても、まず、異論はない。
   ロンドンには、5年も住んでいたので、5つしか返って来ないと言う現実は、何となく分かるような気がしている。
   スイスのチューリッヒが、非常に悪い結果であるのには、一寸、驚いている。
   マドリードとリスボンが最低なのは、まず、現在、経済的にも、EUの中で最も困窮を極めている国であり、それに、平時でも、これまで、旅行者にとっても危ない最も注意すべき都市であったことを考えれば、仕方のない結果ではないかと思う。

   興味深いのは、東欧の都市の結果が上下に分散していることで、国境を接しているハンガリーのブダペストとチェコのプラハが、何故、これ程、差がつくのかは、私には分からない。
   ハンガリーの方が、民主化は早かったが、チェコは、元々、最も工業化が進んでいた民度の高い国であったし、甲乙付けがたい程、東欧では、優等生であり、両都市とも、世界で最も美しい都市として観光客の憧れでもある。

    
   尤も、場所の選び方にも問題があろうし、僅か、12か所で財布を落としての調査であるから、至って信憑性の危うい調査なので、これで、都市の正直度や安全度を測られては、たまったものではないが、面白いと思ったので、コメントして見た。
   

(追記)口絵写真は、トップのヘルシンキ、最後の写真は、リスボンで、CNNの記事から借用した。
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トルコ中部カッパドキアでの女子大生事故に思う

2013年09月10日 | 海外生活と旅
   メディアの報道によると、新潟大の女子学生2人が、夏休みを利用してトルコに入国して、カッパドキアのゼミ渓谷を散策中に襲われた。現場は当時、人けがなかったとみられ、倒れている2人を別の観光客が発見して通報した。と言うことである。
   実に悲しい事件であり、被害にあわれたお二人そしてご家族の皆様には、心からお悔やみとお見舞いを申し上げたい。
   
   詳細が分からないので、何とも言えないが、私自身の経験や娘たちの海外旅行のケースなどを参考に、日本人の若者たちの海外旅行が、如何に、危険と隣り合わせの状態にあるかについて、私見を綴ってみたいと思う。

   結論から先に言うと、とにかく、日本人は、あまりにも恵まれた単一民族単一文化の日本と言う素晴らしい国に住んでいるので、異文化異文明、外国事情には全く免疫がなくて、どこもかしこも同じだと思って、日本にいるような感覚でものを考えて行動する、平和ボケだと言うのが最大の特徴であって、これが、外国で、あるいは、異文化との遭遇で、問題を起こす。
   滝川クリステル嬢がブエノスアイレスで世界に宣言したように、日本ほど、全土に渡って、安全安心の行き渡った国は、世界何処にもないと言うことを努々忘れてはならないのである。

   私自身、トルコは、イスタンブールに二回しか行っていないのだが、一度、仕事の関係で、イスタンブールから、タクシーで、マルマラ海沿いに回って、イズミットを経てプルサからかなり奥の田舎まで行ったことがある。
   カッパドキアは、奇岩で有名なトルコの観光地であるが、まだ、行ったことはない。   しかし、私のイスタンブールなどの観光地での経験では、トルコは、新興国とは言っても、まだまだ、文明世界と非文明の混在した環境で、それに、イスラム教国であると言う特殊性が絡んで、日本人が容易に溶け込めるような雰囲気ではないし、第一、不測の事態には、適切な対応は無理である。
   ハギア・ソフィアの大聖堂を訪れた時には一人だったので、カーペット商人に絡まれて振り切るのに大変な思いをしたし、とにかく、ヨーロッパの観光地を旅行するのとは違って、かなり、緊張感を要する。

   海外生活に完全に慣れ異文化の遭遇にも違和感を感じないくらいの人なら、まず、問題ないところであっても、何度か海外へ行った程度の若い女性が二人で、それも、全く違った国で、ガイドや地元の人の同行がなくて、今回のように人気のないところを歩くなどと言うのは、考えられない暴挙と言う以外にない。


   ヨーロッパが長かったので、その間に、多くの日本の若者の旅行者に会ったことがある。
   殆どは、観光地や美術館、劇場などで、大概は、女子学生など若い女性であったが、一人旅もかなり多かった。
   好奇心の強さと勇気に感心はしたものの、何処も危険に満ちていて、何時、不幸に遭遇するか分からないし、その防御ができるのか、私自身、そんな恐怖を絶えず感じながら海外生活を送っていたので、他人事ではなかった。
   比較的安全な、イギリスやドイツ、オランダなどと言う国では、それ程気にはならなかったのだが、イタリアやスペイン、ギリシャなど、男性旅行客でさえ、頻繁に被害にあっている国では、何でも見てやろう風の若い女性が多かったので、特に一人旅では、好奇心本位で無理をしないか、心配ではあった。
   

   ロンドンでは、何人かの友人や同僚の子女が旅行の途中に立ち寄ることがあったので、数日、預かることがあったが、大概二人旅の大学生で、大体、無難なスケジュールで動いていて、イギリスの場合には、無理をしなければ、問題はなさそうであった。
   それでも、深夜になっても、ウエストエンドの歓楽街でうろうろする日本の若い観光客が結構多かったのには、旅のハイテンションがなせる業か、眉を顰めざるを得なかった。

   中には、娘の大学の同級生だと言うことで、娘自身全く面識のない女学生が、ロンドンで泊めてくれと言うので、止む無く泊めたところ、言わなければ何日も居たり、また、アムステルダムの時には、失恋して男性を追っ駆けてヨーロッパに来て英語の研修を受けていて、同じ学校で娘と知り合って、娘の部屋にそのまま長逗留した女性もいたり、とにかく、よくも知らない女性をどう扱ってよいのか困ったことがあった。   
   もう一つ、アムステルダムへの帰途、KLMで会った夫人が、イスラエル人との結婚を反対された娘が、オランダに行って住んでいるので連絡を取ってくれと頼んだので、電話をしたら、その夜エルサレムへ飛ぶ寸前で、スキポール空港で二人は会えたが、止められなかったと言った経験もある。
   海外旅行の動機はともかく、色々な若い日本女性が、外国に憧れて旅をしている。
   しかし、ニュースにならないだけで、実際には、恐ろしい経験や事故に合っているケースは、かなりあるのではないかと思うのだが、どうであろうか。

   先日、イタリア人男性と結婚して長くイタリアに住んでいたハイセンスの女性に聞いたのだが、ローマなどに在住する若い日本女性が、結構いるようだが、必ずしも、しっかりとした目的を持って住んでいるのではなく、何となく、住み着いていると言う人が、かなり、いると言う。
   何かに憧れて、あるいは、日本に居辛くなって、イタリアに来たが、帰るに帰れないと言うのである。
   それに、仕事をするにしても勉強するにしても、あるいは、趣味に生きるとしても、一所懸命に、現地に溶け込んだ生活をしない限り、外国に住んでいると言うだけでは、海外経験は、何のプラスにならない筈である。

   私の娘の場合には、殆ど家族旅行で各地を回り、次女の英国での大学・大学院卒業を記念してアメリカと中国を回った時も、私が連れて歩いた。長女は、一度同級の女子大生とポルトガルとスペインを旅したことがあるが、英語も問題なく海外生活も長いし外国での教育も受けているので、十分注意して行かせたのだが、いずれにしろ、夫々、同居ないし単独で海外で生活していたので、自分自身で十分に注意して、身を持って危険予知を身に着ける以外にないと思いながら、細心の注意は怠らなかった。

   ところで、私自身、海外生活14年の経験者だが、これは、自分の希望も多少加味されたとしても、会社命令の留学であり赴任であり、幾分恵まれた海外生活ながら、それでも、望郷の念醒めやらず、異国で生活すると言うのは、楽しいことばかりではなく辛いことも結構多い。
   やはり、日本に住んでいて、時おり、計画を立てて、好きな時に好きな外国へ行くのが、一番良いと思うのだが、絶えず心しなければならないのは、日本ではない、異国なんだと言う認識を絶えず持って、旅の安全に心掛けることである。
   海外旅行は、楽しいであろうし有益ではあろうが、同じくらい、辛くて苦しいものでもあると言う思いを、頭のどこかに置いて置く必要があることも事実なのである。

   これまで、かなり、海外旅行について、辛口の私見を述べて来たが、私の本意は、ここになく、世界に飛び出すことが、如何に素晴らしいことであり、そこでの経験は、人類が営々として築き上げてきた文化文明の遺産の凄さ素晴らしさに感激感動することであり、どんな苦しい努力をしてでも、得るもの感じるものは、無限であると言うことである。
   この素晴らしい人間賛歌を感じることなく、人生を送ることが如何に無味乾燥であることか。
   私が、知盛の心境になり、「見るべきものは見つ」と何度か感じたのは、海外での経験であったことを記して、地球を歩くことは、愛することと同様に、人生における最も素晴らしいことの一つであることを、強調しておきたい。
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深夜、言葉の全く通じない異国で放り出されたらどうするか

2012年08月21日 | 海外生活と旅
   グローバル時代だと言うけれど、兎角、コミュニケーションは難しい。
   私など、米国製MBAだから、英語は、多少人様よりはましだと思うのだが、ドイツ語は、大学の教養で習った第二外国語のドイツ語と、ブラジル在住時に少し習ったポルトガル語くらいで、これが総ての知識だから、グローバルコミュニケ―ション能力など、極めて限られている。
   しかし、これで、私自身は、外国人を相手にして欧米他で仕事をして来たし、1泊以上した外国は、40ヵ国を越しており、チャルーズ王子やダイアナ妃とも話をしたし、結構大変な人物を相手に丁々発止の戦いをして来た。
   やれば、この程度の語学力でも、やれないことはないと思うのだが、しかし、全く、言葉の通じないところに放り出されて、やれと言われれば、全く自信はない。

   これは、もう、20年以上も前の経験だが、ハンガリーのブダペストで、それも、午前一時と言う全くの深夜に、一度昼にしか行ったことのない森の中の住宅の前で放り出されたことがある。
   提携先のハンガリー人エンジニア・プロツナーの家で、しこたま飲んで、タクシーで送り届けられたのだが、どう考えても、自分の記憶していた家と違うような気がした。
   エンジンをふかして去ろうとするタクシーを追っかけて必死の思いで止めたのだが、全くハンガリー語しか分からない運転手にどう話せばよいのか、困ってしまった。

   その前に、事情を説明しないと分からないが、その時は、ベルリンの壁が崩壊した直後のブダペストで、外国人が留まれるまともなホテルは総て外資系であって、外貨を持たないハンガリー人は予約さえ出来なかったので、プロツナーは、東京からの上司夫妻と私のための宿舎として、バカンスに出た友人の住宅を借りてくれていたので、そこに帰ったつもりだったのである。
   昼に案内されて、スーツケースなどを置いただけで、良く見ていないし家そのものも覚えていない。
   まして、当然、夜は送って貰えるものだと思っているし、上司夫妻とも同道なので、その家の住所さえ聞いてもいないし、たとえ聞いていたとしても、人跡まばらで外灯さえない深夜のブダペストの森の中で、訪ねる相手もいないし、当然、留守だから、目的の家に人がいるわけがない。
   それに、運悪く、いい気分になった上司夫妻は、プロツナー宅で泊まることとなり、私一人で、タクシーで送られたのだが、まさか、プロツナーがタクシーの運転手に嘘を言っている筈がないと思ったのだが、草木も眠る丑三つ時に、思い当たりのない家の玄関にキーを差し込んで、ガチャガチャ開けるわけには行かない。

   どのように説明したのか、全く記憶がないのだが、あの手この手を使って、とにかく、もう一度、プロツナーの家に帰ってくれと説得(?)した。どうにか分かったのか引き返してくれたので、既に外灯を消して寝静まっていたプロツナーを叩き起こして、事情を言って、もう一度、正確に、運転手に指示するように頼んだ。
   同じ家に引き返したのかどうか全く記憶はないが、キーを差し入れたらドアーが開いたので、運転手に礼を言って、家の中に入った。

   ところが、不思議なことに、昼に入った時には、点けた筈のない電気が、リビングに点いていて明々としている。
   見るともなく見ると、ソファーの上で、見知らぬ男が寝ている。
   バカンスに出た家族が寝ている筈がないし、万一、寝るのなら寝室で寝ている筈だし、まして、私たち以外の人間を泊めるのなら、事前に言っている筈である。
   明らかに招かれざる客のこの寝ている男を起して、トラブルになっては拙いので、とにかく、一部屋おいた隣の寝室に入って、部屋のカギをかけて寝ることにした。
   ベルリンの壁崩壊直後の混乱状態のブダペストの、それも森の中の深夜の一軒家で、見知らぬ異人と一緒、と言う万事休す状態だが、どう足掻いても、ここで夜をあかす以外に他に選択肢がない。

   図太くも、昼の疲れが出て寝てしまったのであろう。
   朝早く、外から声がするので出てみると、プロツナーと上司が庭から覗き込んでいる。
   心配しての訪問だろうが、プロツナーに、おかしな男が寝ていたぞ、と言うとびっくりしていたが、リビングに行ったら、もう、その男はいなくなっていた。

   いずれにしろ、これがインターナショナル・ビジネスなので、その後は、お互いに何もなかったかのように、それ以上、プロツナーとは何も話さなかったので、真相は藪の中である。
   ブダペストへは何回か来ていて、マネージャーとも馴染みだったので、その日から、米系のトップ・ホテルに移動した。
   ベルリンの壁の崩壊前後のハンガリーは、とにかく、混乱と激動に翻弄されていて、豪華絢爛たる議事堂内でネーメト首相に会ったかと思うと、うらぶれた廃墟のようなビルの片隅の執務室で大臣に会ったこともあり、とにかく、多くの苦難を生きて来た壁の向こうの世界は正に異次元の空間であった。
   しかし、20世紀の前半で成長の止まったような廃墟の様なブダペストではあったが、流石にハプスブルグの二重帝国の首都だけあって、破壊から免れたレストランの優雅さと洗練された美しさは正に特筆もので、時間の経つのが恐ろしいくらいに感動的であったのを覚えている。
   先のトラブルや、このような面白いと言うか、思いがけないような経験を、幾度となく繰り返しながら、少しずつ、ヨーロッパに馴染んで行ったような気がしている。

   たとえ言葉が分かっても、全く異質な文化と文明、そして、全く違った歴史などバックグラウンドを異にした人々といかにコミュニケートして理解し合えるのか、ICT革命で、情報や知識が爆発的に増えれば増えるほど、難しくなる。
   しかし、とにかく、言葉が通じなければ、話にも何も成らないことは事実で、グローバル時代に生きて行くためには、最低限度、それ相応の英語力くらいは、身に着けておかなければならないと言うことであろう。

   もう半世紀も前の話だが、英語が不自由な大阪の大会社の社長が(余談だが、同行者を連れて行く余裕など、当時の貧しい日本にはなかった)、ニューヨークで、オムレツを食べたくて、大阪弁でおむれつと言って注文したが、通じないので、椅子から立ち上がって、両手を横にしてバタバタはためかせて、お尻から卵をポトンと落とす仕草をして説明したと言う話を聞いたことがあるのだが、もう、そんな時代ではないと言うことである。コケコッコーと言ったのかどうかは聞いていないが、アメリカの雄鶏は、cock-a-doodle-dooと鳴くのなどは勿論知らなかったのであろうけれど、所変われば品変ると言う世界、とにかく、異国でまともに生きて行くと言うのも大変なのである。
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ダニー・ボイル:ロンドン・オリンピック開所式模型を発表

2012年06月13日 | 海外生活と旅
   朝のNHK BS1のワールドWAVEモーニングで、BBCが、ロンドン・オリンピックのオープニング・セレモニー会場の模型を放映したと報じていた。
   この口絵写真は、その冒頭で、ダニー・ボイルが、模型を覆っていた白布を取り払って見せたところで、ロンドン・オリンピック・スタディアムが、イギリスの心地よい緑の大地に変貌するのである。
   

   ボイルのコンセプトは、私たちの住む現在と未来で、なだらかに広がるイギリスの温かくて調和の取れた田園風景の伝統イメージで、現そうととしたのだと言う。
   動物が草を食み、模型の雲から雨が降る。クリケットの試合、羊、牛、馬、畑を耕す農夫。四方には、イギリスの四つの地方を代表する花で飾った柱が立ち、一方には、野外のロックフェスティバルとダンス会場、反対側には、クラシック音楽のプロムスの観客席を設えてある。
   それに、イギリスのショウで、ユーモアがなければ誰も相手にしないので、イギリス人の誇る選りすぐりのユーモア感覚を秘めた笑いを提供するのだと言う。
   
   確かに、イギリスと言えば、ロンドンを離れて地方に向かうと、真っ先に印象的なのは、美しい田園風景であり、そして、イギリス人と付き合っていて、感心するのは、ウィットに富んだユーモア感覚で、ボイルの選択は、イギリスを最も特徴づけるキャラクターに間違いないかも知れないと思う。

   このブログでも、イギリスの風景や田園、イギリス人のガーデニング好きやイングリッシュ・ガーデンなどについて書いて来たし、賭け事好きやユーモア・センスなどのイギリス人気質についても書いて来たが、これまでのオリンピックが、モダンで最新のテクノロジーを駆使した演出やかっての歴史の栄光などをショウ化したスペクタクルなシーンで開幕することが多かったので、今度のイギリス人の選択は、正に、人間本来への回帰であり、一寸、意外ではあった。

   ところで、まず、イギリスの田園の美しさと言うことだが、あのコンスタブルの絵画で描かれている昔懐かしいイギリス風景は、今でも、イギリスの田舎に残っている。
   私は、5年間イギリスに居たので、田舎を自動車で良く走ったし、シェイクスピア劇を観るためにストラート・アポン・エイヴォンに良く通ったので、行き返り、あっちこっちを寄り道して田舎に迷い込んだり、それに、スコットランドとウェールズへは、2週間ずつくらい車で旅をしたので、結構、大都会以外のイギリスを知っている心算である。

   しかし、普通に私たちが感じている美しい田園風景は、四つに分かれている連合王国グレート・ブリテンの内のイングランドが主で、スコットランドやウェールズ、そして、北アイルランドに入ると、はるかに荒削りの自然が残っていて、大分雰囲気が違う。
   イングリッシュであったシェイクスピアの描いた森や林や田園風景は、あのドイツの黒い森のような原始を思わせるような荒々しさはなくて、随分、優しくて温かみと親しみのある雰囲気であることからも、このことが分かる。
   やはり、走っていて心地よく美しいと思ったのは、コツワルドやハリー・ポッターの農場のある湖水地方で、同じ、イングランドでも、エミリー・ブロンテのヒースの生い茂る嵐が丘の田園風景は、荒涼としていて全く雰囲気が違う。
   私は、どこか分からないような田舎を走っていて、古風でムードのあるパブや古い旅籠を見つけると、そこに潜り込んで、生ぬるくてコクのあるビールを味わいながら小休止するのを楽しみにしていた。

   この美しいイギリスの田園だが、昔から、このような風景であった訳ではなく、悪く言えば、イギリス人は、原始の荒野を切り開いて、自分好みの自然環境に訓佳してしまったのである。
   と言うよりも、七つの海を支配して、海洋王国として大英帝国を繁栄させるためには、船を造る必要があり、木を総て切ってしまったと言うか、国家の繁栄のために、森や林、山や森林を総て食べつくしてしまったと言うことで、その代わりに、自分たちの住む環境を思い通りに美しく造形したと言うことであろうか。

   イギリス人の憧れた自然風景は、ローマやギリシャなどの廃墟のある自然風景で、大陸ヨーロッパのような幾何学模様のように造形した人工的な風景は性にあわず、自然な佇まいを強調した修景庭園で、それが、変形して、今日のイングリッシュ・ガーデンに至っていると言うことでもある。
   その思いが、イングランドの田園風景に体現されているのであろうが、イングリッシュ・ガーデンもそうだが、イギリス人が最も好ましいと思えるような最も自然に近づけた自然風の風景である。

   尤も、ダニー・ボイルが意図した田園風景は、今日のイギリスのモダン社会の田園ではなく、もう少し前の、シェイクスピアや、少なくとも、ハリー・ポッターの意図した田園であろうと思う。
   ブラウニングの詩のように、良き人々が幸せに暮らしていた温もりのある心の安らぎに満ちた田園生活のあったイギリスの田舎であり、それを、今日と明日の人々の生きる世界として、現したかったのではなかろうかと思っている。
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NHK:桂三枝 夢のブラジルへ

2012年02月21日 | 海外生活と旅
   再放送のようだが、見過ごしたので、今夜、BSで放映された標記番組を見て、久しぶりに、ブラジルの風景を見て懐かしくなった。
   私は、4年以上もブラジルのサンパウロに住んでいたのだが、それも、もう、40年近く前の、かってのブラジルの奇跡と言われた大ブラジル・ブームの時である。
   しかし、真っ赤な鳥居や大阪橋のあるガルボン・ブエノ街の雰囲気などは、殆ど当時そのままで、当時あった宝石店や土産物店も健在のようだし、今では、QBハウスに駆逐されて全く町から消えてしまった昔懐かしい散髪屋も、昔の姿で残っていた。
   尤も、この日本人街と言われていたガルボン・ブエノも、今では、日本人の影が薄くなって、東洋人街になってしまったと、日本に来ているブラジル日系人の知人が言っていた。

   桂三枝は、”自らの笑い”をもう一度見直そうとブラジルへと向かったと言う。
   サンパウロには数多くの日系人が暮らし、かつての日本同様のコミュニティーがあり、それは、まさに三枝が育った大阪市大正区と同じ。そこを旅することで“自らの笑い”の原点を探ろうと言うのである。
  確かに、ガルボン・ブエノの土産物店に、招き猫の人形が飾ってあったように、私の居た頃にも、古い日本が、そのまま、化石のようにフリーズして、ブラジルの日系人の家庭にあったのを覚えている。
   勿論、天皇皇后両陛下の御影写真が飾られている家もあった。

   昨秋、女子大学の国際コミュニケーション学部で、ブラジル学について、3回講義をすることとなったので、丁度、1年前からBRIC’sの大国ブラジルの視点を皮切りに、ブラジル全般について、改めて勉強し直したのであるが、ブラジルについての日本語の良書は、極めて少ないことに気付いた。
   BRIC’sの大国と騒がれ、オリンピックやサッカー・ワールド・カップの開催が予定されていて、正に、脚光を浴びているブラジルの筈なのだが、日本人の関心はかなり薄くて、一般の人も、ブラジルについては、アマゾンやコーヒー、今盛りのリオのカーニバル、サッカーなどと言った断片的な知識しか持っていない。

   結局、私のブラジル学の勉強の大半は、英語で書かれた専門書やメディアや政府関連の資料に頼らなければならなかったのだが、講義の資料をも兼ねて、ニューヨーク・タイムズの記者ラリー・ローターの著書「BRAZIL ON THE RISE」を種本にして、このブログで「BRIC’sの大国:ブラジル」と言うカテゴリーで、20数編記事を書いて残した。
   大学の講義では、大航海時代以前のポルトガルから説き起して、ラテン国家のモノ・カルチュア経済から、レアル・プラン成功による超インフレ克服、そして、今日の工業農業食料大国としての超大国への道へのブラジルの軌跡を軸に、サンバやカーニバル、アミーゴ社会等々、自分自身、結構楽しみながら、ブラジルの魅力を語って来た。
   私は、ブラジルと言ったラテン系の国よりも、欧米での在住の方が長くて、米国製MBAでもあり、どちらかと言えば、アングロ・サクソン文化の方に傾斜しているのだが、全く対照的な、両極端の文化や政治経済を、浮き彫りにしながら俯瞰できるのも、幸せかも知れないと思っている。

   尤も、講義の重要な課題の一つは、日本人のブラジル移民とブラジルの日系社会、そして、日伯間の切っても切れない重要な経済関係など、正に、日本のブラジルとの関係である。
   その準備を兼ねて、私は、NHKで放映された橋田壽賀子の「ハルとナツ 届かなかった手紙」を録画してあったので、見始めたのであるが、不覚にも、最後まで5回あるのだが、あまりにも、胸が詰まって、とうとう、2回目の途中で、その先が見られなくなってしまった。
   今回、桂三枝の番組で、50年の風雪に耐えて成功した迫田農園の人々の大家族の今日を放映していたが、未来を信じて新天地を求めて雄飛した13万人の日本人たちが、如何に、過酷な試練と闘って生き抜いて来たか、随分、色々な人から話を聞いて来たが、筆舌に尽くし難い苦難の連続の筈だったのである。
   しかし、それ故に、日本に対する望郷の念は冷めやらず、そのような多くの日系ブラジル人が居たからこそ、桂三枝が感じたような、どこか、昔の大阪の下町にあったような、懐かしくて暖かい、どこか、タイムスリップしたような古き良き日本の温もり・雰囲気が、ブラジルには残っているのである。
   
   ところで、桂三枝の「ブラジルは夢の中」と言う新作落語を、是非、聴いてみたいと思っている。
   
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オランダ生活の思い出

2012年01月08日 | 海外生活と旅
   先日、NHKで向井理のオランダ旅を放映していたが、雑用の合間に、ちらちら見ていたが、懐かしい風景が映し出されると、無性に懐かしくなる。
   ところで、古いフィルムの整理ついでに、何故か、手元にあるフィルム100本分くらいの内、外国分の一部をスキャンし始めたら、殆ど、最初は、オランダの頃の写真ばかりであった。
   家族写真が多いので、大半は観光地でのものだが、やはり、近くのチューリップ公園であるキューケンホフに良く行ったのか、チューリップに関係したものが多く、次に多いのは、各地にある有名な建物を、精巧なミニチュア模型にして小さな都市を作り出しているマドローダム公園での写真である。
   それに、オランダなどヨーロッパの博物館や美術館などでは、写真が自由に写せるところが多いので、レンブラントやフェルメールの絵の前で写した写真もあり懐かしい。
   1985年以降だから、当時は、フィルムもASA100くらいで感度も良くなかったのだが、ニコンでF1.2、ライカでF1.4の標準レンズで手振れを注意して写せば、まずまず、写せた。

   最初にオランダに行ったのは、もう、22~3年前になるのだが、その時、美術館では、ゴッホやレンブラントよりも、真っ先に感激したのは、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」で、それから、私のフェルメール行脚が始まり、幸い、海外生活や海外出張が多かったので、最大36点くらいだと言われている彼の作品の32点は、既に、お目にかかっている。
   オランダに住んでいた時には、日本からお客さんが来て芸術に多少の関心のある人には、必ず、アムステルダム国立博物館やハーグのマウリッツハイス美術館に案内して、フェルメールの素晴らしさを語っていたのだが、久しぶりに会ったら、殆どがフェルメールに入れ込んでいて嬉しくなっている。
   フェルメールの故郷デルフトにも良く出かけて行って、当時の面影が残っている建物の中に入って、窓から差し込む淡い光を感じながら、絵の感触を反芻していたのだが、オランダの旧市街の古い建物の中に入ると、今でも、レンブラントやフェルメールが、ふっと飛び出してくるような気がするのが不思議である。

   この口絵写真は、今回スキャンした1986年春の写真だが、チューリップ畑が延々と続いているリセの農場である。
   緑の部分は、既に花が咲いて、球根肥培のために花弁が刈り取られた畑か、まだ蕾の畑である。
   遠くの方まで極彩色の帯が横たわっていて、その向こうに絵のようなオランダの家々が遠望できる。
   花が咲けば、ほんの数日で花弁が刈り取られてしまうので、チューリップの種類によっては、開花時期が異なるので、全畑が、同時にカラフルな色のカーペットになることはなく、見ごろは極めて限られていて、タイミングが難しい。
   刈り取られた花弁は、うず高く畝の縁に積み上げられて廃却されるのだが、勿体ないような気がするが、使い道がないのであろう。

   チューリップは、トルコの原産で、砂地で育つようで、このリセの農地も、パラパラとした砂交じりの土である。
   経済のバブルの始まりは、このオランダのチューリップで、新種の逸品は、球根一個が大邸宅に匹敵したと言うから相当なもので、丁度資本主義経済が軌道に乗り始めた商業オリエンテッドな市民社会の勃興期とも一致したこともあって、金に聡い猿どもが狂奔したのだと言うから面白い。
   何を間違ったのか、逸品の球根を食用と間違えて食べてしまって、大騒ぎになったと言う泣くに泣けない悲喜劇もあったとか、昔も今も、欲に駆られた人間の引き起こすバブルは、ずっと人を泣かせてきたのである。
   汚名を晴らすためにも、今でも、オランダはチューリップの国で、このリセ近郊で栽培された膨大なチューリップと球根が、すぐ近くのアルスメールの世界最大規模の花市場でセリにかけられて、隣のスキポール空港から、瞬時に世界中に送られて行く。

   さて、スキャンだが、それまでは、キヤノンのプリンターのスキャン機能を使ってスキャンしていたのだが、時間が掛かり過ぎるので、ケンコーの簡易なフィルムスキャナーに切り替えた。
   解像度は低いが早いし、2L版程度の引き伸ばしには耐えそうだし、とにかく、整理もままならず、すてるだけのフィルムなら暇に飽かせて、少しずつ、思い出を反芻しながら、貴重な体験を探し出そうと思ったのである。
   まだ、この何十倍もの膨大なフィルムが、押し入れに眠っているのだが、世界中の珍しい土地にも出かけているし、あっちこっちで、シャッターを押し続けて来たので、自分でも忘れている面白い写真を見つけ出せるのはないかと、楽しみにもしている。
      
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ギリシャ雑感

2011年09月03日 | 海外生活と旅
   今、ギリシャは、財政の悪化で危機的な状態にあるのだが、私の印象では、比較的国家財政に対して甘いラテン系の国とも違って、この国は、ヨーロッパでも、もう少し、中東のイスラム国家に近い独特な雰囲気を持っているように思う。
   あの偉大なギリシャ文明を築いたギリシャ人が、今日のギリシャ人と全く同じなのかは知らないが、落差はかなり大きいように思う。

   この古代ギリシャの遺跡のかなり多くは、トロイやミレトスもそうだが、エーゲ海を隔てた対岸のトルコにある。
   ところが、宗教が違うのも勿論だが、キプロスでの対立でも顕著だが、両国の関係は悪い。
   私は、イスタンブールへは2度行ったことがあるが、イズミールを経てブルサくらいまでタクシーで走ったが、残念ながら、ギリシャの遺跡には接することが出来なかった。

   この口絵写真は、パルテノン神殿のエレクテイオンの有名な6人の少女の姿の柱像のカリアティッドの玄関だが、私が最初に見たのは、南西隅の少女像で、大英博物館でであった。
   一番きれいに残っていた柱をイギリス人が持ち出したのだが、私が最初にパルテノンに行った時には、残りの少女像はそのままだったと思うのだが、次に行った時には、博物館の中に安置されていたので、この写真は摸刻像である。
   エルギンマーブルとして有名なパルテノンの正面東ペディメントに残っていた彫像や波風の壮大な絵巻物とも言ううべき一連の彫刻を見てから、益々、アテネに行きたくなったのだが、イギリスに運び込んだのが良いか悪いかは別にして、トルコ軍に爆破されて廃墟になったパルテノン神殿をそのま間、風雨に晒されしまうのも問題であったことも事実であろう。
   「日曜はダメよ」のメルクーリが大臣の時に、返せとイギリスに怒鳴り込んだのだが、文化遺産がオリジンの母国に帰るのなら、ヨーロッパやアメリカの博物館は空になってしまう。

   このアテネにある古代ギリシャの遺跡は、結構手入れされているのだが、私が、コリントスやミケーネやエピダウルスなどに行った時には、まだ、沢山の建造物の欠片ががれき状態で残っていたし、けしの花が鬱蒼と茂っていたりして、正に、兵どもが夢の跡と言った感じの廃墟があっちこっちに残っていた。
   メソポタミアやエジプト、インド、中国の遺跡からすれば、随分若い文化なのだが、あの勇名を馳せたスパルタなどほんのチッポケな集落に過ぎないと思うのだが、大帝国を築かずに、吹けば飛ぶようなギリシャの都市国家が、世界の文化文明を総なめにした時期が歴史上にあったと言うことは、驚異と言う外ない。

   そんなギリシャが、今、世界の文明国で、一番弱い貧弱な国家経済に泣いている。
   古代ギリシャ人が、今のギリシャ人かどうかと問うたのは、そんな気持ちからだが、この危機から早く脱して欲しいと思っているのだが、ソクラテスやプラトンやアリストテレスはどう思っているであろうか。
   
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世界遺産:トリニダー遺跡~懐かしいパラグアイの思い出

2010年09月04日 | 海外生活と旅
   NHKの番組「世界遺産への招待状」で、パラグアイの世界遺産トリニダー遺跡(口絵写真、グーグル・アースから借用)を放映していた。
   私が、ここを訪れたのは、30年以上も前のことで、パラグアイとアルゼンチンの国境の町エンカルナシオンからほど近く、国道6号線をイグアス瀑布に向かう途中、右手南方のジャングルの中にある巨大なキリスト教会を中心とした遺跡である。

   スペインのイエズス教会の宣教師たちが、原住民であるインディオ・グアラニー族を糾合して作り上げた自給自足の布教の為の共同体レドゥクションの跡だが、1706年に建設を開始し、1755年頃に、スペイン・ポルトガル連合軍に攻め込まれて宣教師が追放されて、指導者を失った社会ゆえに自然崩壊したと言うのだから、正に夢の跡でもある。
   大地と同じ色の赤褐色の煉瓦で築き上げられた壮大な建物の残骸で、彫刻が施された壁面や柱などが、かなり、綺麗に残っている。
   私が訪れたのは、この国道6号線の工事中で、訪問者などは全くと言ってよいほどなくて、ジャングルの小道を踏み分けて、雑草の生い茂った大地に横たわる遺跡群に至ると言った感じで、よくも、こんなところにこれだけの建物を建てたものだとびっくり頻りであった。

   尤も、私自身、メキシコと南米各地を歩いていて、スペインやポルトガルの残した遺産の壮大さとその影響力に圧倒され続けていたので驚くのも不思議だが、ラプラタ川を遡上してイグアスの滝に至る圧倒的な辺境のジャングル地帯に、僅かな人数の宣教師たちが、未開のインディオを巻き込んで、ローマのバチカンをモデルにして一大コミュニティを建設したのだと言うのである。
   このあたりの話は、映画「ミッション」で、少し見た記憶があるのだが、このNHKの番組では、イエズス会の宣教師を、文化文明の伝道者として捉えている一般パラグアイ人と、インディオ搾取と圧政の主だとするグアラニー族末裔の話を伝えていて興味深かった。

   私は、サンパウロに駐在して、パラグアイの仕事も見ていたので、頻繁に、首都アスンションやこのエンカルナシオンを往復していたが、パラグアイ人は、殆どが、スペイン人とグアラニー族の混血児だが、あの、ワールド・サッカーで日本が負けてしまったように、非常に誇りの高い民族で、丁度日本が江戸から明治に変わろうとする頃、三国同盟戦争で、ウルグアイ・ブラジル・アルゼンチンの強敵3国を相手にして5年間も闘い続け、国民の半分以上を失ったと言うのだから恐れ入る。
   その結果、男の人口が極端に減り、長い間、パラグアイでは、婚期を逸した女性が多くて、女が木から降って来ると言われていたようで、私に、ブラジルの友人が、まことしやかに語っていた。

   このNHKの番組では、今でも、貧しい掘立小屋に住んで慎ましやかに生きているグアラニー族の生活を放映していたが、その中で、村の長老が、パラグアイのハープ(確かアルパと言っていた気がする)を習慣にしていると言って爪弾いているのを聞いて、無性に懐かしくなった。
   このハープは、コンサートで見る素晴らしいハープとは違って、ペダルも何もない弦を張っただけのシンプルなハープで、非常にこじんまりとしていて、演奏は比較的易しそうで、私は、アスンションのクラブなどで、楽師たちの伴奏に合わせて、カラフルな民族衣装を身に着けた乙女たちが、頭に土器の壺をのせてフォークダンスを踊るのをよく見た。
   激しいパラグアイ気質とは全く違って、極めて穏やかで優雅で、じっと目を瞑って、聞き惚れていると、憂さや疲れが消えて行くのである。
   グアラニー族にとって、スペイン人征服者や宣教師の到来が良かったのか悪かったのか分からないが、こんなに、今なお貧しい生活を送っているグアラニー族に、アルパを残しているのが、何とも言えず切なくて胸が痛む。

   さて、このトリニダーの近くに、確か、チロルと言うところがあって、ドイツ移民が、コツコツと自分で煉瓦を積んで建てたと言う瀟洒で雰囲気のあるヨーロッパ風のホテルがあって、滞在したことがある。
   かなり、美味しい欧風料理を賞味出来、南米だからワインも美味かった。
   このあたりには、ドイツ、イタリア、ロシアなどの移民たちの集落があって、あの当時も、かなり本国との繋がりが強くて独立した生活をしていたように思うのだが、この近くで、戦後何十年も経ってから、アイヒマンだったか名前を忘れたが、ナチの高官がユダヤ警察に逮捕されたと聞いたことがある。

   話がそれたが、このトリニダー遺跡の傍で、全く光の無い漆黒の闇の中で、光り輝く南十字星を仰ぎ、本当に漢字通りに頭(目)が光る螢を見たのを思いだしながら、全く、アナログだけの、歴史の歯車が止まったような若き時代の思い出の数々を反芻しながら、NHKの番組を楽しんでいた。
   
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イングリッシュ・ガーデンの魅力

2010年03月26日 | 海外生活と旅
   NHK BSで、アガサ・クリスティの「ミス・マープル3」を放映していて、久しぶりに、花の咲き乱れる綺麗な庭を見て、イギリスの庭を思い出した。
   日本では、イングリッシュ・ガーデンと言えば、一般的には、自然な植栽と自生植物を重視して自然風を装いながら色彩の調和を重視した、色々な花が美しく咲き乱れる色彩豊かな庭園を言うことが多く、実際にも、イギリス人たちがこよなく愛するガーデニングに明け暮れている自分たちの庭は、殆ど、この新しいイングリッシュ・ガーデンである。

   新しいと言ったのは、本来のイングリッシュ・ガーデンと言うのは、広大な池や川を廻らせた自然の景観美を追求した立体的な風景式庭園を言うのであって、フランス庭園に代表されるような大陸型の平面的幾何学式庭園の対極にはあるが、背景には、ギリシャやローマ風の廃墟を思わせるような建物が散在するような古典的なイメージの強い壮大な庭園なのである。

   私自身、5年間の在英中に、イングランドからウェールズ、そして、スコットランドと、多くの庭園を見て歩いたが、特に典型的な風景式庭園で印象に残っているのは、オックスフォード近くにあるチャーチルの生家でもあるブレナム・パレスやストーヘッドである。
   私が、散歩道として楽しんでいたキュー・ガーデンなどは、もっと自然に近い荒削りのイギリス式風景庭園かも知れない。
   イギリス各地に、古城や歴史的建造物が散在していて、実際に活用されている名所旧跡には、立派な庭園が併設されていて、立派に維持管理されていて、楽しめるのだが、トピアリーなどが幅を利かせる幾何学文様に造形された人工的な大陸ヨーロッパの庭園とは、全く雰囲気が違うのが面白い。

   しかし、考えて見れば、ギリシャやローマへの憧れと同時に、自然風の風景を愛するイギリス人だが、徹底的に自然の景観を破壊しつくして、原始の大地を自分好みの風景に造形し直した結果だと言うところが実に面白い。
   イギリスの何処を探しても、原始時代のイギリスの景観など、跡形も残っていないと言うのが、如何にもイギリス的であり、あれだけイギリスの田園風景が美しいのは、どこまでも人工的である故なのである。

   私が、美しいと思った今様イングリッシュガーデンの一つは、記憶が定かではないが、ストラトフォード・アポン・エイボンで見たシェイクスピアの母の家メアリー・アーデンの家の庭だったような気がする。
   イギリス人の友人に誘われて毎夏の夜長を楽しんだグラインドボーンでの、午後から真夜中にかけてのオペラ三昧も素晴らしい思い出だが、この広い庭園に散在するイングリッシュ・ガーデンも美しかった。
   開演前と長い休憩の間には、気に入った庭園の芝生にシートを敷いて、ピクニック・スタイルのディナーとワインを楽しむのだが、少し、寒いくらいだが、美しい池畔や花々に囲まれての会食は実に楽しい。
   庭園の向こうの方では、羊が草を食んでいる長閑な風景が展開されているのだが、これは、庭園と牧場の境界線に、見分けが付かないような細い空掘り(ハーハーと称する)が掘られていて、あたかも、一体の風景のように見えるのである。
   
   さて、この口絵写真の庭は、私の年来の友人であるアブラハムズ夫妻のギルフォードの自宅の庭で、非常に広大であり、一寸した昔の公団住宅の敷地くらいはあると思えるほどなのだが、ジムが噴水や池のメインテナンスは手伝うにしても、主に、夫人のマーゴが一切の世話をしている。
   かなりの部分は芝地としても、邸宅周りには、小さな回遊式イングリッシュ・ガーデンがあり、温室で、盆栽まで栽培しており、広い網を張った農場では、色々な果物を栽培しており、ジャムは総て自家製である。
   時々、近くのロイヤル・ガーデンに出かけて、講習を受けたり園芸の勉強もしているのだが、結構、経験と知識は深い。

   私のキュー・ガーデンの自宅にも、かなり広い庭があったが、多忙を極めていたので、全く手が回らず、庭のメインテナンスは、庭師や園芸助手などに世話をして貰っていた。
   イギリス人は、庭付きの家を郊外に持って、多少遠くて不便であっても通勤したり、あるいは、田舎に邸宅を持って週末に帰って庭仕事をすると言うほど、ガーデニング好きだが、当時の私は、まだ、それ程ガーデニングには興味がなく、美しい花を写すと言う趣味に留まっていたのである。

   さて、イギリスの住宅の庭だが、前庭が小さくて、家の裏側の後庭が、広大だが、大抵は、隣との境界は生垣などで遮蔽されていて外部から入れないし見えない。完全にプライベートな自分たちだけの世界が作り出されているのである。
   ところが、同じ花好きの国民であるオランダだが、普通の家は、北海道のように、隣との境界があいまいな所為もあってか、チューリップなど季節の花は植えているが、イギリス人のようなガーデニングと言った感覚がないのが面白い。
   ぼつぼつ、チューリップ公園として有名なキューケンホフがオープンした頃で、五月の最盛期にかけて、世界中から花好きを集めるのであろう。この公園だが、花に囲まれ続けているオランダ人が、殆ど、訪れないと言うのが面白い。

   ヨーロッパも花のシーズンである。
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龍馬:蒸気船を造って家族を世界に誘う夢を語る

2010年02月14日 | 海外生活と旅
   今夜の大河ドラマ「龍馬伝」で、龍馬が家族を桂浜に誘い出して、砂浜に、大きな世界地図を描いて、「船を造って、はるか異国を家族と一緒に旅をしたい」と壮大な夢を語るシーンがあった。
   私は、私自身の世界への旅立ちを思い出して、感無量であった。

   私は、戦前の生まれだが、日本が風雲急を告げて居た頃で、育ったのも小学校に入ったのも敗戦後のドサクサで、日本人が、食うや食わずの生命線ぎりぎりの生活を強いられていた厳しい時代であった。
   生徒の弁当は、麦飯交じりの梅干一つの日の丸弁当が珍しくなかった頃で、その弁当さえ持って来れずに、昼の時間になると外に出て砂いじりで時間を過ごさねばならない子供も居た。藁草履で通学する子供もいたり、靴下など大きな穴が開いていたし、着ている服は継ぎ接ぎだらけで、まともな靴を履いている子供など少なかった。

   6年生の時に、近辺の学校の合同合宿があって、夜、皆で公衆浴場に行く時間になった時に、教師が「入浴」と言う言葉を使ったのが子供たちの関心を引いて、「ニューヨーク、ニューヨーク」と叫んで、走り回ったことがあったのだが、何故か、昨日のように鮮明に覚えている。
   大学生は、安保反対で川原町をジグザグ・デモをして過ごした頃で、その後、東京でオリンピックが開かれ、大阪で万博が開かれたので、世界中の情報や知識が溢れ返っていたが、我々庶民は、まだ、貧しくて、海外に行くなどと言うのは恵まれた人だけで、夢の夢だった。

   ところが、私に降って湧いたように、大学院への留学話が舞い込んで来た。
   会社で海外留学制度が導入されてはいたのだが、英語の準備が出来ていなかったので、希望さえも出していなかったのだが、急に呼び出されて留学せよと言われたのである。
   男である以上、山に登れと命令されれば、当然登らねばならないと思ったので、当時山王にあったフルブライト委員会事務所を訪れて、どうすれば留学出来るのか調べて、必死になって勉強した。
   幸い、ノーベル賞経済学者ローレンス・クラインのエコノメトリックス・モデルで名前を知っていたウォートン・スクールに入学を許可されて、翌年の夏に、憧れのフィラデルフィアに飛んだ。
   JALの窓から、車が走るサンフランシスコの大地を初めて目にした時の感慨は、忘れられない。
   シカゴに立ち寄ってフィラデルフィア生活が始まったのだが、それから、私の長い海外との関り、そして、14年間の海外在住生活が始まったのである。

   仕事の関係や個人旅行で、一泊以上した国が、恐らく、40くらいはあると思うのだが、勿論、人知れず筆舌に尽くし難いような苦労や困難を掻い潜って来たのであるのだが、今、振り返ってみれば、貴重な経験であり、大切な思い出である。
   先月中旬に、イギリスの友人から電話が架かってきて、寒波が酷くて路面凍結で車が出せないので郵便局に行けずに、小包が遅れたと連絡があったのだが、あっちこっちで知己を得た友人たちとの交わりも、私の大切な財産である。

   ところで、龍馬は、家族に世界を見せると夢物語を語っていたが、私の場合、確かに、妻と娘二人を、海外生活に誘ったものの、物見雄山ではないので、彼女たちにとっては、幸せであったのかどうか、時々、迷惑をかけたと言うか、苦労をさせたと言う一種の悔恨に似たものを感じることがある。
   娘たちもヨーロッパの学校で勉強したので随分苦労はあったであろうし、妻には、正に私との二人三脚なので公私共に大変だったと思うのだが、特に表立って批難がないのがせめてもの慰めでもある。

   この口絵写真は、水害のあったマチュピチュであるが、インカ帝国の都クスコから長い列車旅で大変だったけれど、世界中を歩いていると、このように思いがけないような人類の偉大な遺産や創造物に遭遇する幸せを感じて感激することがある。
   貧しい子供時代を送っていた私が、ほんの僅かな短い人生の内に、ロンドン・パリを股にかけてフィラデルフィアの大学院を出るなど夢にも思わなかったし、ベルリンの壁の崩壊前後の激動の歴史をま近に体験するなど想像だにしなかった。
   この人生の不思議さをつくづく思い出して、桂浜の砂に世界地図を描く龍馬の姿に感激しながら、無血革命を実現した明治の偉人たちの偉業に感じ入っていた。
   
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JALへのセンチメンタル・オマージュ

2010年01月15日 | 海外生活と旅
   私は、海外生活が長いし、それに、国内業務でも、かなり長い間、海外関連業務に就いていたので、JALには、随分お世話になっている。
   片道一回と考えて、国内便を含めれば、100回以上は、JAL便に乗っている計算になる筈で、まだ、ANA便が少なかった頃なので、国際便は殆どJALであった。
   外国へ行く時には、その国の航空機で入国するのが礼儀だと思って、共産時代のハンガリーへは、マレブ便を使い、サンパウロへの赴任時には、ヴァリーグ便を使うなど心したこともあったが、ロンドンやアムステルダムなどの勤務地やニューヨークなどアメリカへの往復などは、5回の内4回はJAL便と言った具合で、兎に角、いつもの調子で気楽な気持ちで旅が出来るので、特に考えることもなかったのである。

   ところで、私が、JALを意識したのは、まだ、宝塚にいた子供の頃で、戦後初めて許されて、民間航空機の定期便が飛んだと言うので、伊丹空港まで見に行った時で、空港近くの道路の上空ま近を轟音を立てて着陸する飛行機の鮮やかな日の丸のマークを見て、感激した。
   川西航空の工場だったか、何処で見たのか定かではないのだが、終戦直後、ゼロ戦の残骸が燻っているのを見ており、制空権を米軍に握られて、米軍機が伊丹空港を吾が者顔に離着陸していたのを悔しく思っていたので、日の丸の感激は、尚更であった。

   その後、実際にJAL便に乗ったのは、ずっと後で、伊丹から羽田を往復したのだが、その時、上司が、飛行機をバックに写真を撮ってくれた。
   海外へは、1972年に、アメリカの大学院へ留学するために羽田からサンフランシスコまで乗ったJAL便が最初で、そこから、アメリカの航空機で、シカゴ、フィラデルフィアへ飛んだのだが、全く見も知らない異国での生活が始まると言う緊張感も手伝ってか、サンフランシスコで降りたJAL機が、日本との最後の別れのような気がして、無性に心に残ったのを覚えている。

   その後、アメリカ国内や休暇時のヨーロッパ旅行を皮切りに飛行機に乗ることが多くなって、JALとの二人三脚と言った海外との生活が始まったのである。
   何故、JALだったのか。
   英語に不自由をしている訳でもなく、外国の航空機に抵抗感があった訳でもなかったので、JALである必要はなかったのだが、やはり、私も徹頭徹尾日本人であったのであろう、とにかく、JALに日本を感じて安心していたと言うか、予約が取れないとか、何か理由があるなど特別な時意外は、ルーティン的にJALに乗って海外に出た。

   JALで海外を往復していたと言っても、何をしていたのか、殆ど思い出が残っている訳ではなく、最初は、窓から風景を見たり、映画やオーディオなどを適当に楽しんでいたが、その後は、空港に着くと適当に買い物をしてさくらラウンジに入って小休止し、JAL機に乗って目的地に向かうと言う繰り返しが続いた。
   機内では、殆ど、本を読んでいた。特に、意識して、経済や経営の本ではなく、歴史や芸術などと言った本が主体であった。
   これだけ、JALに乗っておれば、マイレッジが貯まったであろうということだが、私の手元にある多くのカメラの内、Nikon F801とNikon F801sは、このポイントで貰ったもので、ヨーロッパ滞在中の多くの写真を撮るために役立ってくれた。
   
   しかし、不思議なもので、これほどJALに乗っておりながら、私の飛行機旅での思い出の大半は、他の航空会社でのものである。
   それ程、私にとって、JALが水や空気のようにフィットした存在だったのか、それとも、全く特色のない平凡な航空会社だったのか、不思議に思っている。

   ヨーロッパでは、アムステルダムとロンドンに駐在していたので、当然、BA英国航空とKLMオランダ航空、それに、パリへの旅行も多かったのでAFフランス航空を使うことが多かったのだが、ヨーロッパでは、1時間程度の飛行で目的地に着けるので、正に、バス感覚の交通手段であった。
   一度、列車TEEで、アムステルダムからブラッセル経由で、パリに入ったことがあるのだが、社内でゆっくりリラックスしながら味わった本格的なフランス料理の味や、車窓に流れる風景が、非常に印象的であったのを思い出す。
   それに、ヨーロッパでは、地方空港間を結ぶ小型のグラスホッパー機が沢山就航していて、かなり、低空飛行を続けるので、眼下のヨーロッパ風景が楽しめて面白かった。
   それに、アムステルダムにいた頃は、ベルギーやドイツなどの近い都市へのビジネス旅は、車で高速道路を走った。アムステルダムを朝に出れば、その日のかなり早い午後に、ブレンナー峠イタリア国境を越えることが出来るのが、ヨーロッパの道路事情だからである。

   BAは、特定会員には、無料のカーサービスを実施していて、ヒースローに自分の車で乗り付けて、搭乗口近くの指定のポイントで車のキーをスタッフに渡せば車を預かってくれて、空港に帰り着いた時には、すぐに、車を駐車場から出して来てキーを渡してくれ、そのまま家路につけると言うシステムがあって、時間短縮のみならず交通の心配をせずに済み随分重宝した。
   もう一つ、多忙なビジネスマンにとって重宝したのは、食事サービスで、KLMなど、アムステルダムからロンドンまで、ほんの1時間前後の飛行だが、その間に、かなり、本格的な食事を出してくれたので、(ビジネスランチはビジネスなので別だが、ヨーロッパでは普通の昼食を取るのさえ厄介なので、)昼食時間をセイブ出来て、到着後即ビジネスに入れて、日帰り出張なども容易になって非常に助かった。
   ヨーロッパでは、大都市間路線のナショナル・フラッグ・キャリアー間の熾烈な競争に加えて、バージン航空を皮切りに、その後、多くの革新的な格安航空会社の参入で、航空産業自身が、イノベーションを追求して激烈な競争に勝ち抜かなければならなかったので、どの会社も差別化に必死であったように思う。

   キャセイ・パシフィックやシンガポール航空などでの楽しいアジア旅の思い出、南米でのローカル機でのアンデス越え、その他、中東や欧米での面白い、時に、危険な飛行機旅の思い出など色々ある。
   今思えば、JALにこだわらずに、色々な航空会社の飛行機に自由に乗っておれば、もう少し違った世界が見えていたのかも知れないが、私のように、何となくJALと言う日本人としてのロイヤリティが強いJALファンが大半で、これが、今日までのJALを支えて来たような気がしている。

   世界を制覇したような勢いだったパンナムが、はるか昔に消えてしまっている。
   トム・ピーターズだったか、エクセレント・カンパニーとして、デルタ航空を取り上げた頃から、航空産業は激動の時代に突入しており、現在では、経営学書でしばしば取り上げられているのは、革新的な経営のサウスウエスト航空だが、名だたる世界の航空会社が、グローバル化した国際ビジネス環境の乱気流の中で、四苦八苦しながら、明日の航空産業のあり方を必死になって模索している。
   JALの経営については、これまで、辛口のコメントを続けて来たが、この19日に、会社更生法の適用を申請して、直後に、企業再生支援機構が支援を決定して、新生日本航空を目指すと言う。
   私の海外生活は、JALとともにあったようなものなので、再び、世界のJALとして羽ばたく日の近いことを祈りたい。
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猛威を振るう欧米の大寒波に思う

2010年01月07日 | 海外生活と旅
   期待されていたCOP15が、殆ど収穫なしに終わったのだが、これを嘲笑うように、欧米に大寒波が来襲し、特に、クリスマス休暇の交通を遮断して、多くの人々の楽しみを奪ってしまった。
   ユーロトンネルの列車停止など、考え及ばなかったのであろうが、自然の猛威には、最新鋭の交通システムも無益だったのである。
   この口絵写真は、アサヒ・コムからの借用だが、ワシントンの大雪は珍しいのではないかと思う。
   私にも、寒さだけではなく、欧米の気候や自然の営みに日本とは違った新鮮で面白い経験をしているのを思い出した。

   私が経験した最も厳しい冬は、アムステルダムでの氷点下21度で、家の中の水道管が破裂して、家の中が水浸しになってしまった。
   それに、その朝、車の鍵穴が凍り付いて、キーが刺し込めなくなったので、熱湯をぶっ掛けたのだが、瞬時に凍り付いてしまった。
   この年、幸いにこの寒さのお陰で、オランダ全土の運河が凍りついたので、開けなかった全運河回遊のスピード・スケート競争が、久しぶりに蘇って、オランダ中を熱狂させたのである。
   我が家の隣にも運河があって、氷が張ると地元のオランダ人に混じって、家内や娘たちも一緒に滑っていたが、全オランダの運河が凍り付いて繋がると言う事は、珍しい。
   
   しかし、北国のオランダは、元々、寒いのである。
   赴任間際の頃、ホテル住まいをしていたけれど、家族を呼び寄せたので、新居に移ったのだが、全館暖房のガスバーナーが点火出来ずに、娘たちに毛布と布団をぐるぐる巻きにして寝かせた経験がある。
   バーナーの修理の仕方が分からなかったのだが、それよりも、何処に連絡すれば良いのか分からなかったし、まして、オランダ人の修理工が、真夜中に来るわけがない。
   一度だけ、ドカ雪が降ったのだが、オランダ人の子供たちはそりを引いて遊んでいたので、娘たちにも買ってやったのだが、とうとう、その後一度も降らなかったので、粗大ごみになってしまった。

   パリもベルリンも、随分寒いと感じたが、何故か、長く住んでいたイギリス、特に、ロンドンで寒いと思った経験がない。
   温かいメキシコ湾流に洗われている島国である所為かもしれない。
   イギリスで一番期待を裏切ったのは、霧のロンドンと言うイメージで、この雰囲気を味わったのは、5年間の内たったの1日だけであった。
   石炭でストーブを暖めていたメリー・ポピンスやビビアン・リーのウオータールー・ステーションの時代は、とうに過ぎ去ってしまっていたのである。

   フィラデルフィアの冬も寒かった。
   丁度、冷蔵庫の底を歩いているような感じで大学院に通った記憶がある。
   ところが、ペンシルベニア大学のクリスマス休暇のバスツアーで、この極寒のフィラデルフィアを出発して南下したのだが、南に行くにつれてどんどん温かくなって、フロリダの南端のキーウエストに着いた時には、ビーチでは、海水浴客で賑わっていたのには、びっくりしてしまった。
   アメリカは、途轍もなく大きな国で、こんな国と太刀打ちできる筈がないと思った。
   
   ところで、何度か、アラスカのアンカレージに出かけて仕事をしたが、この極北の都市でありながら、覚悟して出かけたものの、2月の極寒の季節でも、それ程、寒いとは思わなかった。
   巨大なアラスカ鉄道に乗ってマッキンレーの麓あたりまで出かけたのだが、雪に包まれた大地は、かなり、温暖なのかも知れないと思った記憶がある。
   しかし、しばらく、レストランなどで食事をして、出てくると、車の窓にはびっしりと氷が張り付いていて、レイキのような形をした金属性の小さな鍬状の器具で、窓ガラスをごしごしとそぎ落とすようにして、氷を落とすのにはびっくりした。
   それに、冬場でも、建設中のビルに覆い家を被せて工事をするのも面白かったが、逆に、水面下の多い土質の悪いオランダでは、必ず杭を打つので、冬になったら地面が凍りついて杭が入らないので工事が止まるところなど、気候風土の影響は地方夫々であった。

   ヨーロッパの歳時記は、春に向かってのもののようだが、とにかく、陽の光を見ることの殆どない、毎日がリア王の世界のように暗く陰鬱なの冬なのに、更に、極寒の大寒波と大嵐が追い討ちをかけると、人生真っ暗な筈で、この冬の大自然の驚異は、正に脅威であったのだろうと思う。
   
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記念切手:オーストリア&ハンガリー交流年

2009年10月19日 | 海外生活と旅
   近所の郵便局で、綺麗な記念切手を見つけた。
   オーストリアとハンガリーの日本交流年2009の切手で、オーストリアの方は、カイザリン・エリザベートとモーツアルトの肖像が描かれていて、ハンガリーの方は、国会議事堂の写真があるので、すぐに分かった。

   切手は、外国にも住んでいたし、長女が幼かった頃に集めていたので、旅に出る毎に、その国の珍しい切手を探すなどして結構小まめに収集したつもりだが、私自身の趣味でもなかったので、どこに行ってしまったのか、全く手元にはなくなっている。
   最近では、郵便局に出かけて気に入った記念切手があると買って来て、日頃の手紙などに使っていて、歌舞伎や日本画や日本的なモチーフの記念切手などは、海外の友への郵便物などに利用するなど、普通の切手や味気ない局のスタンプよりは喜ばれていて、結構重宝している。

   綺麗な切手のシートを眺めていると、随分前になるのだが、オーストリアとハンガリーの旅の思い出が、走馬灯のように蘇ってきた。
   最初に、オーストリアに出かけたのは、1973年、アメリカ留学中に、家族と一緒のヨーロッパ旅行の途路で、スイスから列車で、ザルツブルグからウィーンに入り、大晦日をそこで迎えて年を越した。
   娘が小さかったので、私だけだったが、ウィーン国立歌劇場で、シュトラウスの「こうもり」を鑑賞する機会を得て、豪華なウィーンの新春の片鱗に触れた。
   泊まったホテルが、ワーグナーも泊まったというカイザリン・エリザベート・ホテルで、ロビー奥正面に、目も覚めるような美しいエリザベートの巨大な肖像画が架かっているクラシックでこじんまりとしたシックなホテルであった。

   ビジネス旅行が主体だったが、やはり、ウィーンには、プライベートな旅も結構楽しんだので、飛行機だけではなく、車や列車で入ることもあって、その時々にオーストリアの印象が違って見えるのが面白かった。
   車では、スイスからザルツブルグ経由で入るのが普通だったが、一度は、家族と供に、アムステルダムから、ロマンチック街道を下り、ノイシュバンシュタイン城、インスブルック経由でウィーンに入り、再び、ドナウ川を下ってドイツに入ってメルヘン街道を旅して、ハーメルン経由でオランダに帰ると言う長旅をしたことがあった。
   ロマンチック街道のローテンブルグを朝に出立して、見学を楽しみながら街道を下って、ノイシュバンシュタイン城を観光して、インスブルックの宿に達すると言う馬鹿な強行軍を敢行した時など、深夜を過ぎて宿に着いたのだが、若かったから出来たのであろうか、勝手気ままなヨーロッパ旅を楽しんでいた。
   
   最初の旅は、TEE列車でスイスからオーストリアに入ったのだが、国境を越えた瞬間、田舎風景が急に貧しく素朴な感じになったのをよく覚えている。経済力の差が歴然としていたのだが、これほどの落差を感じたのは、崩壊前の西ベルリンから東ベルリンに入った時だけで、当時は、オーストリアは貧しいヨーロッパの後進地域であった。
   このことがあって以来、飛行機で大都市だけを渡り歩くピンポイント旅では、本当のヨーロッパの姿が見えないと思って、車は当然だが、結構、ヨーロッパでは、ビジネス旅行でも、鉄道を使って移動することを心がけた。
   余談だが、ルフトハンザなど、デュッセルドルフからフランクフルトまでのライン川畔経由の列車の定期便を運行していて、ライン観光を楽しめたのである。

   二度目の旅は、列車でローマからアルプスを越えてウィーンに入った。
   迫り来るアルプスの風景には迫力があるが、イタリア経由だと、面白いもので、オーストリアの印象も大分違ったものになる。
   列車のビジネス旅は、やはり、ドイツが多かった。ドイツは、ポルシェやベンツ、BMVの国なので、都市間移動は、飛行機よりもアウトバーンを走って車で移動するのが普通だが、列車旅も悪くなかった。
   壁崩壊直後に、ベルリンから東ドイツのライプチッヒへ列車で移動したのも貴重な経験だが、飛行機旅では観察出来ないその国の姿が見えて興味深いのである。

   ハンガリーへは、それからずっと後になってからで、1980年代の後半から、ベルリンの壁の崩壊後の復興期にかけて、ビジネスで何度も訪れたが、殆ど飛行機で、一度だけ、ウィーンからブダペストまでドナウ川を水中翼船に乗って移動したことがある。
   展望所やデッキに立って風景を楽しむと言った感じではなく、船室の小さな窓から見える風景は極めて単調だったが、綺麗な古城などが見えると嬉しくなる。
   港などと言った大げさなものではなく、船着場から船着場へと言った感じだが、物々しい空港のハレの場所とは違った入国気分が味わえて面白かった。
   先のハプスブルグのオーストリア・ハンガリー帝国時代には、便利な交易路だったのである。
   車で国境を越えてみようと思ったのだが、当時は、検閲が厄介で、車がボーダーで数珠繋ぎだと言われて諦めた。

   さて、切手を見ての両国の印象記が、変な車と列車と船の旅になってしまったが、要するに、ヨーロッパは陸続きで一体なのである。  
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アルゼンチン・タンゴが無形世界文化遺産に

2009年10月06日 | 海外生活と旅
   タンゴに最初に興味を持ったのは、コンチネンタル・タンゴの方で、アルフレッド・ハウゼのブラウエン・ヒンメルだったが、ラ・クンパルシータやエル・チョクロに惹かれるのに時間はかからなかった。
   アルゼンチン・タンゴ楽団が来日すると、クラシック音楽と同様にコンサートに出かけて行ったのだが、それから大分経って、ブラジル赴任が決まって、そのアルゼンチン・タンゴの故郷ブエノスアイレスを訪れることになったのである。

   もう、30年以上も昔のことになるが、パラグアイでの仕事に関係したこともあって、都合、5~6回アルゼンチンを訪れたのだが、2夜だけ、ボカの近くで、本格的なタンゴを聴く機会があった。
   最初は、高級ナイトクラブの「ミケランジェロ」でのショー、二度目は、古い居酒屋風の「ビエホ・アルマセン」でのタンゴ・ショーで、この口絵写真は、その時に撮った一枚である。(手札版のプリントをデジカメで複写)

   薄暗い古びた船の船室のようなセッティングの店の中全体に、哀調を帯びた咽び泣くようなバンドネオンに誘われたタンゴのメロディーがビートを打ち、むせ返るような雰囲気に酔いながら、壁にぴったりと背中を貼り付けて、Nikon F2のシャッターを何度も切ったのを覚えている。
   感度の低いコダックなので、手ブレを気にしながら極限のスロー・シャッターを切ったのだが、日本に帰って増感現像して、どうにか写真になった。

   先日放映されたNHKの番組では、ショー・レストランであるタンゲリーアに混じって、カルロス・ガルデルを記念した本格的な舞台を持った「タコネンド ガルデル」がオープンしたようで、豪華な舞台を紹介していた。
   しかし、私は、あのニューオーリンズの掘っ立て小屋風のプリザベーション・ホールで聞いたジャズ演奏のように、貧しいイタリア移民たちが犇き合って大海原を渡って来た船のうらぶれた船底のような雰囲気のビエホ・アルマセンの舞台の方が親しみが持てて好きである。

   ところで、イタリアやスペインなどから沢山のヨーロッパ移民が大挙して上陸したのは、ブエノスアイレスの港ボカである。
   豪華船が岸壁に横付けされている立派な港ではなく、崩れかけたようなクレーンなどの立つ工場街に似た雰囲気で、移民労働者たちが、ヨーロッパへ送る家畜や小麦などの農産物を忙しく積み込んでいた、そんな雑踏のざわめきが聞こえてくるような雰囲気であった。

   その波止場の岸壁から、ほんの数百メートル入った所に、タンゴが生まれたと言うカミニート小径がある。
   戦艦の舳先のように飛び出た三角形の建物を先頭に、鮮やかな色とりどりの極彩色のペイントで、モザイク状に塗りたくられた壁面の建物が並んでいる小道で、映画のセットを見ているような感じで、そのエキゾチックな魅力に息を呑む。
   ところが、ほんの数十メートル奥に入った裏手には、安物のスレート型の建材で壁面を覆ったバラック様の貧しい民家が、今でも残っていて、ボカが、貧しい移民労働者たちの街であったことが分かる。
   大望を抱いて故郷を後にしながら、夢破れて日々の生活に明け暮れていた労働者たちが、酒と女に溺れて彷徨していた、そんなどん底の世界から、タンゴは産声をあげたのである。

   したがって、この魅惑的なタンゴだが、売春宿を舞台に生まれ出でた音楽であり踊りであった故に、長い間認知されない、所謂、禁断のダンスと音楽であった。
   私がアルゼンチンを訪れていた頃にも、素晴らしい名曲が目白押しで世界中の人々を魅了していたにも拘わらず、まだ、アルゼンチン一般、特に、上流階級の市民やエスタブリッシュメントには、十分に認められず市民権を得ていなかった。
   それより以前だが、バチカンがタンゴ禁止令を発動したので存続の危機に瀕したことがあり、実際に法王の前で踊ってタンゴの良さを見せて禁令を解いて貰ったことがあるほどであったのだから仕方がない。

   タンゴは、元々売春宿で、男と女がお互いに誘惑し合う、言うならば、淫らな愛の交歓のために生まれたので、実にエロチックで、男女の絡み合う激しい踊りを見ていると、特に足捌きの巧みさなど、息を呑むほど蠱惑的である。
   イタリア移民たちの音楽に、キューバの船員が持ち込んだと言うハバネラや奴隷移民の黒人たちのミロンガやカンドンベなどの音楽が混ざり合って今のタンゴが生まれたと言うことだが、あの男女がぴったりと体をくっつけて踊り続けるタンゴのユニークさは、他の社交ダンスとは違った魅力を醸し出している。

   ところで、国家経済が悪くなると、アルゼンチン経済を連想させるほど、アルゼンチンは、経済的に落ちる国のイメージだが、戦前は、世界に冠たる豊かな一等国で、ヨーロッパからの移民や出稼ぎが後を絶たないほどで、アメリカ同様に、理想的な新世界であった。
   あのオナシスも、このブエノスアイレスで、下働きをしながら財を成して大富豪になったのであり、トスカニーニも、テアトロ・コロン劇場で、クライバーの代役で指揮者としてデビューしたのである。
   とにかく、広大なパンパスの豊かさは想像を絶しており、小麦はたわわに実り、牛を放牧しっぱなしでも、どんどん子牛が生まれると言った調子で、農産物の恵みは桁違いであり、ブエノスアイレスを南米のパリにするほど、国力を誇っていたのである。
   尤も、私が行った時には、インフレが凄くて、印刷が間に合わなくて、まともに色がついていない紙幣が流通していて、市内の一寸した移動のタクシーに、100万ペソ払った記憶がある。

   テアトロ・コロン劇場で、リヒャルト・シュトラウスの「アラベラ」の感動的な舞台を見たが、この劇場は、時には、世界三大劇場の一つと言われるほど豪華で素晴らしい。
   やっと、このテアトロ・コロンの舞台芸術と、国民(と言っても、アルゼンチン人は、スペイン、イタリア、イギリスなどからの移民子孫のヨーロッパ系が97%)から生まれたタンゴが、肩を並べて同格になったのだから、喜ばしい限りである。
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オリンピック2016・・・リオ・デ・ジャネイロ

2009年10月03日 | 海外生活と旅
   2016年のオリンピックは、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催されることに決まった。
   ルーラ大統領が、世界10大経済大国の中で、オリンピックを開催したことのないのはブラジルだけだと訴えたエモーショナルなアピールが成功して、南米大陸で始めてのオリンピックが実現することになったと言う。
   
   私にとって、このオリンピック委員会の選択が、興味深いのは、BRIC’sの一角である世界屈指の成長新興国のブラジルだと言うことだけではなく、アメリカからの留学帰りの荷物を解く暇もなく赴任して、1974年から1978年までの丸4年間、実際にブラジルのサンパウロで生活したので、ブラジルでの思い出が、走馬灯のように駆け巡っているからである。
   真っ先に見たブラジルは、飛行機の窓から遠望した延々と広がるアマゾンの熱帯雨林と白く光るアマゾン川であったが、その後、着陸後に見たコルコバードの巨大なキリスト像とこんもりと帽子のように盛り上がった岩山ポン・デ・アスーカに象徴されるエキゾチックなリオ・デ・ジャネイロの印象が、今でも鮮明に残っている。

   赴任を終えてブラジルを離れる前に、コパカバーナの海岸に面したホテルで2~3日過ごして、リオの思い出を心の中に焼き付けたのだが、4年間に、サンパウロからは、飛行機だったり、高速道路だったり、とにかく、仕事や休暇で、リオには、頻繁に行き来していたので、リオの思い出も沢山あって涙が出るほど懐かしい。

   リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル人は、Rをヒと発音するので、ヒオ)は、1月の川。
   ポルトガル人が、初めて1月にリオに到着した時に、湾を川と間違えて、この名前を付けたと言う。
   やはり、何を差し置いても直行するのは、ホテルのあるコパカバーナの海岸であろうか。その海岸を奥に回ると、一寸高級イメージで多少俗化を免れているイパネマ海岸があるののだが、
   この海岸線に沿って高級ホテルや高級アパートが林立していて、その豪華さと美しさは昔も壮観であった。
   
   ところが、今日のTVでも写されていたのだが、その背後の山の高台には、ファベイラと称される貧民屈が犇いていて、映画「黒いオルフェ」の頃からも、私の居た30年以上も前の風景とも、全く変わっていないのに驚かざるを得ない。
   開発の進んだ海岸線に総てのインフラが整っていて、リオの高級街は総て海岸に面した平地に広がっているのだが、貧しい人々は、インフラのない未開発の山の手に無法居住してスプロール化し、上へ上へとファベイラが広がって行く。
   今回問題になった治安もインフラも、この高級街とファベイラの隣接(?)同居に疑問符が打たれたのであろう。
   リオのカーニバルで有名だが、カソリックの謝肉祭のカルナバル(Carnaval)には、エスコーラ・デ・サンバ・グループの踊り子や楽団員たちが、この山の手のファベイラから、沢山の黒いオルフェの子孫たちがリオの街に繰り出して、何日も踊り明かすのである。
   今はどうか知らないが、私の居た頃には、カーニバル・ベイビィが沢山生まれると言う実に大らかな時代であった。

   ブラジルの永住ビザを持っていたので、更新の為、10年くらいの間は、ブラジルを往復していたが、この20年くらいは行っていないので、最近のブラジルの状況は分からないが、ブラジル・ブームの終焉と経済悪化の影響を受けて、日系企業や日本人が大挙してブラジルを離れたり、また、日系ブラジル人自体の経済力や影響力が落ちて、日本イメージが弱くなっていると聞いている。
   このブログでも書いたが、日本人も政財界も、BRIC’sの中で、近い所為か、中国やインド、それに、ロシアへの経済的政治的アプローチには非常に熱心であるにも拘わらず、ブラジルには極めて関心が薄くて冷淡だが、ブラジルには、100万人を越す優秀な同胞と言う貴重な財産があり、日本国にとって最も協力し甲斐があり、実りあるコラボレーションが出来る国だと信じているので、何時も残念に思っており、このチャンスに、意欲のある中小企業とビジネス・チャンスを開拓できたらと考えたりしている。

   ところで、ブラジルは、ポルトガル人の国だと思っている日本人が多いが、これは誤解で、南部のアルゼンチンに近い方には、ドイツやイタリアなど色々なヨーロッパの国からの子孫も多く、わが同胞などのアジア人も加えて、どこの国の言葉の通訳でも探せると言うくらい人種の坩堝で、それに、原住民のインディオや黒人たちとの混血が進んでいて、その国際性は、アメリカを遥かに凌駕しており、これだけ、異文化と異文明を糾合したバリエーションと可能性に富んだ国は皆無である。
   熱帯から温順な日本のような気候の地方まで、日本の23倍もある豊かな国だが、これまで、何度も未来の国、未来大国と言われて期待し続けられて来たのだが、今度こそ、世界が、オリンピック2016で、ブラジルに本当のチャンスを与えた。
   唯でさえ情熱的で激しいブラジル人が、意気に燃えて、今度こそと沸きかえっている。

   久しぶりのブラジルの快挙に触発されて、オリンピックと関係ない駄文を書いてしまった。
   ブラジルおめでとう。
   リオ・デ・ジャネイロ・オリンピック2016の成功を、心から祈りたい。

   ところで、一生懸命に頑張った東京の落選は、実に悲しいが、世界中に東京の素晴らしさ、未来イメージをアピールした功績は大きい。
   150億円を使ってと揶揄する世論が喧しいが、後ろを振り向くことはない。残念は残念、明日を目指して、次の手を打てば良い。
   オリンピックの夢を見ながら明日の東京を必死になって追求して来たのであるから、グリーン東京イメージを含めて、東京の目指すべき未来イメージが益々クリアになったのではないかと思うし、これこそ本当の財産であろう。

   
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