は~とnoエース

かくすれば、かくなるものと知りながら、已むに已まれぬ大和魂。(吉田松陰)

ルンバが我が家にやって来た。。

2015-05-14 19:11:15 | マイライフ

母の日に息子が買ったものです。。
先日、届きました。。
早速、試運転したところですが、思った以上に結構パワーがありました。。
小さい段差(2~3cm??)なら軽く乗り越えて行きますね。薄目のカーペットは、なんなくクリアーです。。
試運転ではIEが部屋のレイアウトを記憶しようとしているのか、それ以上の段差にも果敢にアタックしてまして、ガチャンガチャンやってましたが、暫くすると落ち着きました。。
ようやくテリトリーを呑み込めたんだと思います。。(=^_^=)

息子の話ですと、以前にルンバが道路を走ってるのを見たことがあると言ってました。。ヘ(^^ヘ)
最近はバリアフリーの家も多いですからねぇ、戸を開けっぱなしにしていて脱走されたんでしょう。。
なるほどなぁ、と思いました。。

 

 

 

 

 


ツツジ、、、

2015-05-14 17:38:19 | マイライフ

こちらは我が家で最大のツツジ、、、、大ムラサキ、、、、
直径が3m近くあります。寄せ植えではなく一本の木から広がっています。。

こちらは生垣にしているツツジ、、、、綺麗な時は一瞬で直ぐに散って来ます。

こちらは矢車ツツジ、、、、

まだまだ沢山ありますが、代表的なものをアップしてみました。。
これからはサツキですね。。

 

 

 

 

 

 


甲府「甲斐善光寺」、飯田「元善光寺」の御開帳、、、、

2015-05-14 12:35:25 | マイライフ

善光寺という名の付くお寺は全国に100前後もあるようでして、それらの中心にあるのが「信濃善光寺」ということになります。。
考えて見れば善光寺如来さまほど時代に翻弄された仏さまもなく、武田信玄、信長、秀吉などなどなど、時の武将の身勝手?により、ご意思にはそぐわぬ形で各地を転々とするを余儀なくされて来ました。。

今回私たちは信濃善光寺の御開帳を目指して工程を組んで来たところでありますが、「善光寺如来がそうした事情で滞在したことのある他の善光寺も一緒にお参 りすべき」という寺側の積極的広報もあり、長野への道すがら寄れそうな二ヶ寺をピックアップし、そちらもお参りすることにしました。。

その一つが山梨県の甲府市にある、、「甲斐善光寺」、、です。。
こちらはその昔、武田晴信(信玄)が北信濃侵攻のおり、戦乱に乗じて信濃善光寺が消失してしまわないようにとの理由から、独断で?甲斐に疎開させたのがそもそもの始まりとされます。。
ときくと一見、「いい話系」、、みたいに聞こえますが、相手方の了承なしに持ってくるのは?本来は略○ですよね。あまり褒められたこととは言えません。。
ではありましても、善光寺さまご自身にとっては正しく「被害者そのもの」でありますし、誠にお気の毒と申す他はありません。私たちは甲斐善光寺さまも丁重にお参りしてまいりました。。
こちらに祀る御本尊さまも信濃に有るものと同じ一光三尊式の阿弥陀如来さまでして、武田氏滅亡の後、甲斐から更に次の地へ持ち去られていった御本尊さまに摸して作ったのが今日の仏像と思われます。。
実は信濃善光寺では長らくの間「御開帳」もせずにいた時期があったようでして、信者の間から今も本物が甲斐にあるのでは?と噂になった事があるらしく、そ れを払しょくする意味で、信濃善光寺にて御開帳が復活したともいわれてます。ネットの拾い読みですので与太の可能性もありますが、、、、

寺には、当時、武田が信濃から持ち帰ったとされる宝物が未だ多数残されておりまして、今回の御開帳に併せて一般公開されてましたので一緒に見て来ました。。

そして、その次に訪れたのが南信州の飯田にある「元善光寺」でした。。
これまたネットの拾い読みになりますが、こちらの寺は「善光寺」という名が付くそもそもの切っ掛けになった由緒正しきお寺でして、当地の本多(本田)善光という人が今の大阪 の難波辺りで善光寺の御本尊となる如来さまを発見し飯田に持ち帰ったのがそもそもの発端になります。。
当時は「坐光寺」という名の寺にお祀りしていたようで したが、ところがどういう理由に依るものなのか、理不尽にも時の皇極天皇が勅命を出して御本尊を信濃へと遷すことを命じたのです。。
当然そこには、、「なんで?」、、と憤る本多氏や飯田市民らの姿があったハズでして、それをなだめすかす為だったのか?、、移し先の信濃の寺名にあえて本多氏の名を取り「善光寺」としたとみられます。私の想像です。。
そこでようやく納得したのか納得せざるを得なかったのか、兎も角も、飯田にある「坐光寺」の方も、それに合わて「善光寺」へと改名されています。。
ということで、その後は信濃の「善光寺」に対し、飯田の方は本家本元の意地を示す?「元善光寺」を名乗っているようです。。

エライと思ったのは飯田の人々でして、御本尊が信濃に移った後も信仰は衰えることなく、在りし日の善光寺如来を模した御本尊を新たに作るなどして一層の信仰を深めて行ったとみられます。。
まぁ当時は側近への「賂い」で勅命が乱発される時代でもありましたから、おそらくは何らかの意図を持った者が目的を果たす為に「断れぬ条件」としての勅命を利用したのでありましょうねぇ、これらは私の想像です。。(v_v)