Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#170 助っ人事情 ①

2011年06月01日 | 1981 年 

   



3月に起きた東日本大震災や原発事故の影響で、球団に無断で帰国してしまった外国人選手も
何人かいましたが、昔から助っ人は当たり・ハズレがあったようです。



外人選手は戦前から存在していた。日本プロ野球が誕生した昭和11年のメンバー表には8人の米国籍選手の名前があった。
ただし、その選手の大部分はハワイの日系選手で元大リーガー第1号は、昭和28年に毎日オリオンズに入団したレオ・カイリー
だった。駐留軍兵士の勤務の合間にプレーしたアルバイト選手だったが、2年前にはレッドソックスで7勝7敗の実力の持ち主で
あっただけに日本の選手は太刀打ち出来ず、3週間だけだったが投手として6試合に登板し6連勝、打っても19打数10安打の
5割2分6厘をマークした。これに触発されたのか西鉄がフィル・ペインを入団させた。大リーグでの実績はカイリーより劣るものの
2年前にはブレーブスで21試合登板で2勝を記録した投手で、初登板の東急戦こそ失点1の完投ながら負け投手になったものの
中2日の毎日戦では完封勝ち、さらに中3日の大映戦ダブルヘッダー第1試合に抑えで 1・2/3回を投げた後、第2試合は先発し
自責点・1で完投勝ちした。結局ペインは9試合で4勝3敗で帰国した。しかし、こうしたアルバイト選手に対し福井コミッショナーが
各球団に自粛を要請する事となり、以後はなくなった。

今では御馴染みの不良外人もプロ野球創設時の昭和11年には既に存在していた。低迷していた大東京軍は、秋のシーズン開幕
直後の10月5日にジミー・ボンナという黒人投手と契約した。サクラメント・オークス球団所属の名投手という触れ込みで来日前の
3試合で46奪三振の実力を発揮すれば、日本では敵無しだろうと期待された。しかし実際は9回で14四死球・14失点の有様 …
秋のシーズン閉幕を待たずに11月中旬に退団・帰国してしまった。

昭和28年には、それまで外人選手がいなかった広島も日系二世の銭村健三・健四の兄弟選手を獲得した。球団初の外人選手と
いうことで熱烈歓迎を受けてオープンカーで広島市内をパレードしたほどだったが兄・健三は8打数0安打で入団から2ヶ月余りで
帰国してしまった。極めつけは昭和49年に日ハム入りしたパール・スノー投手で、2ヶ月分の給料を懐に入れると1試合も投げずに
失踪してしまったのだ。

昭和48年シーズン途中にヤクルトに入団したジョー・ぺピトーンは大リーグ歴12年で通算本塁打 219本
ヤクルト入りの直前まで34試合で3本塁打を放つなど本物のはずでしたが結果は、わずか14試合出場
1本塁打に終わり当時としては破格の6万㌦は無駄になりました。さらに昭和49年に太平洋クラブに入団
したフランク・ハワードは2回も本塁打王を獲得した通算382本塁打の選手だけに球団が本塁打数の予想
投票を募集するなど期待が過熱しましたが正解は「0本」・・開幕戦で右ヒザを痛めてしまい結局、出場は
この開幕戦1試合のみで帰国してしまいました。



記事では中日・スパイクスを絶賛していますが、オープン戦になると三振の山。開幕早々に自打球を
ヒザにぶつけてフェードアウト・・・テスト入団助っ人は安物買いの銭失いでした。







コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« #169 1981年 春のセンバツ... | トップ | #171 助っ人事情 ②   »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

1981 年 」カテゴリの最新記事