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熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

格安旅行ならメキシコへ・・・ニューヨーク・タイムズ

2009年05月10日 | 海外生活と旅
   Flu? What Flu? 
   そんなタイトルで、格安旅行をしたければ、メキシコにトライせよ、とニューヨーク・タイムズが記事を書いた。
   何しろ、メキシコ経済を支えている最大の稼ぎ頭は旅行関連事業で、昨年の収入は、133億ドルで、雇用総数は200万人、経済の8%を占めているのだが、世界的な大不況に加えて、今回の豚の新型インフルエンザが追い討ちをかけたのだから堪らない、壊滅的な打撃を受けたのである。
   
   この影響で、GDPのダウンは、0.3~0.5%だと見込まれている。
   ホテルは、50~70%のディスカウントは当たり前になり、観光会社も、保険や無料サービスなど色々な特典を付けてインフル・フリー・キャンペインにこれ努めており、それに、メキシコ政府自らも、減税やローンで21億ドル、観光産業に、その他の援助支出4.5億ドルを発表するなど、官民こぞって、観光事業の失地回復に動き始めたと言う。

   この口絵写真は、NYTからの借用だが、カンクンのホテルで、浜辺では客は皆無で閑古鳥どころではないのだが、1ヶ月でホテルの占拠率は77%から42%にダウン。しかし、これは公表数字であるから、もっと悪い筈で、クルーズ船も、メキシコの全港で、キャンセルされている。
   メキシコ・シティでは、市政府が、自ら、ホテルやレストランなど一切を閉鎖させ、情報公開や説明義務を果たすなど前向きの対応が多少評価されていると言うが、アメリカの旅行業者は、バーゲン以外に、観光客を呼び戻す方法はないと突っぱねている。
   4週間前と比べて、メキシコへのパッケジ・ツアーは、5月で70%、6月で50%安だと言われている。

   メキシコでのインフルエンザ感染者が1360人、死亡者が45人だと発表されているが、残念ながら、メキシコ政府の発表より現実はもっと深刻で、もっと以前から国内で感染しており全土に広がっていたのではなかったかと思っている。
   もう、大分、メキシコには行っていないので断言は出来ないが、メキシコは、貧富の差が激しく、特に地方の貧しさは深刻で、アメリカもそうだが、健康保険に入っていない国民が相当数いて、治療や健康管理、それに、衛生健康行政の遅れには、かなり問題を抱えている筈である。

   さて、メキシコの観光だが、私自身、仕事の出張が主体だが5~6回メキシコに行っていて、それなりに、観光ガイドに書かれている程度の観光は経験しており、確かに豊かな歴史と伝統のある素晴らしい国だと思っている。
   子供の頃、文明の頂点に達した帝国の都が、何故か、どんどん放棄されて移って行くので、当時の姿のままでジャングルに埋もれてしまい、近年、掘り起こされて欧米人を驚かせていると言う話を本で読んで興味を持って、是非、マヤ、アズテック、インカなどの古代ラテン・アメリカ文化の遺跡を訪れたいと思っていたので、
   メキシコ・シティや郊外のアズテック遺跡、ウシュマルやチチェン・イッツアのマヤ遺跡に行って、実際に、廃墟に立った時には、感激しきりであった。
   その後、ペルーで、マチュ・ピチュやクスコでインカ文明に接したのだが、わが祖先と同じモンゴリアンのアメリカ原住民もある、アリューシャン海峡を渡ってマゼラン海峡まで達した同胞が、築き上げた高度な文化文明が遠く離れたラテン・アメリカにあったと思うと、誇らしい気持ちになったのを覚えている。

   日本でも、感染者が出たと言うが、経済社会がグローバル化して便利になった分、病気も一気に国際的に伝播する。
   グローバリゼーションの光と影である。
   
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大仏次郎~歴史を紀行する

2008年12月14日 | 海外生活と旅
   神保町の古書店で、大仏次郎のエッセイセレクション3巻を手に入れた。
   普段のように殺伐とした読書をしていると、あまり手にしない本だが、短編で非常に幅広いトピックスが充満していて面白かったので読み始めた。
   最初の巻が歴史紀行で、「幻の伽藍」と言うタイトルから始まる海外の旅紀行が数編あり、時代認識が、私よりやや古い程度で、かなり近い所為もあり親近感を感じて面白かった。

   「幻の伽藍」は、シャルトル大聖堂を訪れた時の紀行で、麦畑と青空だけで、ほかに何もない地平に、かげろう光の中に幻覚のように現れたシャルトル聖母寺の伽藍の印象を綴っている。
   信仰篤い巡礼の人々が、地平にこの出現を見つけた時の感動がどれほどのものだったか、素朴に涙の出るほど心揺さぶられる思いで、思わず地にひざまづき頭を垂れたであろうと、平安朝の弥陀来迎図を引き合いに出す。

   私の場合には、同僚の運転する車で何となく着いたので、シャルトル大聖堂の大きさくらいの印象は残っているが、他には何も覚えていない。
   しかし、同じような印象は、フランスのモン・サン・ミシェルへの2回目の旅で感じたことがある。
   ヨーロッパ在住最後の時に、ロアールの古城を巡ってノルマンディへ向かった車での旅で、ラテン系のフランスでは、一寸危険かなあと思ったが、家族を伴った旅でもあったし、普通の交通機関では手に負えなかったので、ド・ゴール空港で、装甲車のようなボルボを借りて走った。

   城壁都市サン・マロで過ごした翌日、海岸よりの田舎道を通って、シェルブールの友を訪ねる途中に、モン・サン・ミシェルを訪れようと走ったのである。
   どのような植物が植わっていたのか、全く記憶にないし、膨大な写真の整理もままならないので、思い出せないが、一面全く障害物のないフラットな田園地帯が延々と広がっている前方の地平に、小さく尖塔のある置物のようなモン・サン・ミシェルのシルエットが現れたのである。

   私が、モン・サン・ミシェルを知ったのは、映画「エル・シド」の、チャールトン・ヘストンが、軍隊を率いて駆けるラスト・シーンの素晴らしい背景であった。
   これを見たくて訪れた最初のモン・サン・ミシェルへの旅は、レンヌからタクシーで走ったので内陸からであり、対岸に着くまで塔の姿は見えなかった。
   しかし、今回西海岸の田園地帯を走ってのアプローチは、かなりスピードを上げて車の少ない田舎道をとばしても、少しづつしか近づいてくれない。
   初めて、少しづつ姿を現すモン・サン・ミシェルの姿を見る家族は感激していたので、巡礼者たちの感動も、大仏次郎が書いているシャルトル詣でと同じなのであろうと思う。

   今でこそ、内陸から孤島であったモン・サン・ミシェルまで車道が通じていて、すぐ傍まで難なく行けるが、昔は多くの巡礼者たちが満ち潮に足を取られて死んで行った。
   潮の流れを島の絶壁から見ていても、満ち干の激しさは良く分かるのだが、昔は、潮が引いて陸地が繋がった時に渡るので、かなりの距離を歩くのは、命を懸けた巡礼だったのかも知れない。
   
   もう一つ、大仏次郎の紀行文の中の一節の「紳士道」に、面白い記述があり、山高帽を被り蝙蝠傘を持った典型的な英国紳士について語っており、この蝙蝠傘が、雨の為ではなく、ステッキ代わりの身だしなみ的な紳士道具だと述べている。
   私の居た英国病最盛期の1980年代頃には、蝙蝠傘を持った紳士など多くは見かけなかったが、実際にイギリスに住んでみて、雨が多くて暗い天候の土地でありながら、ここでは殆ど傘は要らないのだと分かった。
   雨そのものがやさしくて、土砂降りの長雨が殆どないので、バーバリーやアクアスキュータムのレインコートに帽子で十分なのである。

   ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの森嶋通夫教授を訪れてキャンパスを案内して貰っていた時に、雨が降り出したので、先輩とは言え大先生なので、傘を差しかけたら、「そんなこと、しいな」と言われた。
   ロンドンでは、雨に打たれるくらいは日常茶飯事で、傘など余程のことがない限り使わないのだと言うことであった。

   ロンドンの紳士だが、スーツやコートやネクタイ、マフラー、靴等々、持ち物やスタイル等身だしなみについては、その人々の生活と直結していて、日ごろ作業着で通している人が、子供の参観日に背広に着替えてネクタイを締めて行くと言った日本的な傾向はない。
   日本は、昔から職業や身分などによって言葉遣いが異なりバリエーションが豊かだが、イギリスの場合には、言葉の差は少ないが、服装や生活スタイルに大きく差がついているのが面白い。
   
   サビルロー街1番地のギーブス&フォークスを筆頭に並ぶ老舗の紳士服店、靴や帽子、アクセサリーなどはダンヒルなどのあるジャーミン街を歩けば、紳士ものは揃うであろうが、紳士そのものに成りきるのがのが難しいのがイギリスである。
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BShi;あなたが選ぶイタリア絶景50選

2008年10月05日 | 海外生活と旅
   今夜BShiで3時間半にわたって、「あなたが選ぶイタリア絶景50」を放映していたので、珍しく最初から最後まで見た。
   NHKがこれまでに取材した番組の映像を使って、視聴者の選んだ絶景をまとめて放映した訳だが、都市であったり観光名所であったり選択は区々ではあったが、それなりにイタリア観光名所総集編と言った感じで面白かった。

   私自身、仕事や観光で前後10回くらいイタリアを訪れているものの、特定の場所への行き来が多かったので、放映された絶景は30%くらいしか見ていない。
   ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネチアと言った主要都市が多くなるのだが、他に1泊以上した所は、シエナ、アッシジ、ピサ、ナポリ、ヴェローナくらいである。
   実際に出かけて行っても、フォロ・ロマーノやポンペイの遺跡など、傍まで行きながら入場出来たのは2~3回後になってからだとか、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」など、幸運にも、修復前、修復中、修復後と3度見学出来たとか、結構ハプニングなどがあって思い通りには行かなかったような気がする。

   実際に、NHKのこれまでのイタリア関係の番組を全部見た訳でもないので分からないが、放映された都市でも、私自身の好みが全く違っていたりしたり、
   あるいは、放映されなかったヴェローナなど、ロメオとジュリエットの舞台でもありローマの野外劇場を舞台に繰り広げられる壮大なヴェローナ音楽祭のオペラの魅力などを考えると、頭に「あなたの選んだ・・・」と枕詞を冠しているのがみそかも知れないと思ってしまう。
   しかし、フィレンツェのベッキオ橋の説明で、コジモが外部に出ることなく、ウフィッツィからアルノ川を渡って対岸のピッティ宮に行くために2階に「バザーリの回廊」を作ったことは知っていたが、実際に肖像画で飾られた綺麗な回廊を放映していたのなどは興味深かった。

   一番人気があったのは、ヴェネチアで、次は、フィレンツェだが、これらの都市の観光名所がスポット的に50の中に選ばれているのでダブル訳だが、私自身は、トレヴィの泉やコロッセオやパンティオンやシスティナ礼拝堂などが単体で選ばれているものの、最も魅力的で重要な筈のローマが漏れているのは解せないと思っている。
   また、「最後の晩餐」や「スカラ座」くらいで、ミラノの魅力にもあまり関心はなさそうだが、ここから車で郊外に走ると14世紀末に創建された「パヴィアの僧院」があるが、これが素晴らしく美しくて魅力的であり、私自身は、イタリアでも最高峰の歴史的建造物だと思っている。

   このような番組を見ながら、行った所は思い出を新たにし、行っていない所で魅力的な所へは何時か行ってみたいと思って見ている人が多いと思うのだが、
   私は、今回もそうだが、イタリア番組を見ると、一度、シチリア島に行って、パレルモやギリシャ・ローマ時代の遺跡などをみたいと思う。
   ギリシャやローマのみならず、アラブや南下してきたヴァイキングなどの影響もある文明の十字路的なところでもあり、これらがどのように息づいているのか非常に興味深いのである。

   余談ながら、イタリア旅行の楽しみは、何と言ってもオペラや美術など芸術鑑賞に止めを刺すが、イタリア料理の魅力が、これまた捨て難い。
   時間があれば、高級レストランで存分に美食を満喫するのも良かろうし、トラットリアなど探して地場のスローフードを楽しむのも良かろうし、
   時間がなければ、私自身は、一寸したレストランに入って、ボリュームと色々な種類のあるサラダを肴にワインを楽しむのが、結構手ごろで手っ取り早くて重宝している。
   とにかく、ワインが美味い。
   頑なに抵抗していたイタリアでも、外人観光客の要求に押されてマクドナルドなどファーストフードの店が増えたが、イタリアは、食の国、イタリア流に楽しむに限ると思っている。
   
   
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海外生活での夏のバカンス

2008年08月16日 | 海外生活と旅
   日本で働いていると、夏の休暇は、お盆を挟んでの一週間くらいが関の山だが、海外生活、特に欧米で働いていると、2週間くらいの休暇は当たり前で、全体が休暇に入るので休まざるを得ず、家で時間を持て余すわけには行かないので、日本に帰るか海外旅行に出ることになる。
   帰国してからは、日本の休暇シーズンに合わせて雑踏の中を海外に出る気持などは全くなくなってしまったし、出るとしても他の季節に変えたり、短期間の国内旅行が精々の夏のバカンスになってしまった。
   しかし、それも、子供たちも大きくなり仕事からも一線を離れてしまうと億劫になってしまって、最近では、夏も冬も、民族大移動のシーズンは、TV画面で見るだけの世界になってしまった。

   世界の秘境や一寸変わった世界遺産などエキゾチックな世界旅を続けている友人もいるが、私は、どちらかと言えば、欧米の古都等の文化・歴史散策の方が好きで、機会を見て、まだ訪れていないロシアやポーランド、ルーマニアなど東のヨーロッパを歩いて見たいと思っている。
   文明の発祥地であるエジプトやメソポタミアにも興味があったが、中東は、サウジアラビアやバーレン、アブダビどまりで、在欧当時もそれ以降も、治安が悪くて機会を逃してしまった。
   学生時代に憧れていたのは、やはり、勉強もしていたのでシルクロード旅で、西端のイスタンブールとその近辺とその西側だけなので、一度、行ってみたいとは思っている。
   全く訪れたことがないのがアフリカだが、エジプトとモロッコ、ナイジェリアなど北アフリカの歴史遺産を訪ねてみたいと思っているが夢で終わろう。

   最初の海外であるアメリカでの留学時代は、夏は夏季コースも受講していたので、長期休暇は冬だけだったが、一年目は、友人とアメリカ横断旅行を、二年目には、家族が来ていたのでヨーロッパ旅行を敢行した。
   最初の家族旅行については、その後長い間海外生活をするなどとは夢にも思っていなかったので、貧しかったけれど、ヨーロッパ留学生の里帰りパンナム・チャーター便に便乗して、ユーレイルパスを買ってヨーロッパを鉄道移動すれば、どうにか、貯金とボーナスをはたけば行ける事が分ったので、最後のチャンスだと思って決行した。

   4歳の娘を連れての21日間(里帰り便なので期間が長く、30年以上前だから格安航空券など殆ど皆無)のヨーロッパ旅は、流石に長く、パリからスイスを経てイタリア、オーストリアと3人だけで回ったのだが、英語と多少のドイツ語で押し通したけれど、別に不自由は感じなかった。
   初めてのヨーロッパ旅は、カルチュア・ショックの連続であった。家族にとっては大変な経験であっただろうけれど、我々も若かったし、その後の長い海外生活の序曲としては成功だったのかも知れないと思っている。
   パリを発ち、フィラデルフィアの夜景を眼下に見た時に、故郷に帰りついたような安著感を覚えてほっとしたのを鮮明に覚えている。
   
   その後、サンパウロ4年、ヨーロッパ8年の滞在であるから、夏冬合わせれば、相当頻繁に旅行をしたことになる。
   その間、こまめに写真を撮っていったので、膨大な量の写真だが、別に感謝はされていないが、娘達にとっては、良い記録になっただろうと思っている。
   サンパウロの時には、ブラジル国内やアルゼンチンなど近隣への旅だったが、この時も、休暇など日本への行き帰りにヨーロッパを旅していたので、私の家族旅行の大半は、ヨーロッパ域内で、行っていないのは、アイルランドとアイスランド、それに、ハンガリーとチェコを除いた東欧圏の国くらいである。

   飛行機でのアルプス越えなど実に素晴らしいし、バリエーションに富んだ美しい車窓を楽しむ列車の旅も素晴らしいが、私の場合には、全部、私自身が計画を立てて家族だけで自由気ままに楽しむ個人旅なので、自動車を使ってヨーロッパ中を走ることが多かったし、楽しい思い出も多い。
   オランダに住んでいた時は、大型のアウディ車で大陸内を走り、イギリス滞在時は、国内はベンツで走り、大陸への旅では、空港でレンタル・カーを借りて走った。
   レンタ・カーは、普通はベンツだったが、ラテン系のフランスで、ロワールから、サンマロ、シェルブール、モン・サン・ミシェル、ルーアン等を走った時には、流石に、大事を取って、ド・ゴール空港で、装甲車のようなボルボを借りた。
   私の運転が上手くないし、助手席の地図を読めないナビゲーターが喧しいので、車くらいは選ばざるを得ないのである。
   それに、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャと言ったラテンの国では、危ないので絶対に運転はしないと決めていた。
   ロンドンからの旅で、北欧など数カ国を周る旅には、当然、車よりは、飛行機と鉄道と船を乗りついてバリエーションを持たせた。
   
   久しぶりに海外の旅の思い出を書く気になったが、元々、このブログは、そのような私の旅人生を綴ろうと思って始めたのだから、ボケない内に、これから、少しづつ記憶を辿りながら、旅の思い出を綴ってみようかと思っている。
   (尤も、旅の苦労については、今なら軽く笑って済ませることが多いが、海外での仕事と生活は、いわば毎日、血の滲むような苦労と大変な試練の連続で、思い出すのさえ嫌なことも多く、平穏無事とは行かなかったことを付記せざるを得ない。)
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アンディ・グローブのブダペスト

2008年07月09日 | 海外生活と旅
   インテルのカリスマ的創業者であり経営者であったアンディ・グローブの人生と事業を描いたリチャード・S・テドローの「アンディ・グローブ:一人のアメリカ人の生涯とその時代」を読み始めて、凄まじい戦中戦後のブダペストでのユダヤ人の生活に触れ、同じく、故郷ハンガリーを捨てて亡命したジョージ・ソロスの人生と重ね合わせて、感慨を覚えた。
   アンディについては、今様イノベーターとして格好の経営者なので、後で、読書評を含めて詳述することにして、ここでは、私自身、東欧の都市としては、ベルリンの壁崩壊前後に最も良く訪れた街で、思い出も深いので、ブダペスト雑感を綴ってみたい。

   口絵写真は、ドナウ川沿いに建つ美しい国会議事堂だが、当時のネーメト首相に面会する為に訪れて、丁度、議会が終わった後で、会議場で首相と立ち話をしたのだが、殆ど総て国産品を使って建てたと言う実に豪華で素晴らしい建物であった。
   この対岸には、王宮であったブダ城が聳えており、それにマッチしたようなヒルトン・ホテルが並んで建っていて、素晴らしいパノラマ風景を作り出していた。
   丁度、その頃、経営不振で本体を売り渡してしまって対抗する為にコンラッド・ホテルを展開していたエリック・ヒルトンと一緒に、ホテル用地を取得する為に、走り回っていたのを思い出した。
   エリックは、あの売ってしまったブダペスト・ヒルトンを凌駕するホテルを建てるべく闘志満々の意気込みで、二人で、ハンガリー政府の大臣やアメリカ大使を訪問して回ったが、結局、賄賂攻勢を仕掛けたフランス勢に負けて、ホテル・プロジェクトはダメになった。
   
   私が、最初にブダペストを訪問したのは、ベルリンの壁崩壊前で、駐在していたアムステルダムからKLMで入ったのだが、絶えず監視されているようで、初めての東欧共産主義国だったので、非常に緊張した。
   殆ど記憶がなくなってしまっているが、ダッチ・ギルダーを両替した時に、多すぎると言われたことを鮮明に覚えている。
   ヘレンドやボヘミアン・ガラス製品を買って帰ろうと思っての両替で、欧米の感覚ではそれ程の金額だとは思えなかったのだが、壁の背後の世界とは金銭感覚が違っていたのかも知れない。
   もう一つ、真っ先に手配したのは、国立オペラ劇場でのオペラ観劇であった。ヤナーチェックの「カーチャ・カバノヴァー」だったと思うが、どんな舞台だったか覚えていない。
   余談だが、命からがら国境を越えてウィーンに入ったアンディ・グローブが、ウィーン国立歌劇場の安いチケットを手に入れて三つのオペラを鑑賞して、悪くはないがブダペストのオペラより劣ると評していたのが面白い。

   その後、ベルリンの壁が崩壊した後、ヨーロッパ勢が積極的に東欧にアタックし始めたので、ヨーロッパ駐在の身としてじっとして居れず、丁度、技術提携会社もブダペストにあったこともあり、頻繁に訪れた。
   ロンドンに居た亡命ハンガリー人のエージェントが顔を利かせたので、革命騒ぎのような混乱の時期だったが、主な役所を訪れて大臣たちに面会して事情を聴取したが、混乱を極めていたのが良く分かって、行方が全く定まらないので、当分仕事は難しいと感じた。
   ハンガリーの場合、東欧圏では最も欧米に門戸を開いて感覚的にも近い感じであった筈だが、ビジネス感覚など全く違っていて、欧米感覚でモノを考えて対応すると間違いを起こすことに気付いた。

   急速に欧米化が始まって行ったが、建物のあっちこっちに、まだ、ハンガリー動乱当時の弾痕跡や廃墟が残っていて、歴史と風雪に耐えてきた立派な建築物が荒れたままに放置されていたし、文化遺産が悲惨な状態のままであった。
   親しくなったブダペスト在住のハンガリー人に誘われて、荒廃を免れた歴史と伝統のあるレストランやコーヒーショップなどに連れて行ってもらったが、実に優雅でシックな佇まいで、文化と歴史の伝承が如何に大切かを身に沁みて感じて感に耐えなかったのを覚えている。
   ハプスブルグとマジャールの伝統を受け継いだ二重帝国の首都だけあると感じて、古いヨーロッパの伝統を感じつつ、旧市街のあっちこっちを歩き回った。

   ところが、このナチズムの嵐が吹き荒れたブダペストで辛うじて生き延びたアンディ・グローブも、1956年のハンガリー動乱には耐えられなくなって、とうとう故郷を捨てる決心をして、ウィーンで難民指定をうけて新天地アメリカを目指した。
   ハンガリーのユダヤ人40万人がアウシュビッツに送られて殺戮されたジェノサイトの上を行くような、ソ連によるハンガリーに対する人権蹂躙と圧制の幕開けだが、ヒットラー台頭からベルリンの壁が崩壊して冷戦が終了するまで半世紀以上もの間、ハンガリー人は、人間として生きる権利を抹殺されて来たのである。

   私は、8年間ヨーロッパに住んでいたのでヨーロッパ人が、如何に戦争を憎み平和を希求しているのかを身を持って感じている。
   EUの結成による平和社会への大きな動きは、本物だと思っているし、地球温暖化問題に対する厳しい姿勢も、平和で素晴らしい世界を維持したいと言う心からの願いが重要な役割を果たしていると思う。
   その意味では、アメリカ人の楽天的だが脳天気ぶりには、多少違和感を感じている。
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インカ文明を垣間見た思い出

2008年06月23日 | 海外生活と旅
   ブラジル移民100周年記念行事が、ブラジルで行われているが、私がサンパウロに居た時には、70周年記念で、現在の両陛下が皇太子御夫妻の時に来伯されてガイゼル大統領と共に式典に参加された。
   私は、大競技場で行われた記念式典と州宮殿での晩餐会に参加して、つぶさに、両陛下と感激する日系ブラジル人との感動的な出会いを感激しながら見ていた。
   私のように日本企業の駐在員として参加する人間と、移民された日系ブラジル人との思いには、格段の思い入れと気持ちの格差があったと思ったが、あの時は、正直な所、一緒になって、心から日本人であることを実感して感動した。

   話はブラジルとは違うが、先日、雑用をしながら見ていたので、何の番組か忘れてしまったが、NHKで、南米のインディオの一家の生活を追いながら、氷河を頂くアンデスの聖山でのお祭と聖なる宗教儀式を放映していた。
   私が、南米の各地を仕事で歩いていたのは、丁度30年も前のことだが、多少現代化した程度で、殆ど、当時のインディオたちの生活の雰囲気が変わらずに残っていたので、急に懐かしくなって当時のことを思いだした。
   この写真のように、雪を頂いたアンデスの山の中を、インディオが、アルパカやリャマ、ビクーニアを追っていた。
 
   南米が担当であったので各地を歩いたが、原住民のインディオの人々の生活に直接身近に接したのは、やはり、ボリビアのラパスやチチカカ湖など田舎に出た時で、家畜の放牧や野良仕事、時には、村祭等を見ることが出来た。
   ラパスなど富士の頂上と同じ高度で、ボリビアは高地なので結構寒く、インディオたちは伝統的な袴姿で厚着をしているのだが、太陽の光が強いので、みんな真っ黒に日焼けした顔をしている。
   我々日本人と同じモンゴロイド人種で、アリューシャン列島を渡って南米まで渡って来た人々なので、顔かたちは良く似ているのだが、どちらかと言えば顔の道具が立派なので、中々美男美女で、良い顔をしている。
   遠く雪を頂き氷河に覆われた急峻なアンデスの山並みを、或いは、芦の生えた静かなチチカカ湖をバックに佇む姿など立派な絵になる。

   ボリビアは、富や権力を握る白人たちは豪華な住居に住み豊かな生活をしていたが、ラパスに住む貧しくて家のないインディオたちは、毛布一枚で、大聖堂の軒下の石畳の上で寝ていて、夜が明けると働きに出かけるようであった。
   財産は、風呂敷包み一つなので、大事そうに背中に襷がけにして持って歩く。
   現在、インディオ出身の大統領のようだが、人口の大半がインディオだから当然であろう。

   夜には、インディオ楽団の音楽を聞きに出かけた。今、日本のあっちこっちの街角で演奏しているインディオたちの演奏姿と良く似ているが、
   むんむん人いきれのするナイトクラブなどでの演奏は、実に哀調を帯びてもの悲しく、特に、あのケーナのすすり泣くような響きを、米搗きバッタのように激しく首を振りながら必死になって演奏するインディオ奏者の姿を見て聞いていると涙が零れて来た。
   マチュピチュの遺跡で聞いたエル・コンドル・パッサのケーナの響きと共に、いまだに耳について離れない。
   ブエノスアイレスのボカで聞いたタンゴのバンドネオンの哀調を漂わせた音色、アスンションのクラブで聞いたハープの何とも言えない郷愁を誘う音色など、何故か、南米で私が聞いた音楽の思い出は、寂しく悲しいものばかりのようである。
   尤も、ブラジルでは、陽気なサンバやボサノバが多かった筈なのだが。

   ところで、NHKで放映していた宗教儀式は、街の教会にあるキリスト像を氷河の頂上まで運び上げて、日の出に輝くキリスト像を祈って荘厳するということで、インディオたちは完全にキリスト教徒になっているのである。
   南米各地には、立派なキリスト教会があり、インディオ信者が熱心に祈っている姿を良く見たが、どこの大聖堂だか忘れてしまったが、最後の晩餐の宗教画のキリストの前に置かれている皿の上の食べ物が、モルモットだったのを覚えているが、やはり、スペイン人宣教師達のインディオたちへのキリスト教への改宗努力と熱意は大変だったことが分り興味深かった。

   ところで、ボリビアには、インディオ文化を残すティワナコ遺跡があり、綺麗な彫刻のある石柱が残っていたような気がするが、やはり、インカ文明の遺跡は、マチュピチュやクスコ、リマの博物館などペルーで見たと行った方が正解かもしれない。
   クスコには、かみそりの刃一枚も隙間に入らないくらい精巧に積まれたインカの石垣の上に、立派なスペイン風の建物が建っていると言った文化の融合風景も見られるが、先ほどのインディオたちのキリスト教も、インカの伝統文化を同化しているのかも知れない。
   学生の頃から、インカ文明のことは関心を持って勉強を続けており、今、網野徹哉先生の「インカとスペイン」を読み始めている。随分新しい発見などがあって興味深い。
   
   
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ダイアナ妃の思い出

2007年08月31日 | 海外生活と旅
   「イングランドのバラ」ダイアナ妃がパリで不慮の死を遂げてから、早いもので、今日が10周年にあたると言う。
   何となくTVのチャネルを回していると、WOWWOWで、ウエンブリー競技場で開催された追悼公演会Concert for Dianaを放映していた。
   ダイアナ妃の二人の遺児ウイリアム王子とヘンリー王子が観客の中にいて若者と一緒に手拍子などを取って楽しんでいた。二人は何回か壇上に上がって妃殿下のことなどについて語っていたが、ダイアナ妃も生きておられれば46歳、全く惜しい話である。
   エルトン・ジョンが、仲間と締め括りに、Tiny DancerやAre You Ready for Love?を歌っていたが、この巨大なサッカー競技場も、素晴らしいコンサート・ホールになるものだと思って感心して見ていた。

   私は、身近にダイアナ妃を3回拝見している。
   一度は、ロンドンの繁華街にあるホームレス用の簡易宿泊施設のオープニングセレモニーで、入り口でダイアナ妃をホストの一人として並んでお迎えした時で、この時は、当然、ダイアナ妃にお話して握手もさせて頂いた。
   背は私より高くて実に優雅でスマート、この時の写真がどこかに残っていると思うが、とにかく、美しい人で、ジッと顔を拝見しながら一生懸命に仕事のことなどを話した記憶がある。
   セレモニーの時には、側に伺候していたので、妃殿下のスピーチの様子などつぶさに見ていた筈だが、覚えているのは、イスに座って綺麗なご自分の写真にサインされていた時に、すぐ隣に立っていたのだが、何故、こんなにも美しい人がこの世の中におられるのかと感激して見おろしていた強烈な印象だけである。

   もう一度は、ロイヤル・オペラ・ハウスで、バレーのガラ・コンサートの時に、観客の一人として側で拝見した。
   この時のバレーが、白鳥の湖かくるみ割り人形か失念してしまったが、ナタリア・マカロワの殆ど最後のチャイコフスキーのバレー公演で、終演後に出口でジャガーに乗り込まれる寸前であった。
   ロイヤル・オペラ・ハウスには、2階の右手一番舞台に近い所にエリザベス女王陛下用のボックス席があるのだが、この時は、2階のグランドティアのやや左手の一般席に座っておられた。
   この時の豪華で綺麗なやや濃いめのブルーのイブニングドレスが実に優雅で美しかったのを覚えている。

   最後の一回は、バービカンセンターでの、確かロンドン交響楽団のコンサートの時で、地階のホールで人が集まっているので近付いて行ったら、ダイアナ妃が、車から降りてこられたところで、私の隣にいた若い紳士が、「マム」と声をかけるとそれに気付いて近付いて小さな花束を受け取られた。よく知っている身近な友人のようで二言三言喋って御付の人のところに帰って行かれた。

   ダイアナ妃は、チャリティ・コンサートやガラ・コンサートにはよく出られていたようだが、1990以降のことなので、勿論、チャールズ皇太子とは何時も別行動であった。
   チャールズ皇太子は、ロイヤルアルバート・ホールでの、アシュケナージ指揮ベルリン放送管弦楽団のベートーヴェン第九合唱のガラ・コンサートの時に見かけたが、この時もダイアナ妃は側に居なかった。

   ところで、ダイアナ妃と臆せずにお話できたのは、その前にチャールズ皇太子と別な機会に、一度は、同じ様なお出迎えスタイルで、もう一度は、レセプションで日本の経営について少しお話をしていたので、多少高貴な方との出会いに慣れていた所為もある。
   日本なら敬語や丁寧語など沢山あって難しいが、英語の場合には、最初に、Your Royal Highness と言えば、後は丁寧にまともな英語を喋れば良いのだ、と言われていたので、その点では助かったと思っている。
   今なら、恐らく遠慮すると思うが、若かったから出来たのかも知れない。

   ダイアナ妃については、パリの死についての暗殺説など何冊か本も読んだが、スキャンダルについては興味がなかった。
   しかし、対人地雷撲滅運動やエイズ対策に対する活動などについては彼女の努力と貢献を高く評価している。
   ウエンブリーのコンサートの最後に、ダイアナ妃へのオマージュを奉げるネルソン・マンデラのスピーチがあったが、イギリスに徹底的に痛めつけられ不幸な青壮年時代をイギリスの獄中で過ごさなければならなかった人の言葉であるから、値千金の重みがある。
   ご冥福を祈るのみである。
   

   
   
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飛行機の旅

2007年08月20日 | 海外生活と旅
   中華航空のボーイング737-800の炎上事故を見ながら、幸い、自分には航空機の事故が全くなかったのを思いだして幸せを噛み締めている。
   1972年にアメリカに留学してから、その後、結構長い間、海外で生活したり、海外に関係する業務に携っていたので、飛行機に乗ってあっちこっち移動することが多かった。
   数えたことがないので分からないが、飛行機に乗ったのは1000回近くはあるような気がするが、その大部分は海外であったと思う。

   日本からの往復は、特別なことがなければ大抵JALであった。都合で外国のエアラインにしたことがあったが、正直な所、何故かこの方が面白かった。
   外国のエアラインには、夫々、個性があって興味深いが、やはり、それは、乗客や乗務員、それに、母国の空港など全体が醸し出す雰囲気が異国的でエキゾチックであったからであろうと思う。

   アメリカの飛行機については、全く、普通の乗り物と言う感じで、違和感も不安感も何もなく、安心して乗っていた。それは、大航空会社もローカル会社の小型機でも同じであった。
   しかし、ハワイについては、アメリカ人は外国のように思っているようで、本土の空港のゲートから異国情緒が漂っていて、スチュワーデスもムームーを着ていたし客の雰囲気もリラックスしていた。

   私の思い出に残っているのは、4年間のブラジル生活で飛び回ったラテンアメリカの航空会社のことである。
   今もそれほど変わらないようだが、28時間くらいかかって、ロスーリマ経由か、ニューヨーク経由でリオデジャネイロに向かうのだが、飛行機の中で二泊する形になる。アマゾンの上空で夜が少し白みかかり、それからが長い。
   少し前に、航空機が空港のガソリンスタンドに突っ込んだと言うコンゴニアス空港に着きサンパウロ市内に入るのだが、私が、ブラジルに居た時も、この空港で大きな飛行機事故があった。
   この空港の着陸用滑走路は、サンパウロに入る幹線道路の真上から始まって、自動車の上空ほんの数十メートル上を飛行機が飛んで着陸するのだが、いかに限界ぎりぎりで着地するかパイロット間で競争していて、着陸を誤って大事故を起こしたのだと新聞が報じていた。

   サンパウロからパラグアイのアスンションへ良く通ったのだが、途中にイグアス空港に立ち寄る。
   サンパウロからのヴァリーグ機は、ボーイング727か737だったと思うのだが、必ず、イグアスの滝に近付いて、上空で、右旋回と左旋回を繰り返して、軽飛行機のように、イグアスの滝を見せてくれたのである。
   随分窓から写真を撮った筈だが、季節の変わり目や水量の変動でイグアスの滝の姿が変化しているのが面白かった。
   滝壺に近付いて仰ぐイグアスの滝も凄いが、上空からの広大なイグアスの展望も壮大で、それに、悪魔の喉笛の迫力はまた格別なのである。
   流石に、アルゼンチン航空やアメリカの航空機は、こんな危ないアクロバットのようなサービスはしなかった。

   アスンションに飛ぶのに、パラグアイ航空の地を這って飛んでいるような古いターボプロップ機に乗ったり、ボリビア航空のジエット機に乗ってエンジン音を気にしながらアンデス越えをしたり一挙にゼロメートルのアマゾンに降下したりしていたが、他のラテンアメリカに行く時にも、意識して、コロンビア、チリ、ヴェネズエラ等々その国の飛行機に乗っていたが、若くて元気だった頃だったから出来たのかも知れないと思っている。

   アジアについては、中華航空や中国の飛行機についてはあまり良い思い出がないが、シンガポール航空やキャセイパシフィックは流石に立派な航空会社であったし、タイ航空なども良かった。

   ヨーロッパの滞在が一番永かったので、ヨーロッパの航空会社との思い出が多い。
   ロンドンに居た時には英国航空、アムステルダムに居た時にはKLMオランダ航空を利用することが多かったが、他の国に行く時には、その国の航空会社を使うことが多かったのは、その方が入国する時など何かと便利だったからでもある。
   特に、べルリンの壁崩壊前後にブダペストに入る時など、マレーヴ・ハンガリー航空を使う方が気が楽であった。
   ヨーロッパには沢山の思い出があるが、一つだけ書くと、それは、ローマから中東に向かう途中に、アリタリア航空機の窓から、真っ青なエーゲ海の中に、真っ白に光るテラ島(サントリーニ島)の島影を見た時である。火山で吹き飛んで周りの側だけ残った独特な島影であるから目に焼きついているのだが、期せずして見ることが出来たので、アトランティスの伝説を思い出して感慨無量であった。
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フェジョアが咲くとブラジルを思い出す

2007年06月10日 | 海外生活と旅
   淡い赤紫の地に白の裏地を付け巻き上がったビロードの様な四つの花弁の間から、鮮やかな黄色い花粉をつけたピンと四方に勢いよく張ったおしべの真ん中に一本の少し太い赤いめしべを突き出したフェジョアの花。
   梅雨の少し前辺りから一斉に咲き始めるこのフェジョアの花を見ると、無性にブラジルが懐かしくなる。
   ブラジルから帰国してしばらくしてから東京から千葉に移り住み、すぐに、近所の園芸店で苗を買って植えたフェジョアだが、すぐに大きくなって四方八方に枝を伸ばすので、今庭にある5本の木は挿し木による二代目である。

   何故か、ブラジルでのフェジョアについての印象は希薄で、実際にフェジョアの実を食べたのかどうかの記憶さえも定かではない。
   あの紫色の花をつけて堂々たる風格を持つジャカランタの木とは違って、なよなよとした細くて長い枝を四方に広げて樹形がすぐに乱れてしまうので、住宅街の樹木としては不向きで、あくまで果樹園での木であった所為で、殆ど見かけなかったのが原因かも知れない。
   当時はまだ珍しくて、同じ種類の木ばかり植えたので実付きが悪くて、実がついてもすぐに落ちてしまう。違った種類のフェジョアを植えようかと思っているのだが、これ以上庭を占領されても困るので諦めている。

   ブラジルに住んでいたのは1974年から1979年末までの4年間で、ブラジルブームで沸きかえっていた頃であるが、その後急転直下で不況に喘ぎ、今再び、BRIC’sの一つとして脚光を浴び始めている。
   30年周期のサイクルなのかも知れないが、とに角、膨大な国土に自然資源の豊かさは群を抜いていて、未来大国と言い続けられている。
   私がブラジルにいた頃は、ローマクラブによる「成長の限界」と言う経済成長に否定的な本が出ていたけれど、世界の大勢は、地球を切り刻んででも開発して経済成長を追及しようと成長一辺倒であった。
   世界中の企業がブラジルを目指して殺到し沸きに沸いたが、石油危機が勃発すると、ブラジルには石油がなかったので、一気にブームも終息してしまった。
   ところが、その後たった30年の間に、あの広大で未踏の大地であったアマゾン流域が乱開発で無残な姿を晒し始めた。

   あの30年以上も前に、初めてサンパウロの市外を見下ろしてビックリした。東京にさえ高層ビルが少なかった時代に、20階以上のビルが3000本以上も林立していたのである。
   この姿が、何となく、現在の上海の姿と二重写しになって見えて来るのが不思議である。
   ブラジルの場合は、石油危機を逆手にとって、幸いと言うべきか、石油代替エネルギー・エタノールに力を注いで世界一のエタノール先進国になった。
   しかし、その結果、アメリカ資本と一緒になって、エタノールの原料である大豆やトウモロコシの畑を作る為に、人類最後の酸素供給源であるアマゾンを切り刻んで破壊し続けている。

   中国も、やっと公害問題の深刻さを語り始めたが、経済成長ブームのお陰で水を使い過ぎ、あの強大な黄河が、年間二百何十日も断流して、上流から下流まで水が流れないと言うのである。
   水や空気のように無尽蔵にあると思っている生きとし生けるもの共有の自然財が一番危ない。
   安いと言って中国でモノを作って輸入している日本企業も、言うならば、中国の水や空気を輸入して、即ち、犠牲にして、自分たちの豊かさを享受していることを忘れるべきではない。
   時代が変わったと言うが、リービッヒの樽の法則が働いて、何処かでボトルネックが生じれば、簡単に経済システムは破綻してしまう。
   グローバリゼーションのお陰で、その連鎖は一瞬にして世界を覆う。

   フェジョアの妖しい花を眺めていて変なことを考えてしまったが、もう一度、サンパウロやリオを訪れてみたい、アマゾンやイグアスを見たいと思っている。
   アメリカで留学を終えたばかりで赴任したブラジル。
   合理的な生活に慣れ過ぎていたので、アスタマニアーナ(明日まで 明日は明日の風が吹く)、マイゾメーノス(MORE OR LESS ABOUT まあまあそんなとこですわ、ぼちぼちでんなあ)と言った生活リズムに馴染めなくて、あまり好きではなかったブラジルだが、今は、無性に懐かしくて仕方がない。
   歳の所為であろうか、不思議なものである。
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フォトアルバムセットで旅の写真集を作成

2007年06月05日 | 海外生活と旅
   キヤノンから売り出されている「フォトアルバムセット」を使えば、自分で簡単に写真アルバムが作成出来る。
   裏表両面に印刷できる写真用紙に自分でアレンジした写真をプリントして、所定のアルバムに挟んで綴り込めば出来上がりである。
   写真を編集して各ページを作成するのが多少面倒だが、これには便利なソフトがあり、それを使って構図などを決めて写真をパソコンなどから取り込ば良く、それに、説明文を書き込んだり写真の大きさは勿論自由にアレンで出来る、年賀状や案内チラシを作るのと全く同じ要領である。
   全ページが写真の印画紙で出来ているようなものだから、写真アルバムに写真を貼ったような歪さがないのが良い。

   これこそ、正に、アルビン・トフラーの言う生産消費者(Prosumer)で、消費者が自分自身で生産して消費する典型的なケースである。
   イノベーションの力のお陰で、本来プロでないと出来なかった仕事を素人でも出来るようになったので、自分自身の工夫を交えて楽しみながら物を作り出すことが出来るのである。
   多少これよりは難しいが、極めて困難であった本の出版も自分自身でパソコンを使って本を製作することが出来るし、ドットコムの会社を通せばもっと簡単に可なり安く出版できるようである。

   ところで、このフォトアルバムであるが、今のところ、まだ半年に一冊、孫の写真を集めてアルバムを作っているていどだが、これはこれで便利である。
   問題は、今までのように写真をアルバムに貼る方が簡単だしアルバムに多くのバリエーションがあって選択の楽しみもあり、それに、コスト的にもこの方が安いので、それほどのメリットはない。
   しかし、自分自身で自由自在に好きなようにオリジナルのアルバムが作成できるので、その楽しみは何ものにも変え難い。
   特に、今回、何十年も前からの過去の海外旅行などの膨大な写真をアルバムにしようと思うと、パソコンに収容してあるデジタル画像から自由に写真を選べてアレンジできるのであるから実に有難い。
   私の場合には、デジタル写真の修正や編集などは、特別な場合は別として、普通は露出補正やトリミング程度で間に合わせているが、この方面も懲りだすと大変なことになる。

   イーストマンが写真フィルムの開発と同時に展開した個人ベースの写真イノベーションが発展して、デジタル化によって益々便利になり、完全に、個人のアマチュア写真愛好家が、芸術性はとも角も、技術がプロの域にまで達して写真を楽しめるようになった。
   どんな旅の写真集が出来るのか、楽しみながら試みてみようと思っている。

   
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30年前のヨーロッパ旅鮮やかに

2007年05月27日 | 海外生活と旅
   何十年も撮り続けて来た写真を整理して、スキャナーでスキャンしてパソコンに取り込んでDVDに落として保存することにした。と言っても、フィルムと少し残っている未整理のプリントを合わせて小さな整理ダンスに2杯あるのだから気が遠くなるような話である。
   しかし、世界各地で撮り続けて来た多くの写真がある。ベルリンの壁崩壊前後の東ベルリンや東独、東ヨーロッパの写真ももあれば、アンデスのインデォやブエノスアイレスのタンゴの写真、歌劇場やシェイクスピア劇場での舞台、雑多だが色々な写真があって、涙がこぼれるほど懐かしい写真も沢山ある筈である。

   殆どネガフィルムによる写真ばかりだが、特別な保存法を採った訳ではないので、フィルムによっては黄変してしまったり、カビついたりしているのもあるが、とにかく、大切だと思うフィルムだけでも救出しようと思っている。
   40年間位の写真だが、ブラジルに居た頃のラテンアメリカ時代のフィルムは危ないが、日本での写真と欧米時代の写真はどうにか使えそうであるが、とにかく、海外でも8回、日本でも5回も宿替えをしているので、紛失しているネガも結構沢山ある。
 
   今回真っ先にスキャンしたのが、1978年3~4月に家族でヨーロッパ旅行した時のフィルムで、29年前のコダックの36EX19本分。
   その頃、サンパウロに在住していて3年間の一時帰国の途中2週間の休暇を取ってヨーロッパ2回目の長期旅行を決行したのである。
   日本製フィルムの愛好家だが、如何せんサンパウロとイタリアでは、当時のことでもありコダックを使う以外にはなかった。
   DPEは東京でやったのだが流石に日本、殆ど無傷の状態で、キヤノンのプリンターMP950が、多少時間がかかるのが難だが、色彩の劣化も程々に押さえて快調にスキャンしてくれた。
   ボルゲーゼ美術館のティツィアーノの「聖と俗」を写した写真のコピーが口絵の写真である。

   あの頃は、カメラは多少重いがニコンF2で、F1.2の標準レンズで押し通した。交換レンズは携帯が大変だったので殆ど使わず、とに角、明るいレンズで遅いシャッターでもぶれない方が有難かったし、当時は、ズームレンズなど暗い上に高くて手が出なかった。
   翌々年、フランクフルトで買ったライカR3サファリF1.4が加わり、長い間この2台でヨーロッパや海外を歩いた。

   その後、オートフォーカスの一眼レフが出たのだが、キヤノンのEOSの発売が遅かったので待てず、ベルリンでニコンF501を買って、その後、交換レンズが増えたので、EOSも買ったが、結局ニコンF801、F801s、F100とニコンを続けることになった。
   コンタックスTVSⅢやミノックスで撮った写真もあるが、大半の写真は、ニコンとライカである。
   ニコンF2は、その後、出張でサンパウロへ飛ぶ途中乗り継ぎのケネディ空港で荷物が紛失して帰ってこなかった。
   ヒースローでも荷物紛失にあったが、あの1980年代は、欧米の空港での組織的窃盗は常態で、殆ど何時も盗難の心配をしなければならなかったし、一流ホテルでも、サムソナイトが切り刻まれたことがあった。

   余談だが、あの時、ニューヨークでスーツケースが紛失し、重要書類は勿論のこと、手荷物以外は一切なくなったのだが、夏と冬の全く気候が違う北半球と南半球を着の身着のままで1週間以上も過ごすのは大変な苦痛であった。
   ブラジルとアメリカであるから、日本人の胴長単足に合う衣服などおいそれと見つかる訳もなく、出張中だから仕事だけは寸秒単位でこなさなければならない。同僚からは「あっちこっち行けてよろしいですなあ」と言われて出てきている以上泣くに泣けない、そんなこともあった。

   ところで、この1978年の旅の写真だが、一部の写真は押入れのアルバムに貼ってあるけれど、今回は全部パソコンに納まってくれたので、検索や加工が便利になった。
   小学生の息子のいる長女が、丁度同じ年頃でヨーロッパの街を走り回っている懐かしい写真が沢山出てくる。
   IT革命・デジタル化のお陰で、自分自身で自由に写真を修整し好きなように加工してアルバムが作れる、イノベーションの賜物である。
   私には、もう思い出など不要だが、娘達に、写真を整理して残しておいてやりたいと思っている。

   さて、この1978年の旅は、写真を見ると次のような旅程であった。
   サンパウロを発って、
   ローマ、ナポリ、ポンペイ
   アテネ、コリント、ミケーネ、エピダウルス
   マドリード、エスコリアール、トレド、グラナダ、
   ロンドン、
   東京へ

   学生時代に、アーノルド・トインビーの「歴史の研究」に触発されて壮大な世界史、特に、西洋史に興味を持ち、美術にも関心が移っていた頃なので、やたらと美術館・博物館を訪れて彫刻や絵画作品を撮った写真が多い。
   それに、あの時は、どうしても、パルテノンの丘で十分に時間を割いてプラトンの「ソクラテスの弁明」等を思い出しながらギリシャ文明の息吹に触れたかった。

   その後、15年ほど経ってから、国際会議の合間の土日を利用して、一人でゆっくり同じギリシャの旅の後を辿った。
   どうしてもスーニオン岬の夕日を見たくて、パルテノンからタクシーを飛ばしてギリシャの田舎を走ったのも懐かしい思い出だし、デルフィのアポロン神殿跡で真っ青な空を仰ぎながら誰もいない廃墟で何時間も瞑想に耽ったのも忘れられない。
   今度は、この旅のフィルムをスキャンしようと思っている。
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イギリスで一番美しいのは樹木・・・カレル・チャペック

2007年04月16日 | 海外生活と旅
   戯曲「ロボット」で有名なチェコの作家カレル・チャペックが、1920年に国際ペンクラブ出席で訪れたイギリスについて書いた紀行記「イギリス便り」を読んだが、時代の違いもあるが、非常にユニークな視点が面白い。
   第一印象と言う書き出しで、語り始めるのはロンドンのお巡りさんの素晴らしさで、古代ギリシャの神々もかくやとばかり、美と壮大さを基準に採用されたと断言せざるを得ないと言っているのだが、この警官や牧草地と共に、特に美しいのは主として樹木、みごとに肩幅の広い、年輪を重ねた、枝を四方に張りめぐらし、のびのびとした、おごそかな、とても大きな樹木である、と言っているのである。

   手元にあった写真を口絵に使ったのだが、これは、初夏グリーンパークを急ぐ乙女を撮った写真で、こんな感じの公園がチャペックのイメージかと思う。
   チェコは、残念ながら、プラハだけしか知らないのでチャペックの故郷の森や林がどんなのか分からないが、私の見たドイツやハンガリーに近いとするならば、どうも、原始林的な鬱蒼とした森林がかなり多く残っていて、大木はその一部を形成していてイギリスの森と違うと言うことかも知れない。
   イギリスでは、徹底的に原始林を切り開いて開発して、新たに植林しなおされているので、大きな木は、広々とした公園や芝生の緑地に、単植されていたり、比較的空間を作って植えられている。
   このために、木が自由に伸び伸びと大らかに育って行って、あの品格と威厳を備えてくるのであろうと思う。

   私の良く通った散歩道でもあったキューガーデンなども典型的なイギリスの庭園で、こちらの方は、植物学の学問研究のために多少の違いはあるが、やはり、広々とした空間に、巨大な大木が、堂々と風格と威厳を備えてそそり立っている。
   この風景や景観は、幾分新宿御苑に似ているが、もう少し自然に近い。

   もう一つ、公園でチャペックがビックリしているのは、東欧のように公園に歩行者用の小道を作って通るのではなくて、芝生の緑地をそのままじかに歩けると言うことであった。
   古い樹木の醸し出す森の中に一面に敷き詰められた緑の絨毯の上を、自由に散歩を楽しめるイギリスは、これまで見てきた国々のうちで、いちばん、おとぎ話のようで、ロマンチックな印象を与えたと語っている。

   ハンプトン・コート、リッチモンド・パーク、ウィンザーなどを訪れたようで、これらは何れも王室の宮殿や狩場の森や林だが、原始林的なところは一切ない綺麗に再開発された公園なのでそれなりに整備されていて美しい。
   勿論、イギリスのことだから、徹底的に自然らしく維持管理されているのは当然である。
   
   チャペックは、オランダから船でドーバーを渡ってフォークストンに降り立ったようだが、真っ白な断崖絶壁の出迎えが印象的だったのであろう、絵に描いている。
   鉄道でケント州の田舎をロンドンに向かった時、公園のように美しい自然風景に感激しているが、確かにイギリスのカントリーサイドは美しい。
   コンスタブルの絵のような牧歌的な風景は少なくなったが、車窓から見える田舎の風景には、豊かな自然がそのまま息づいている。
   河や湖沼なども、日本のようにコンクリートで固めたり目に見えるような形での河川工事が少ないので非常に自然である。

   チェコのボヘミアンスタイルの自然風景は、荒削りの自然そのままなので、イギリスの人の手の入った農村風景が美しく見えたのであろう。
   イギリス人が作り出すイングリッシュガーデンは、大変な人の世話と手が入っているのだが、如何にも自然そのものであるかのような風情を漂わせている。

   イギリスの名園を随分歩いたが、大陸ヨーロッパのような巨大な幾何学文様風に力で自然を組み伏せたような庭園は少ない。
   ローマやギリシャの廃墟のような点景を取り入れた不成形な造形を主体としたような庭園が多いが、この美意識は大陸ヨーロッパ人とは大いに違っている。
   自然の風景を徹底的に訓化して理想的な自然の佇まいを創り出す、それがイギリス人の美意識の根底にあるような気がしている。
   
   ところで、ここが凡人と違う所だが、チャペックは、この巨大な古木とイギリスの社会との接点を語っている。
   これらの樹木が、イギリスの保守主義に大きな影響を与えており、貴族的本能、歴史主義、保守性、関税障壁、ゴルフ、貴族達で構成されている上院、その他の特殊で古風な物事を維持している。巨大なオークの足下で、古い物事の価値、古い樹木の持つ崇高な使命、伝統の調和ある広がりを認めたいという危なっかしい気分、そして多くの時代を通じて、自らを維持するに足るだけの強さを持つ、あらゆるものに対するある種の尊敬の念を感じたと言うのである。
   私自身は、古木と伝統的保守主義のイギリス人気質の関係は、どっちがどっちと言うのではなく、両方が因であり結果だと思っている。

   更に面白いのは、古い樹木や古い物事自身には、悪戯な小鬼、風変わりで冗談好きのお化けが住んでいると言うチャペックの指摘である。
   真面目くさって謹厳実直な筈のイギリス人が、ユーモアたっぷりの冗談を連発して人を煙に巻き、何でも賭け事にしてしまう無類のギャンブル好き、これが世界に冠たるイギリス人のイギリス人たる由縁でもある。
   正装ホワイト・タイでの大晩餐会で、フィリップ殿下のスピーチ中、何分で終わるかを賭けて掛け金を集める為に帽子を回しているイギリス紳士の仲間に入ると、不思議にイギリス社会が分かったような気になった、そんなロンドン生活が懐かしくなった。
   
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ディープインパクトの有終の美・・・アスコットの思い出

2006年12月26日 | 海外生活と旅
   日頃、TVで競馬放送など見ないのだが、一昨日は珍しく、ディープインパクトが現役最後のレースに出走すると言うので、TVの前に座った。
   後から3番手を走っていたのだが、コーナー直前に、武豊騎手が一鞭あてただけでぐんぐん速力を増し、直線コースに入ると先頭集団に躍り出て、ほんの2百メートル程でトップに立ち一挙に3馬身の差をつけてゴールに突入した。
   競争する馬達も歴戦の勇士で日本でも最高峰の筈なのだが、ダントツの速さで一挙に抜き去るその凄さは、正に感動もので、感激一入であった。
   騎手の武豊さんも凄いが、ディープインパクトの凄さは群を抜いている。
   フランスでは声価を出せなかったが、元々外国からの馬に勝利など与えてくれるような国ではないから、気にすることはなかった。

   ところで、競馬については私自身偏見があったが、アスコット競馬に出かけてから考え方が変った。
   昔、阪神間に住んでいた時に、阪神競馬や園田競馬場が近くにあって、異様な感じで多くの人たちが大挙して競馬場に入っていったり、阪急電車駅に殺到したりしているのを見ていたのと、ギャンブルだと言うことに反発があったのである。
   先日、車で中山競馬場の横を偶然通ったが、兎に角凄い構えである。
   後楽園に出かけた時に、後学のためにと思って隣接している場外馬券売り場に入って様子を見ていたが、これも凄い設備であっちこっちのディスプレーやスクリーンで出走の模様が放映されていて派手な声がスピーカーからがなりたてている。
   ずらりと金属製の格子窓のある馬券売り場が並んでいて、競馬新聞や予想紙を見ながら予想をしながら馬券を買うのであろうか、沢山の人たちがあっちこっちに屯していた。
   私には、違和感があり過ぎて近寄れない空気であった。

   もう15年程も以前になるが、イギリス在住の頃、仕事で関係のあった友人の誘いを受けて2度、アスコット競馬を見る機会があった。
   メインスタンドのあるビルの2階から上の階には、裏側が通路になったセル状の個室が並んでいてそこで宴会しながら談笑し、レースが始まると競技場のある表側のスタンドに出て観戦する。
   馬券売り場は、各階の中央にあり必要な時に買いに行けば良いのだが、その階の客だけなので混む事は殆どなくて快適である。
   一寸した会社や団体になるとこのような個室を確保していて、アスコットの期間に社交場として使っているのである。

   ところで、服装は、男性はグレーの燕尾服とシルクハット、女性は帽子着用の正装と言った出で立ちで、兎に角、ヘップバーンの「マイ・フェア・レイディ」の舞台と同じで大変華やかな社交場と化し、入場時には徹底的に検査されてカメラなど持ち込めない。
   道中は、チャーターしたリムジンで往復したが、兎に角、周辺の交通渋滞は大変なものである。広大な駐車場も上を下への大騒ぎであった。
   以前に、地方への調査のためにロンドンのバターシーのヘリポートから小型ヘリで出かけたことがあるが、丁度、アスコット競馬の当日で、待合室にはシャンパンが用意されていて、アスコット客は飾り付けた馬車に乗るような雰囲気で三々五々ヘリに乗り込んで飛び立って行ったのを思い出す。

   開催少し前になると、上手のゲートが開いて、ゴールの方向に向かってエリザベス女王陛下を先頭に皇室の人びとの馬車の列が入場してくる。
   あの頃は、まだダイアナ妃殿下のにこやかな美しい姿も遠望出来た。
   女王陛下たちがメインスタジアム正面中央のロイヤル席に着かれると愈々開幕オープンである。
   伝統だから尊いのだと言っていた学者の何とかの品格と言う本がベストセラーになっていたが、このようなアスコットのイヴェントを見ているだけでも、さすがに大英帝国で、伝統を頑なに守り伝統が息づいているのが良く分かる。 

   もう一つ忘れられない競馬の思いでは、イタリア中世の街シエナでのパリオである。
   あの世界一美しいと言われているシエナの市庁舎前のカンポ広場で年に2回行われる地区対抗競馬競争で、カラフルな衣装に身を固めた地区代表の騎手が裸馬に乗って狭い広場を馬場にして派手な競争を展開する。
   遅くシエナに着いたので会場に出かけたが既に立錐の余地なく、広場に入る出入り口は殆どブロックされていて建物や観客の隙間から会場がちらちら見える程度で、仕方なくホテルに帰ってTV観戦した。
   臨場感は少ないが、丁度、ディープインパクトの走りを中山競馬場で見るよりもプラズマ大型画面で見るほうが楽しいのと同じで結構楽しめた。
   兎に角狭い馬場で90度近いカーブを裸馬で疾走するのだから危険極まりない。壁面にぶち当たってもんどりうって騎手が吹っ飛ぶ。
   ディープインパクトの時に、興奮して中々ゲートに入れない馬が一頭いたが、この時も、中々、列に並べない馬がいて延々とスタートが遅れたが、この馬がスタートし始めると一斉に馬が走り始めた。
   結果は、この神経質な馬が優勝してしまったが、イタリア語の解説なので少ししか分からなかったが、どうもこれも作戦のようであった。

   翌朝、カンポ広場に出かけたら、砂を敷き詰めた仮説馬場を片付けていたが正に祭の後の静けさ。市庁舎の前から、優勝した地区の代表達が旗手やブラスバンドを先頭に優勝馬を引き連れて派手な凱旋行進をやり始めたのと好対照であった。

   ところで、私自身、馬券を買ったのはあのアスコットの時だけだが、競馬馬の素晴らしい美しさと走りに感激してからは、競馬に対する考え方が変ってしまった。
   素晴らしい競争馬は、正に生きた芸術作品だと思っている。
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男はつらいよ・寅次郎の旅路・・・ウィーン、そして、アムステルダム

2006年12月02日 | 海外生活と旅
   今夜、NHKBS2で、「男はつらいよ・寅次郎の旅路」が放映された。
   男はつらいよの唯一のヨーロッパ編だが、私自身の良く訪れたウィーンが舞台で、それに、その頃住んでいたアムステルダムの風景が出てくるので、懐かしい。
   実際に放映されたのは1989年の夏だから、3年間住んだアムステルダムからロンドンに移り住んでいたのだが、出張で帰国した時に、レーザーディスクを買って帰りロンドンで見た。

   最初にウィーンを訪れたのは、1973年の年末から1974年の新年にかけてで、大晦日にウィーン国立歌劇場でシュトラウスの「こうもり」を鑑賞した。
   大晦日が元旦に変わる頃から、あっちこっちで爆竹の音が激しく続いていた。厳寒のウィーンだったが、灯の輝きは美しかった。
   フィラデルフィアから始めてのヨーロッパっへの家族旅行だったのだが、娘が小さかったのでオペラは私一人で出かけた。
   お客さんは皆タキシードとイブニングドレスの正装で、キャンセルの切符を買ったアメリカ人のビジネスマンと私だけが背広姿だったが、許してくれた。
   大晦日のウィーン国立歌劇場は特別で、正装した男女が豪華なロビーや回廊を2列に並んで散策する姿など正に見ものであった。

   その後、出張や家族旅行でよくウィーンを訪れたが、プライベートな時は、一度はアムステルダムから、もう一度は、ドイツのミュンヘンから、ハイデルベルクやインスブルックを経て車で走った。
   家族旅行の時は、街中のワーグナーも泊まったと言う古風で雰囲気のあるカイザリン・エリザベート・ホテルが好きで、ここに泊まっていた。
   この映画で出てくる渥美清と竹下景子がドライブして出かけたドナウ川の畔は、記憶に間違いがなければ、デュルンシュタインと言う小さな田舎町で、ホテルの窓から眺めていたので、青い縁取りのパリッシュ教会を覚えている。
   翌朝、ウインナー・コーヒーで朝食をとってから”御前様?”と寅さんが出会った川畔を散策して、娘はドナウ川に入って水遊びをしていた。どこか信州の田舎に似たしっとりとした良い所であった。
   その後、ドナウ川畔をドイツに向かって走り、バルトークがオルガニストをしていた教会を訪ね、メルヘン街道を経てアムステルダムに帰った。
   ウィーンを離れると、美しき青きドナウ川は、本当に田舎でそして牧歌的であったが、ドイツやスイスと比べるとオーストリーはやはり少し貧しくて、本当に飾り気のない田園生活を感じることが出来た。

   一度、ベルリンの壁が崩れた直後に、ウィーンからハンガリーのブダペストまで、高速船でドナウ川を下ったことがある。
   本当は、車で行きたかったが、国境を越えるのが渋滞で大変だと言うことだったので諦めたが、昔のオーストリー=ハンガリー二重帝国の息吹きを実際に感じたかったのである。
   この船旅は定期航路の交通網の一つで、観光船ではないので窓も小さくて船も水しぶきを上げて走るので見晴らしは良くなかったが、所々に古城などがあって興味深かったが、ウィーンやブダペスト近辺以外は、田舎や山や谷の殺風景な風景ばかりだったと言う印象しかない。
   ウィーンのドナウ川は、都心から離れてウィーンの森寄りなので小旅行では殆ど見る機会はないが、ブダペストのドナウ川は、ブダとペストの中間、即ち、都市の真ん中を流れているので正に生活に密着している。

   今度の映画は、観光ずれした喧騒を極めたウィーンの姿を描かずに非常にしっとりと落ち着いた街の雰囲気を醸し出していて気持ちが良かった。
   私は、ウィーン国立歌劇場のオペラを観る時は、隣のザッハーホテルに泊まる事にしていた。便利だし、それにザッハー・トルテの本物を味わえる。
   このホテルの裏にあるカフェー・モーツアルト(今回の映画で日本の団体が喫茶をしていた所?)で、良く憩っていたが、ウィーンのカフェーは何処も雰囲気があって素晴らしい。
   このカフェー・モーツアルトは、横に店舗があった三越が所有していたが、私がロンドンにいた頃手放した様である。

   この映画の最初は、アムステルダムのスキポール空港、最後は、アムステルダムのホテル・ヨーロッパの側の運河の風景が出てきたが、最初に一人で東京から乗り込んで事務所を設立し苦労しながら3年間を過ごしたところなので懐かしかった。
   KLMやBAでヨーロッパを飛び回っていたが、あの頃が、日系企業がヨーロッパで活躍していた最盛期だったのかも知れない。
   ヨーロッパでは、事務所や工場や研究所など日系企業の建設・開発が目白押しで、兎に角、忙しくて大変だったが、8年間も居たので、仕事などの合間に垣間見たウィーンの思い出も結構あったと言うことであろうか。
   
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ファベーラを観光に・・・リオ・デ・ジャネイロ

2006年12月01日 | 海外生活と旅
   朝のNHKニュースで、ブラジルの懐かしい風景が映った。
   リオ・デ・ジャネイロで、この街の象徴のような30メートルもあるな巨大なキリスト像を頂上に頂くコルコバードの丘、海岸線からコップのようにそそり立つ404メートルの岩山ポン・デ・アスーカ(砂糖のパン)の頂点、そして、コパカバーナとイパネマの海岸。
   4年間住んでいたブラジルを離れて、もう既に27年にもなるが、この映像をTVで見ると、何時も胸を締め付けられるように懐かしくなる。
   実際に住んでいたのは、サンパウロだったが、飛行機で、そして、高速道路を自動車で、仕事や観光で何度もリオを訪れた。

   ブラジルの航空機は、平気で大都市上空を飛ぶので、コルコバードの丘のキリスト像の真横を横切るし、それに、コパカバーナやイパネマの海岸にも接近する。
   コパカバーナ海岸の方が有名だが、兎に角海岸は多くの人々で一杯の極彩色の世界で、世界のファッションのアイデアが生まれ出る所だと言われていた。
   一歩奥に入ったイパネマの娘のこの海岸の方は、ずっと静かで俗化していないし高級イメージがあって、ハイソサエティのブラジル人が行くところだと言われていた。
   Nikon F2を持って水際を散策しながら、美しい人々のスナップショットを撮っていた頃を懐かしく思い出す。

   この浜は、日中は多くの水浴客で賑わうが、夜には街灯だけが明明と輝く静かな海岸に戻り、高層ビルの立ち並ぶ山側のビルの谷間が、サンバ、ボサノバ、そして、ナイトクラブの妖しい光で輝く夜の歓楽街として様相を一変させる。
   気候の良いサンパウロと比べて湿気が多くて暑くて堪らないのだが、ブラジル人はこの美しいリオ・デ・ジャネイロの街をこよなく愛する。
   首都ブラジリアが建設されて何十年にもなるが、政治家や政府高官などもいまだにリオに邸宅を構えていて週末に帰るのだと言う。

   さて、今朝のNHKの話題「ファベーラ(言うならばブラジルの貧民街)を観光案内スポット」にしているマルセロ・アームストロングと言うガイドの話だが、外国からの観光客に貧困問題を考えて貰おうと言う趣旨のようである。
   3時間3500円で、収入の一部は貧しい子供たちの為に寄付されるのだと言う。
   ファベーラのボス達とも渡りをつけてあって危険がないようにしているようだが、自動小銃を構えて雪崩れ込む警官たちを映していたのがご愛嬌であった。
   もっとも、安全な筈のスイスのチューリッヒで、小銃を構えた物々しい警官隊が凄い勢いで高級住宅街に駆け込んで取り囲んでいたのを見ているので、何処も同じなのかも知れない。

   映像を見た印象では、大分、これらのファベーラも既設の住宅街として出来上がってきている感じだが、私の知っているファベーラは、あの映画「黒いオルフェ」の舞台に良く似た、殆ど戦後の日本の掘っ立て小屋に近かった。
   このファベーラは、貧民達が創り上げた自分達の手作りの住宅街であるから、本来住所もないし言うならば無法地帯である。
   電気は無断で引き込んで使っているし、TVの聴視料など払うわけがない。
   ガス、水道も引ければ引くが、あの当時はまずそんなものには縁がなかった。

   しかし、どんなに貧しくても、サンバグループ:エスコーラ・デ・サンバを結成して、カーニバルには街に繰り出してコンテストに参加して踊り明かす。
   一年間の稼ぎをこの日の為に散在して衣装を作る。
   丁度、このカーニバルが、ブラジルは南半球なので丁度真夏になり、正に恋の季節で、父親の分からないカーニバル・ベイビーが何千人も生まれるのだと聞いた。

   日本にサンバ楽団で行ったと言う楽師を友人が知っていたので、ファベーラの彼の家を訪問したのだが、家族達は一向に貧しい生活を苦にしている様子もなく底抜けに明るかった。
   当時は、ガイゼル大統領の軍事政権だったが、為政者も金持ちの財界人も信用出来ないので自分達が自分自身の足で歩く以外にしかたがないんだと笑っていた。
   
   ところで面白いのは、日本と全く違っていて、ブラジルでは金持ちが海岸線に近い下町に住んでいて、貧民が見晴らしの良い山の手に住んでいる。
   理由は極めて簡単で、生活の為のインフラが手っ取り早く構築できる海岸線だけにあって、ここが生活の舞台であり、山の手には、ガス、水道、電気など文明生活の香りなど全くないからである。
   コパカバーナやイパネマの海岸線を走る広い道路沿いに、高級なハイライズのアパートやホテル、オフイスが林立しており、その背後の山の手にビッシリト景観宜しくないファベーラが張り付いている。

   自由勝手、とにかく、夫々が思い思いに生活している人種の坩堝のようなバイタリティに溢れた国がブラジルである。
   21世紀の大国と言われて久しいが、何年も眠ったままで、何時まで経っても一等国にはなれない。
   しかし、BRIC'sの筆頭であり、熱帯のアマゾンのジャングルから雪の降るアルゼンチン国境まで日本の国土の22.5倍もある途轍もない巨大な国である。
   ニッサンのカルロス・ゴーンのフルサト、そして、一時永住権を持っていた私にとっても故郷である。  
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