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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 663 ライバル

2020年11月25日 | 1977 年 



「あいつには負けられない」 長いプロ野球の歴史にライバル間の名勝負は尽きない。そしてその激突が熱を帯びれば帯びるほど所を変える明暗がくっきりと浮かぶ。再び大洋の監督に戻ってきた別当薫が豪打を謳われた阪神時代に静かなる彼の前に動を売り物にする藤村富美男が立ちはだかっていた。

激動の対決への宿命的な出会い
「私が打席に向かって歩いているとウェーティングサークルにいる五番打者の土井垣が言うんですよ、『藤村さん別当に負けたらあかんがな』ってね。そう言われると頭にカッーと血が昇ってね、大学出のボンボンに負けたらプロで何年も飯を喰ってきた我々は笑いモンだとね」と後年の藤村が述懐した。プロ野球史上、同一チームにおけるライバル同士は少なくない。例えば3年前までの長嶋茂雄と王貞治、中西太と豊田泰光、村山実と江夏豊など。だがそのスケールといい、迫力といい、ライバル濃度といいプロ野球史上最高のライバル関係だったのが藤村と別当だったのではないだろうか。

藤村と別当はその野球歴において正反対といっていいだろう。藤村は呉港中から昭和11年に創設された大阪タイガースに入団した。まだ海のものとも山のものとも分からない職業野球に身を投じたのである。これは余談だが当時の職業野球がどれほど稚拙だったかを物語るエピソードがある。呉港中学の学生だった藤村の自宅にタイガースの中川スカウトが訪れて藤村本人と父親を口説いたが大学進学を希望する藤村家からは色よい返事は貰えなかった。帰り支度の際に中川は「私が今日ここに伺った証としてお二人の署名を頂きたい。上司に報告しなければならないので」と1枚の書類を差し出した。二人はその書類に連名を記したが、実はそれは入団契約書だった。

だから藤村は法的には騙されてプロ入りしたことになる。契約を破棄しても問題は無かったが藤村は進学を断念した。一方の別当は違う。甲陽中から慶応大学に進学、在学中に学徒動員で海軍通信兵になり戦後に復学した。大学卒業後は実家の家業である材木業を手伝う傍らノンプロチームのオール大阪のメンバーとして試合の時だけ参加するなどを経て、自らの意思で昭和23年タイガースに入団した。決して経済的に窮してプロの世界に身を投じた訳ではなかった。藤村が別当をボンボンと称するのはこうした経緯があるからだ。それだけに別当が華々しくデビューし本塁打争いに顔を出してくると強烈なライバル意識が働いた。

藤村と別当の関係は宿命的な運命にあったと言っていい。実は藤村と別当がタイガースで共に在籍していた期間は短い。昭和42年に2リーグ分裂騒動が起こり、別当は2年在籍したタイガースから新球団の毎日に移籍した。別当本人は「尊敬する若林忠志投手と一緒に野球をやりたかったので移籍した」と言っている。その言葉に嘘はないであろうが、本音は余りにも強烈すぎる藤村の剥き出しのライバル意識に嫌気がさしたのではないかとも考えられる。

3分を間にする勝者と敗者の顔

別当は感情を表に現さない。喜びや悔しさを冷たい眼鏡の奥にジッと隠している。それが別当のスタイルだった。藤村は違う。ある日、雑誌の対談で歌手の笠置シズ子と対面した藤村は後日、笠置の舞台に招待されて日劇を訪れた。笠置は日本で初めてのアクション歌手で、その体当たりの歌謡ショーを目の当たりにした藤村は感動した。「本物のプロはあれくらいやり目立って当たり前なんだ」と。かくて藤村は打席の中で1球毎に大袈裟とも思えるくらいのジェスチャーをするようになる。自分の声は遠く離れた外野席のファンには届かないが動きでなら感情を伝えられると。

静と動がライバル同士になればどうしても動の方が目立つ。観衆は藤村にしびれた。別当としては胸の内で溢れる思いを噛みしめていただろう。果たして藤村と別当の思いがどれほどのものであったのか、数千・数万の文字を書き連ねるよりも端的に物語る試合がある。昭和23年10月16日、名古屋の大須球場で行なわれた対中日17回戦。3回表・無死三塁の場面で打者は三番の別当。ボールカウント1-2からの4球目、清水秀雄投手が投じた直球を別当は左翼席に叩き込んだ。ベースを一周する別当をウェーティングサークルで藤村が見つめる。「どうだ見たか」別当にそんな思いが浮かんでいたと想像するに難くない。

別当がホームインしても藤村は右手を差し出さない。その代わりに物干し竿バットをブンブン振り回した。打席に入った藤村はボールカウント0-3からストライクを取りにきた直球を捉えると打球は別当のそれを越える本塁打。なぜそれが分かるのか。公式記録員の治村宗三氏がスコアブックの備考欄に両本塁打を記していたのだ。『別当330フィート(100.65m)、藤村350フィート(106.75m)』と。一塁ベースを回ったところで藤村は " 万歳ランニング " をやり始めた。「どうだ俺の実力が分かったか」 藤村の後ろ姿は2万人の観衆にそうアピールしていた。たった3分前に観衆を魅了した別当は大騒ぎをする藤村をただ見つめるしかなかった。


背番号『10』の万歳背に阪神を去る
しかし別当も男である。話には続きがある。5回表、別当に第3打席が回ってきた。派手なジェスチャーだけが男じゃない。本物の男は黙って仕事をするんだ、と言わんばかりに同じ清水投手が投じた低目のカーブを捉えると、またもや左翼席に2打席連続本塁打を放った。今度も別当は黙々とベースを一周しホームインするも、またしても藤村は握手をしようとはしない。再び藤村が闘志満々で打席に向かう姿を見た中日の杉浦清監督は「あの気迫に清水じゃ抑えられない。触らぬ神に祟りなしだ」と投手を交代させた。ただし杉浦監督も洒落が効いた男で、起用したのは星田次郎投手だった。

下手投げの星田は " 死球の星田 " ・ " 死神 " と呼ばれるくらいデッドボールが多く、打者が恐れる投手として有名だった。特に一旦荒れだしたら手に負えない。左右関係なく打者は打席で腰を引いてホームベースから離れて立つ。だから外角に球を投げられると手が出ない。この年の星田は36試合・10勝8敗・防御率 2.65 と中日在籍8年間で最高の成績を収めていた。物干し竿を振り回す藤村相手に星田を投げさすとは杉浦監督も相当なプロフェッショナルである。ボールカウント0-1からの2球目、星田は内角にシュートを投げた。腰痛持ちの藤村はギックリ腰のような恰好で物干し竿を振り抜いた。

果たして打球はまたもや別当の上を行く本塁打。治村メモには『別当310フィート(94.55m)、藤村330フィート(100.65m)・2者連続2打席連続本塁打はプロ野球新記録』と記されている。藤村はまたしても万歳ランニングをやりだした。背番号『10』は踊りに踊ってベースを一周した。三塁側ベンチにいた別当は打っても打ってもあの男は俺を越えて観衆を沸かす、と唇を噛んだに違いない。背番号『10』から逃れように別当は阪神を去る。余談になるが実は藤村も毎日に移籍しないかと誘われていた。藤村の終身打率は3割、別当は3割2厘。もしも藤村も毎日に来ていたら…別当の野球人生はいかなるものになっていたのだろうか?

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