
私は、海外生活が長いし、それに、国内業務でも、かなり長い間、海外関連業務に就いていたので、JALには、随分お世話になっている。
片道一回と考えて、国内便を含めれば、100回以上は、JAL便に乗っている計算になる筈で、まだ、ANA便が少なかった頃なので、国際便は殆どJALであった。
外国へ行く時には、その国の航空機で入国するのが礼儀だと思って、共産時代のハンガリーへは、マレブ便を使い、サンパウロへの赴任時には、ヴァリーグ便を使うなど心したこともあったが、ロンドンやアムステルダムなどの勤務地やニューヨークなどアメリカへの往復などは、5回の内4回はJAL便と言った具合で、兎に角、いつもの調子で気楽な気持ちで旅が出来るので、特に考えることもなかったのである。
ところで、私が、JALを意識したのは、まだ、宝塚にいた子供の頃で、戦後初めて許されて、民間航空機の定期便が飛んだと言うので、伊丹空港まで見に行った時で、空港近くの道路の上空ま近を轟音を立てて着陸する飛行機の鮮やかな日の丸のマークを見て、感激した。
川西航空の工場だったか、何処で見たのか定かではないのだが、終戦直後、ゼロ戦の残骸が燻っているのを見ており、制空権を米軍に握られて、米軍機が伊丹空港を吾が者顔に離着陸していたのを悔しく思っていたので、日の丸の感激は、尚更であった。
その後、実際にJAL便に乗ったのは、ずっと後で、伊丹から羽田を往復したのだが、その時、上司が、飛行機をバックに写真を撮ってくれた。
海外へは、1972年に、アメリカの大学院へ留学するために羽田からサンフランシスコまで乗ったJAL便が最初で、そこから、アメリカの航空機で、シカゴ、フィラデルフィアへ飛んだのだが、全く見も知らない異国での生活が始まると言う緊張感も手伝ってか、サンフランシスコで降りたJAL機が、日本との最後の別れのような気がして、無性に心に残ったのを覚えている。
その後、アメリカ国内や休暇時のヨーロッパ旅行を皮切りに飛行機に乗ることが多くなって、JALとの二人三脚と言った海外との生活が始まったのである。
何故、JALだったのか。
英語に不自由をしている訳でもなく、外国の航空機に抵抗感があった訳でもなかったので、JALである必要はなかったのだが、やはり、私も徹頭徹尾日本人であったのであろう、とにかく、JALに日本を感じて安心していたと言うか、予約が取れないとか、何か理由があるなど特別な時意外は、ルーティン的にJALに乗って海外に出た。
JALで海外を往復していたと言っても、何をしていたのか、殆ど思い出が残っている訳ではなく、最初は、窓から風景を見たり、映画やオーディオなどを適当に楽しんでいたが、その後は、空港に着くと適当に買い物をしてさくらラウンジに入って小休止し、JAL機に乗って目的地に向かうと言う繰り返しが続いた。
機内では、殆ど、本を読んでいた。特に、意識して、経済や経営の本ではなく、歴史や芸術などと言った本が主体であった。
これだけ、JALに乗っておれば、マイレッジが貯まったであろうということだが、私の手元にある多くのカメラの内、Nikon F801とNikon F801sは、このポイントで貰ったもので、ヨーロッパ滞在中の多くの写真を撮るために役立ってくれた。
しかし、不思議なもので、これほどJALに乗っておりながら、私の飛行機旅での思い出の大半は、他の航空会社でのものである。
それ程、私にとって、JALが水や空気のようにフィットした存在だったのか、それとも、全く特色のない平凡な航空会社だったのか、不思議に思っている。
ヨーロッパでは、アムステルダムとロンドンに駐在していたので、当然、BA英国航空とKLMオランダ航空、それに、パリへの旅行も多かったのでAFフランス航空を使うことが多かったのだが、ヨーロッパでは、1時間程度の飛行で目的地に着けるので、正に、バス感覚の交通手段であった。
一度、列車TEEで、アムステルダムからブラッセル経由で、パリに入ったことがあるのだが、社内でゆっくりリラックスしながら味わった本格的なフランス料理の味や、車窓に流れる風景が、非常に印象的であったのを思い出す。
それに、ヨーロッパでは、地方空港間を結ぶ小型のグラスホッパー機が沢山就航していて、かなり、低空飛行を続けるので、眼下のヨーロッパ風景が楽しめて面白かった。
それに、アムステルダムにいた頃は、ベルギーやドイツなどの近い都市へのビジネス旅は、車で高速道路を走った。アムステルダムを朝に出れば、その日のかなり早い午後に、ブレンナー峠イタリア国境を越えることが出来るのが、ヨーロッパの道路事情だからである。
BAは、特定会員には、無料のカーサービスを実施していて、ヒースローに自分の車で乗り付けて、搭乗口近くの指定のポイントで車のキーをスタッフに渡せば車を預かってくれて、空港に帰り着いた時には、すぐに、車を駐車場から出して来てキーを渡してくれ、そのまま家路につけると言うシステムがあって、時間短縮のみならず交通の心配をせずに済み随分重宝した。
もう一つ、多忙なビジネスマンにとって重宝したのは、食事サービスで、KLMなど、アムステルダムからロンドンまで、ほんの1時間前後の飛行だが、その間に、かなり、本格的な食事を出してくれたので、(ビジネスランチはビジネスなので別だが、ヨーロッパでは普通の昼食を取るのさえ厄介なので、)昼食時間をセイブ出来て、到着後即ビジネスに入れて、日帰り出張なども容易になって非常に助かった。
ヨーロッパでは、大都市間路線のナショナル・フラッグ・キャリアー間の熾烈な競争に加えて、バージン航空を皮切りに、その後、多くの革新的な格安航空会社の参入で、航空産業自身が、イノベーションを追求して激烈な競争に勝ち抜かなければならなかったので、どの会社も差別化に必死であったように思う。
キャセイ・パシフィックやシンガポール航空などでの楽しいアジア旅の思い出、南米でのローカル機でのアンデス越え、その他、中東や欧米での面白い、時に、危険な飛行機旅の思い出など色々ある。
今思えば、JALにこだわらずに、色々な航空会社の飛行機に自由に乗っておれば、もう少し違った世界が見えていたのかも知れないが、私のように、何となくJALと言う日本人としてのロイヤリティが強いJALファンが大半で、これが、今日までのJALを支えて来たような気がしている。
世界を制覇したような勢いだったパンナムが、はるか昔に消えてしまっている。
トム・ピーターズだったか、エクセレント・カンパニーとして、デルタ航空を取り上げた頃から、航空産業は激動の時代に突入しており、現在では、経営学書でしばしば取り上げられているのは、革新的な経営のサウスウエスト航空だが、名だたる世界の航空会社が、グローバル化した国際ビジネス環境の乱気流の中で、四苦八苦しながら、明日の航空産業のあり方を必死になって模索している。
JALの経営については、これまで、辛口のコメントを続けて来たが、この19日に、会社更生法の適用を申請して、直後に、企業再生支援機構が支援を決定して、新生日本航空を目指すと言う。
私の海外生活は、JALとともにあったようなものなので、再び、世界のJALとして羽ばたく日の近いことを祈りたい。
片道一回と考えて、国内便を含めれば、100回以上は、JAL便に乗っている計算になる筈で、まだ、ANA便が少なかった頃なので、国際便は殆どJALであった。
外国へ行く時には、その国の航空機で入国するのが礼儀だと思って、共産時代のハンガリーへは、マレブ便を使い、サンパウロへの赴任時には、ヴァリーグ便を使うなど心したこともあったが、ロンドンやアムステルダムなどの勤務地やニューヨークなどアメリカへの往復などは、5回の内4回はJAL便と言った具合で、兎に角、いつもの調子で気楽な気持ちで旅が出来るので、特に考えることもなかったのである。
ところで、私が、JALを意識したのは、まだ、宝塚にいた子供の頃で、戦後初めて許されて、民間航空機の定期便が飛んだと言うので、伊丹空港まで見に行った時で、空港近くの道路の上空ま近を轟音を立てて着陸する飛行機の鮮やかな日の丸のマークを見て、感激した。
川西航空の工場だったか、何処で見たのか定かではないのだが、終戦直後、ゼロ戦の残骸が燻っているのを見ており、制空権を米軍に握られて、米軍機が伊丹空港を吾が者顔に離着陸していたのを悔しく思っていたので、日の丸の感激は、尚更であった。
その後、実際にJAL便に乗ったのは、ずっと後で、伊丹から羽田を往復したのだが、その時、上司が、飛行機をバックに写真を撮ってくれた。
海外へは、1972年に、アメリカの大学院へ留学するために羽田からサンフランシスコまで乗ったJAL便が最初で、そこから、アメリカの航空機で、シカゴ、フィラデルフィアへ飛んだのだが、全く見も知らない異国での生活が始まると言う緊張感も手伝ってか、サンフランシスコで降りたJAL機が、日本との最後の別れのような気がして、無性に心に残ったのを覚えている。
その後、アメリカ国内や休暇時のヨーロッパ旅行を皮切りに飛行機に乗ることが多くなって、JALとの二人三脚と言った海外との生活が始まったのである。
何故、JALだったのか。
英語に不自由をしている訳でもなく、外国の航空機に抵抗感があった訳でもなかったので、JALである必要はなかったのだが、やはり、私も徹頭徹尾日本人であったのであろう、とにかく、JALに日本を感じて安心していたと言うか、予約が取れないとか、何か理由があるなど特別な時意外は、ルーティン的にJALに乗って海外に出た。
JALで海外を往復していたと言っても、何をしていたのか、殆ど思い出が残っている訳ではなく、最初は、窓から風景を見たり、映画やオーディオなどを適当に楽しんでいたが、その後は、空港に着くと適当に買い物をしてさくらラウンジに入って小休止し、JAL機に乗って目的地に向かうと言う繰り返しが続いた。
機内では、殆ど、本を読んでいた。特に、意識して、経済や経営の本ではなく、歴史や芸術などと言った本が主体であった。
これだけ、JALに乗っておれば、マイレッジが貯まったであろうということだが、私の手元にある多くのカメラの内、Nikon F801とNikon F801sは、このポイントで貰ったもので、ヨーロッパ滞在中の多くの写真を撮るために役立ってくれた。
しかし、不思議なもので、これほどJALに乗っておりながら、私の飛行機旅での思い出の大半は、他の航空会社でのものである。
それ程、私にとって、JALが水や空気のようにフィットした存在だったのか、それとも、全く特色のない平凡な航空会社だったのか、不思議に思っている。
ヨーロッパでは、アムステルダムとロンドンに駐在していたので、当然、BA英国航空とKLMオランダ航空、それに、パリへの旅行も多かったのでAFフランス航空を使うことが多かったのだが、ヨーロッパでは、1時間程度の飛行で目的地に着けるので、正に、バス感覚の交通手段であった。
一度、列車TEEで、アムステルダムからブラッセル経由で、パリに入ったことがあるのだが、社内でゆっくりリラックスしながら味わった本格的なフランス料理の味や、車窓に流れる風景が、非常に印象的であったのを思い出す。
それに、ヨーロッパでは、地方空港間を結ぶ小型のグラスホッパー機が沢山就航していて、かなり、低空飛行を続けるので、眼下のヨーロッパ風景が楽しめて面白かった。
それに、アムステルダムにいた頃は、ベルギーやドイツなどの近い都市へのビジネス旅は、車で高速道路を走った。アムステルダムを朝に出れば、その日のかなり早い午後に、ブレンナー峠イタリア国境を越えることが出来るのが、ヨーロッパの道路事情だからである。
BAは、特定会員には、無料のカーサービスを実施していて、ヒースローに自分の車で乗り付けて、搭乗口近くの指定のポイントで車のキーをスタッフに渡せば車を預かってくれて、空港に帰り着いた時には、すぐに、車を駐車場から出して来てキーを渡してくれ、そのまま家路につけると言うシステムがあって、時間短縮のみならず交通の心配をせずに済み随分重宝した。
もう一つ、多忙なビジネスマンにとって重宝したのは、食事サービスで、KLMなど、アムステルダムからロンドンまで、ほんの1時間前後の飛行だが、その間に、かなり、本格的な食事を出してくれたので、(ビジネスランチはビジネスなので別だが、ヨーロッパでは普通の昼食を取るのさえ厄介なので、)昼食時間をセイブ出来て、到着後即ビジネスに入れて、日帰り出張なども容易になって非常に助かった。
ヨーロッパでは、大都市間路線のナショナル・フラッグ・キャリアー間の熾烈な競争に加えて、バージン航空を皮切りに、その後、多くの革新的な格安航空会社の参入で、航空産業自身が、イノベーションを追求して激烈な競争に勝ち抜かなければならなかったので、どの会社も差別化に必死であったように思う。
キャセイ・パシフィックやシンガポール航空などでの楽しいアジア旅の思い出、南米でのローカル機でのアンデス越え、その他、中東や欧米での面白い、時に、危険な飛行機旅の思い出など色々ある。
今思えば、JALにこだわらずに、色々な航空会社の飛行機に自由に乗っておれば、もう少し違った世界が見えていたのかも知れないが、私のように、何となくJALと言う日本人としてのロイヤリティが強いJALファンが大半で、これが、今日までのJALを支えて来たような気がしている。
世界を制覇したような勢いだったパンナムが、はるか昔に消えてしまっている。
トム・ピーターズだったか、エクセレント・カンパニーとして、デルタ航空を取り上げた頃から、航空産業は激動の時代に突入しており、現在では、経営学書でしばしば取り上げられているのは、革新的な経営のサウスウエスト航空だが、名だたる世界の航空会社が、グローバル化した国際ビジネス環境の乱気流の中で、四苦八苦しながら、明日の航空産業のあり方を必死になって模索している。
JALの経営については、これまで、辛口のコメントを続けて来たが、この19日に、会社更生法の適用を申請して、直後に、企業再生支援機構が支援を決定して、新生日本航空を目指すと言う。
私の海外生活は、JALとともにあったようなものなので、再び、世界のJALとして羽ばたく日の近いことを祈りたい。